南さつま市坊津町TOPに戻る

鹿児島県南さつま市坊津町(旧:坊津町)
伊勢の安濃津、博多の那ノ津と並ぶ日本三津のひとつ。
中国や南方諸国の受け入れ口として栄えた。

2005年11月7日、加世田市・大浦町・笠沙町・金峰町と合併して南さつま市となり、自治体としては消滅しました。
歴史と景勝に恵まれ全国に知られる私の故郷坊津について調べてみました。坊津を訪ねてお楽しみください。

場所 薩摩半島の西南端、北緯31度19分、統計130度13分  
面積 38.69Ku
人口 人口4584名,世帯2032戸(2003年12月)(管理者が生まれた昭和30年は13,233名でした)。 (合併前)
地形 安藤広重の「薩摩亡ノ浦双剣石」東シナ海に面した海に沿って北西から南東に細長いリアス式海岸(約52km)を持つ坊野間県立自然公園の一部背後に急峻な山を持ち耕地面積が少ない。
秋目浦、久志浦、泊浦、坊浦等大きな入り江を持つ。
安藤広重も描いた「坊浦の双剣石」など江戸の昔から知られる景勝の地である。
泊まりや久志浦、丸木峠から見る夕日は絶景
坊津は江戸時代の人々もこの景観をこよなく愛したようで「坊津八景」として残されている。
その八景とは公家近衛信輔の選ともいわれる「中島晴嵐」、「深浦夜雨」、松山晩鐘」、「亀浦帰帆」、「鶴崎暮雪」、「網代夕照」、「御崎秋月」、「田代落雁」をいう。(坊津八景の詳細は坊浦の双剣石
リアス式の美しい海岸は釣りのメッカでもあり、瀬渡し船も多く県内外の太公望には人開聞岳気の場所。
起伏に富んだリアス式の海岸の海中は透明度もとても高く、国内では有数のスキューバダイビングのポイントです。
またスキンダイビングも楽しめる岩場と砂浜のある丸木浜や久志、網代、今岳の馬込浜等がある。(子供の頃丸木浜や馬込浜では桜貝を拾うことができました。馬込浜は今でも人が少なくゆっくり楽しめるポイントでしょう。)
日本百名山の開聞岳(薩摩富士)は枕崎から坊津に越える耳取峠から真西に見るのが一番美しいかもしれないと思っています。 MAP
気候 蘇鉄平均気温17度前後の亜熱帯性気候を思わせる温暖な気候。
秋目にはソテツ(蘇鉄)の自生地があり、ソテツ自生の北限とされ昭和27年3月29日に国の特別天然記念物に指定されている。
平崎地区にはヘゴの自生地がありオオタニワタリ等亜熱帯を思わせる植物が自生する。
役場(現:坊津支所久志庁舎) 鹿児島県川辺郡坊津町久志 2422−1  
町の花木
町の花 :ツワブキ(秋に黄色い花が咲く。若い茎は美味しく食べられる。)  
町の木 :クロガネモチ
     アコウの木(海岸沿いにしか生えない南国独特の木である。)
      秋目の小学校跡に向かう石段の脇の岩盤上に樹立する樹齢約1000年、樹形日本一、藤の花と共生する見事なアコウ      の木がある。上のサルネイム写真)
歴史 583年(飛鳥時代): 百済の日羅聖が上の坊、中の坊、上の坊の三坊を建て、手彫りの阿弥陀像を安置して、鳥越山龍巌寺と称したことに始まる。⇒10年後の593年に聖徳太子が推古天皇の摂政になる飛鳥時代です。
後に国分寺、一乗院(山号は如意珠山)が建てられる。実在がはっきりするのは南北朝時代からである。紀伊国根来寺の別院、後には仁和寺の別院として栄えた。
奈良、平安時代は遣唐使が坊津から南島路を使って派遣された。
●702年(大宝2年):6月の第6回から第11回まで、及779年(宝亀10年)5月の第14回遣唐使までが、博多津から坊津、種子島、奄美大島を繋ぎ東シナ海を渡る南西諸島ルートが採用され、7回にわたり遣唐使ら坊津を経由した。このコースは潮流や季節風の点から最も安全であった。6回から11回までが記録されている「絶海新編」は日本の中国への玄関口として、坊津が入唐道(にっとうどう)と記載され、遣唐使船の寄港地として、内外にその名をとどろかせた。当時は662年の白村江の戦いで我が国は新羅・唐の連合軍に敗れたため、朝鮮半島を統一した新羅と上手くいっておらず朝鮮半島ルートをとることができなかった。
●753年(天平勝宝5年:奈良時代)12月20日午の刻:鑑真和上が秋目浦(薩摩国阿多郡秋妻屋浦)に上陸し、一乗院に挨拶をして、博多に向う。そして天平宝字3年(759)に戒律を学ぶ人たちのための修行の道場として奈良の唐招提寺を建てる。
●894年(寛平6):真言宗一乗院の末寺の宝亀山阿弥陀寺安養院(あんにょういん)が久志博多浦に建立される安養院は廃仏毀釈で取り壊され、その跡地には現在淳厚寺が建つ。しかし、寺の前にかかる古い橋は安養院橋と呼ばれる寛政3年(1791)建設された古いアーチ橋が架かり、石塀とともに歴史を感じさせてくれる。
・この年に菅原道真の建議により遣唐使が廃止されている。
平安時代の末、藤原氏の全盛時代には、近衛家の所領、「近衛の荘」となる。
●1223年(貞応2年3月16日) 北条義時が執権の時我が国最初の海事法船法度「廻船式目」が薩州坊津の飯田備前守、兵庫辻村新兵衛尉、土佐浦戸篠原孫右衛門により制定される。
1223年(貞応2年):曹洞宗の開祖となる道元は師である京都建仁寺の明全和尚と共に坊津栄松山興禅寺に滞在し、坊の港より宋に渡ろうとするも、渡海ならず。→明全は坊で没し、道元は後曹洞宗を興している。
●1516年6月1日(永正13年):備中連島(:岡山県倉敷市連島)の「海賊」、あるいは商人の三宅 国秀が、琉球渡航のため坊津に十二艘の船舶を率いて停泊中に、島津氏の襲撃を受けて殺害された。 島津氏が編纂した史料によると、このとき国秀は琉球征服を企図しており、島津氏は将軍に討滅の許可を得て、三宅国秀一行を皆殺しにしたという。
●1549年 ザビエル上陸(上陸許可を求めて滞在した1週間の間に書いた手紙がヨーロッパに残されている。→下記に詳細記載
1562年:民代に編纂された籌海図辺に見える「鹿順馬里」は久志のことだと比定されている。
1575年(天正3年):足利将軍家の管領職を三家が持ち回りした三管領(細川、斯波(シバ)、畠山)の畠山頼国は足利幕府の滅亡を受け難を避けるために坊津に来て、髪をそり一乗院に寄寓していた。その間、藩主と交遊がありたびたび鹿児島に出て行ったようである。橘隠軒(さついんけん)と号していた。天正13年(1585年)76歳で病没。坊津鳥越に葬り墓がある。⇒因みに、関ケ原の戦いにおける島津義弘公の家老となり関ケ原における薩摩の退き口として知られる捨てがまちと呼ばれる退却戦で主君島津義弘公の名を名乗り討死したとされる長寿院盛敦の父親は畠山頼国であり坊津で生まれたとされている。
●1592年(文禄元年)9月:豊臣秀吉の命により原田喜右衛門がドミニコ派宣教師に従って久志よりマニラに出航。
●1594年(文禄3年): 後陽成天皇の勘気に触れた、京都の公家近衛信輔(信尹:のぶただ。号は三藐院(さんみゃくいん)。)が配流され同地で3年程過ごす。(近衛屋敷跡が残る)。⇒この年、豊臣秀吉が吉野で花見を行い、翌年1594年秀吉が死去する。
*近衛信輔は左大臣も勤めた上級公家で、加冠の役をつとめた織田信長の一字を貰い一時、信基と名乗った。豊臣秀吉の朝鮮出兵に当たり自らも朝鮮に渡ろうとして後陽成天皇の勘気に触れ坊津に流された。近衛流(三藐院流)を起し、本阿弥光悦、松花堂昭乗とともに後世「寛永の三筆」と称えられた。
近衛信輔から数えて11代目が近衛忠房で2008年に大ヒットしたNHK大河ドラマ「天璋院篤姫」で篤姫が島津家から近衛忠房の養女になり、敬子と名乗り、徳川家定の室となっている。
●1607年(慶長12年):民の福建泉州の商人許麗寰は薩摩に来航し優遇され、翌年久志浦から帰国した。
●1621年(明代・天啓元):茅元儀(ぼうげんぎ)が1621年に完成させた兵書「武備志」に坊津の「坊津港」・「泊津港」・「久志港」・「秋目港」が極めて大きく描かれる。
この兵法書は、主に中国歴代の兵法について述べたもの。東アジア・東南アジア各地の地図や「日本国図」も収録している。この五島列島がひとつの小さな島として描かれているが、その一方で、南九州の海岸線が詳しく描かれており、特に現在の鹿児島県坊津町に位置する「坊津港」・「泊津港」・「久志港」・「秋目港」が極めて大きく描かれている。中世の坊津は博多津・安濃津とともに「日本三津」に数えられ、16世紀後半には後期倭寇やポルトガル人などの活動の拠点となっていた。この「日本国図」は後期倭寇の根拠地である南九州沿岸部の地理を知るために作成されたものと考えられてい
る。中国が坊津諸港に対する関心の高さが伺える(埼玉の図書館でこの記録と地図を見つけた時は感激しました)
江戸時代薩摩藩の南西諸島支配の窓口となり、密貿易の拠点となる。
●1623年(元和9年):フランシスコ会宣教師エルキシア他9名が久志と推定される(コチ)に上陸している。
●1732年(享保17年):薩摩藩による密貿易取締りがあり寂れていく(密貿易屋敷と伝えられる倉浜荘があるが建物は150年ほど前の建物であり密貿易とは関係がない建物と言われている)。⇒享保の大飢饉がおこり西国を中心に250万人が大飢饉になったときです(『徳川実紀』によれば餓死者969,900人)。。
これは幕府が行なったものではなく薩摩藩が自分たちに利にならない民間密貿易を享保年間に徹底的に取り締まる政策をとり、貿易港としての機能にピリオドが打たれた。「享保の唐物崩」れと呼ばれる。

●1736年(享保21年、元文元年)頃:京都正光寺第13代教従の娘久女(穴ん婆さん)が久志に来て念仏の教えを広める?。
●1784年
: 薩摩藩の地方行政区分が外城(とじょう)を郷(ごう)に改める。⇒田沼意次の時代で福岡県志賀島で甚兵衛という百姓が田んぼで『漢委奴国王』と記されている、金印が発見した年。
坊津地区は、「久志秋目郷」・「坊泊郷」となった。郷の下に村が置かれ、現在の大字に引き継がれている。(加世田・大浦・笠沙地区は「加世田郷」。金峰地区は、「田布施郷」・「阿多郷」。)
1810年(文化7年)7月15日から20日:伊能忠敬坊津を測量文化7年(1810年)7月15日枕崎(鹿篭村枕崎浦)より坊津村に入り庄兵衛・吉兵衛宅に2日間逗留し測量。17日に秋目村に入り喜太郎・喜六宅に逗留し20日まで久志村今村浜から末柏浜、平崎秋目村を測量。21日から片浦村に入り浦人長左衛門、甚左衛門宅逗留。黒瀬から片浦を測量している。伊能忠敬の「九州東海辺沿海村順」によると久志村は家数が436戸うち本村200戸・博多浦48戸、今村浜40戸、、塩屋57戸、池15戸、末柏60戸、平崎18戸とある。
◎1824年鹿籠と現在の坊ノ岬灯台の西側のカゴ瀬を巡り境界訴訟となる。
1826年郷士伊瀬地善太夫が3年かかって紛争を解決した。それまでは火の神あたりまでは坊の領地だったものを栗野あたりまで譲ったとのこと。(坊津町郷土誌上巻430頁)
●1868年(明治元年)
:一乗院が廃仏毀釈により廃寺⇒戊辰戦争・会津で戦いが行なわれている年。
*「廃仏毀釈」とは、明治維新後に成立した新政府が慶応4年3月13日(1868年4月5日)に発した太政官布告「神仏分離令」、明治3年1月3日(1870年2月3日)に出された詔書「大教宣布」など神道国教・祭政一致の政策によって引き起こされた仏教施設の破壊などを指す。神仏分離令や大教宣布は決して仏教排斥を意図したものではなかったが、結果として廃仏毀釈運動(廃仏運動)とも呼ばれる民間の運動を引き起こしてしまった。明治4年頃にはおさまったといわれるがそれによって壊された寺や仏仏具は甚大なものが回復は長く困難であった。廃仏毀釈が徹底的に行われた薩摩藩では寺院1616寺が廃寺され、還俗した僧侶は2966人にのぼった。
●1855年(安政2年):秋目の宮内平蔵が親司として薩摩藩が作った洋式軍艦「昇平丸」を2月13日鹿児島湾を出港し、3月18日に品川沖に着き、8月13日に幕府に献上の引渡しを行い大任を果たした。⇒このときに丸に十の字の薩摩藩の旗と初めて日の丸が船印として使われたといわれている。これを最初に日の丸が国旗が使われたと言われる。明治3年太政官布告第57号(商船規則)に初めて「御國旗」として規定され、日本船の目印として採用されたのでであり、一外様大名薩摩藩が掲げたのを国旗と呼ぶかどうか。⇒山梨には武田信玄が使っていた日本最古の日の丸が残っています。甲府勤番風流日誌
●1855年(安政2年)9月:薩摩藩士八田友紀が秋目を通過した時に「浦つたひかれてもあかぬ見る目をばあきめとたれがよみたがへけむ」と詠んでいる。
●1889年 (明治22年4月1日)
: 町村制施行により川辺郡泊村、坊村、久志村、秋目村の4村が合併し西南方村となる。(ちなみにお隣の枕崎は東南方村でした。)
●1894年 (明治27年7月24日):大惨事黒島流れ。黒島沖で鰹を釣っていた多くの漁船を台風が襲い坊津(西南方村)(165名)、枕崎(東南方村(411名)、野間池と片浦(137名)の713名が死亡した。殆どの遺体が黒島に流れ着いたという。近隣の集落から多くの男が失われた。(詳細については下の「黒島流れ」に記載する)
●1927年(昭和2年):泊出身の原耕、南洋漁場開発の遠洋航海に出発する。
●1929年(昭和4年):今岳池屋敷の入来万ノ助がポンカンを今岳に始めて植樹する。
1948年(昭和23年):玉川学園久志高等学校開設(全日制普通科・定時制普通科)
●1951年(昭和26年4月):村立坊津病院開設(現南さつま市立坊津病院)
●1953年(昭和28年)坊津村に名称変更なる。
●1955年(昭和30年11月1日):町制施行により坊津町となる。(管理者が生まれた年です。)
●1968年(昭和38年):坊津高校が廃校になり、枕崎水産高校(現鹿児島水産高校)に無線科ができる。(子供の頃のかすかな記憶では町立(現市立)病院のある場所に沢山のアンテナが建っていたようながするが・・)
●1971年(昭和46年3月)今岳小学校閉校。第45回卒業生(男子7名、女子4名)11名。計1004名が卒業。⇒今岳集会所(小学校跡地)門の右脇に記念碑が建ち最後の卒業生の名前が彫られています。因みに、管理者の妹が卒業番号1000番でした。
秋目小学校も同時に閉校。石の階段の途中に大きなアコウの木があり蘇鉄やリュウゼツラン、ハマユウが沢山はえている明治21年に開校された歴史ある学校でした。
1972年(昭和47年5月30日):「絹本著色八相涅槃図」が国指定有形重要文化財に指定される。鎌倉時代の作られたもので画面中央に大きく釈迦入滅の景を描きその上方に、葬送・仏棺飛行等入滅後の説話を描き、さらに左右の縁辺には、入胎、誕生、試芸等、初転法輪までの仏伝の諸説話を描き添えたものである。
●1973年(昭和48年):歴史民俗資料館開館→2004年輝津館に移行。
           県道笠沙枕崎線が全線開通
1979年(昭和54年):玉川学園久志高等学校廃止。
1990年(平成2年):「007撮影記念碑」が秋目の青年達で作る青風会(当時の会長宮内一朗)により建立される。
「YOU ONLY LIVE TWICE OUR JAMES BOND FILM,"YOU ONLY LIVE TWICE" WAS FILMED ON LOCATION HERE AT AKIME」プロデューサー、アルバート・R・ブロッコリ氏の英文証明と主演のショーン・コネリー、丹波哲郎両氏ののサインが刻まれている。
1992年(平成4年):鑑真記念館が秋目に開館
●1993年(平成5年4月):県道笠沙枕崎線が国道226号線に昇格(鹿児島市から指宿、頴娃、枕崎、坊津、野間岬、笠沙、大浦加世田を結ぶ、薩摩半島の南部を一周する国道。)
●2001年1月(平成13年):双剣岩周辺が国指定名勝となる。
●2004年(平成16年):坊津歴史資料センター 輝津館(きしんかん)開館。坊津町歴史民俗資料館の収蔵品を受け継ぐ。
●2004年12月11日:鹿児島県坊津町の坊津歴史資料センターで現存するものとしては最古とみられる14世紀の日本地図が発見される。確認された日本地図は、幅約14cm、長さ約72cmで細長い形。「建徳元年極月十日肥州山鹿庄於、金剛乗寺書寫畢、金剛資隆尊」と朱書きで記され、1370年(南北朝の頃)でに現在の熊本県北部にある寺で「隆尊」という人物が描いたとみられている。
●2005年11月7日: 加世田市・大浦町・笠沙町・金峰町と合併して南さつま市となり、自治体としては消滅した。
2010年4月:坊津学園開校:旧坊津町内の4小学校(久志、坊津、清原、栗野)と2中学校(久志、坊泊)が閉校となり小中一貫校「坊津学園」が開校。
2011年3月、南さつま市坊津庁舎緑地に坊津友の会が「坊津街道(薩摩街道)」の始点、終点の道標を建立。坊津街道は長崎街道の福岡県筑後市内(山家宿)からを南に分岐し、肥後を経て薩摩国、鹿児島城下から坊津港を結ぶ395kmの街道。大宰府政庁の設置により連絡交通のため発展し、参勤交代や生産物資の流通、旅人の通行にも利用されたという。
●2013年1月(平成25年)国道225号線丸木崎トンネル開通。
文化 1984年8月15日 秋目鑑真大和上まつり@五月上旬 唐から祭り(泊まり地区) 紙兜に浴衣姿の男の子たちが、昔の交易船をかたどった唐から船を引っ張り、無病息才を祈願する今岳池屋敷の十五夜の相撲(1984年)相撲を取っている左側が管理者です。祭。
A旧六月(各集落) 六月灯
Bお盆過ぎの最初の日曜日 鑑真大和上まつり
(写真は1984年秋目で撮った写真
C8月15日 久志盆踊り  2008年8月15日の久志の盆踊り 動画wmv
D旧八月十五日  十五夜(各集落)(国指定重要無形文化財) 大綱引きや相撲が行なわれる。

1984年8月15日 秋目鑑真大和上まつりE十月第三日曜日(坊) ほぜどん 鹿児島では、秋祭りを「ほぜ」と呼ぶ。坊津の鎮守八坂神社の例大祭「新嘗祭」が坊ほぜどんと呼ばれる。起源は室町時代と伝えられる、女の子が頭に賽銭箱を載せた十二冠女が練り歩く雅な祭り。(*「ほぜ」とは豊穣が訛ったものと言われる。)
言葉 坊津町の言葉は鹿児島市内の薩摩弁は異なり単語とイントネーションがまったく異なります。
いわゆる浜言葉独特の言葉を短縮する傾向が顕著です。イントネーションも普通の薩摩弁の逆になっています。
ザビエルの上陸 






NHKBS英雄たちの選択
 1549年7月22日に鹿児島市の甲突川にあった入り江に上陸したとされています(ザビエル上陸記念碑)が、現在では坊津にジャンク船(中国の船)で着きそこで上陸許可を求めたというのが歴史学者の見解のようです。NHKBSの「英雄たちの選択」出も坊津が上陸地とされていました。それはジャンク船でで来るような身元不明の輩の船を薩摩の中心地に直接乗り入れさせるはずはない。外国船の検疫をする番所があった坊津に来るのが筋だということです。
このことは司馬遼太郎も昭和43年の県の青年の集いにて「歴史における薩摩人の能力」の講演でフランスシコ、ザビエルは津に一週間滞在し報告書を次のように書いた。
「国民は聡明で名誉を重んじ辱められると然と戦い気はやさしく、勇敢で秩序を好みモラルも高い民族でキリスト教国以外でこれほど優れた国は見たことがない。と書き送った。その日本人を代表するのが薩摩人であり、厳密にいえば坊津の人達だったのである。日本が植民地化を免れたのは、坊津のおかげである。」と坊津を大いに賞賛し新聞にも紹介された。
穴ん婆さんの言伝え 「尊牛山の山腹に大きな岩穴があり、昔、久志に都の高貴な女性が念仏を伝えたが一向宗に対する迫害があり、上野集落に身を隠し、そのあと尊牛山の山腹にある岩穴でに移り住民の加護を受けて生きの伸びたという。そこで村人は「穴ん婆さん」と呼んだ。しかし、ひな祭りの日に死んだとか、密告され捕らえられ処刑された。」とか伝えられている。これが私達が子供の頃、聞かされた「穴ん婆さん」伝説である。久志中学校の校歌にも「尊牛、車、陣が岳・・」と歌われ、校歌を歌うたびににこの話が頭に浮かぶほど周知の言伝えだった。穴婆さん
調べてみるとこの高貴な女性は神武天皇から数えて112代の霊元天皇( 1663 〜 1688 )の皇子勝宮の乳人を勤めた京都正光寺第13代教従の娘・久女である。勝宮は 1713 年 5 歳で亡くなられる。父君の霊元天皇はその後、皇子について霊夢を感じて 33 体の観音像を刻み、これを全国 33 所の霊跡に奉納することを久女に託されました。久女は霊跡を廻り、1736(享保21年)年頃久志にやってきた。それからは先は言伝えの通りらしい。久志地区で言い伝えられている通りらしい。1738年(元文元年)3月3日にここで死んだとか密告により捕縛され処刑されたと言うが明らかでない。
日の丸をはじめて掲げた宮内平蔵 1855年(安政2年)、島津斉彬は琉砲船「昇平丸」を幕府に献上するが、宮内平蔵の碑このとき初めて日章旗が船尾部に掲揚された。これが日章旗を日本の船旗として掲揚した第1号であるとされている。そしてその後1859年(安政6年)、幕府は幟から旗に代えて日章旗を「御国総標」にするという触れ書きを出し、日章旗が事実上国旗の地位を確立した。
このとき船の脇船頭や船長と共に船の3役で、船の総指揮官である「親司」を勤めたのが秋目の宮内平蔵である。弱冠24歳でこの大役を務め「閼伽の間(赤の間:あかのま)」の漁場を賜っている。平蔵を讃えた日の丸を描いた碑が秋目の鑑真記念館の下に建っている。
この平蔵の子孫が現在南薩地区の漁業者のリーダーとして沖秋目島野間池側の高根を魚場として定置網を経営(有限会社高根漁業)し、各方面で頑張っています。 高根は「こね」と読みますが、市場などの発泡スチロールで「高根」のマークを見たら彼のとった「東シナ海の天然活魚」です。イチロー・ガンバレ!
 黒島流れ(六月流れ)  1894年 (明治27年7月24日):大惨事黒島流れ
黒島は坊の岬の南南西(208.7度)52qの海上に浮かぶ島で坊津からはどこからでも見えている島。
その日は、北東風の大漁日和だった。午前10時頃、急に南東の強風に変わり、台風は西南海上で急速に発達、黒島付近を通過すると猛スピードで対馬海峡した。黒島沖で鰹を釣っていた多くの漁船を台風が襲い坊津(西南方村)(165名)、枕崎(東南方村(411名)、野間池と片浦(137名)の713名が死亡した。殆どの遺体が黒島に流れ着いたという。近隣の集落から多くの男が失われた。
当時の南薩の主要産業は漁業特にカツオ漁であった。まだ遠洋漁業の技術が確立する前であり漁場は種子島や黒島周辺であった。
その事故の詳細については「鹿児島百年明治編」に詳しい。
「明治28年7月24日暴風あり。陸上の損害特筆すべきものなし。海上の椿事は聞くだに旋律措く能わざるものあり。これ実に509人の生霊を海底に葬りたる惨事にして、即ち東南方村枕崎、中村吉次郎外12人の所有漁業帆船13隻は出漁中、大島郡黒島近海に於いて風波のため難破し、溺死を遂げたるもの360名、同村小湊篠原益雄外2名の鰹漁業帆船3隻、また同海に於いて風波のため破船し、溺死を遂げたる者99名、西南方村泊、早水直次郎外2名の鰹漁業帆船3隻、なお黒島近海において破船し溺死を遂げたる者50名以上の死体は大部分黒島に漂着したるを以て、南方警察分署長伊集院警部は、同島へ出張し検視をなしたるも、腐乱に近き数多の死体は其誰たるを識別するに由なく、山なす死体は石油を注ぎ焼却し、遭難者の遺族はその骨灰を分配して土葬をなしたり。これを称して黒島流れといい、東西南方村に寡婦多きを見るはこれに基づくもの多し」とある。
ご覧御とおり、南薩ではこれにより多くの男たちを失った。それにより記録にあるように多くの寡婦が生じ生活は困窮を極めた。これを救済したのが大願寺の僧侶兼弘教真がその惨状を見て鰹節の行商を勧め「鰹節はいやはんかな」という鰹節行商が始まったという。当時の鰹節製造は船主が行っていたこともありその理解もあり寡婦である女達の名物の行商が始まったという。(鹿児島県立短大の行商の論文等に詳しい)
枕崎駅前にあるかつお節行商の像はそのような悲しい歴史を背景とするものである。
007は二度死ぬ「You Only Live Twice」 1967年公開の007シリーズ映画第5作目の「007は二度死ぬ:You Only Live Twice」は1966年(昭和41年)8月ションコネ007はニ度死ぬの碑リー(ジェームス・ボンド)、丹波哲郎(タイガー)、浜美枝(キャシー鈴木)などが秋目でロケをおこないました。毎日大きなニ翼のヘリコプターでスタッフが秋目の村の上の畑に作ったヘリポートに指宿から飛んできていました。
撮影は日本の昔ながらの漁村という設定で、当時の建物はワラぶき、ベニヤ張りの古びた小屋に変身、舗装道路には土がまかれ草まで植えられカムフラージュしていました。 私たちはまだ小学生でしたが笠沙高校の女子高生が当時まだ珍しかったビキニで海女のエキストラで出るという話しが出たり、村の入り口のコンクリートの橋を木製に作り変えて問題になったと記憶しています。秋目小学校の校庭がスタッフの野外レストランでテントが沢山並んでいた。
映画の中でジェームス・ボンド007がスペクターの基地のある沖秋目に向かって伝馬船をこぐ場面では背後に「今岳」がくっきり写っています。沖秋目島(びろうじま)が米ソの衛星を捕獲に行くスペクターのロケット基地の設定であった場所で、この島の裏にある岩の割れ目から敵と戦ったジェイムス・ボンドや丹波哲郎達が脱出してくる。DVDを見たらしっかり見てください。 上の「高根漁業」定置網のある前です。
007は二度死ぬ「You Only Live Twice」はイアン・フレミングの長編小説007シリーズ第11作。
ポンカン発祥の地 ポンカンを坊津にもたらした入来長助の碑久志今岳は昭和4年入来長助氏がポンカンを植えてその後坊津ポンカン発祥の地とされています。
ここの南向きの急斜面できたものは高級なポンカンとして知られる。
今岳集落の入り口に「ポンカン発祥地」の碑が建っている。
サソリモドキ 海岸沿いには「サソリモドキ」が生息している。
自生するものとしては坊津が北限であると今岳小学校の担任の先生に教わった。
海沿いの側溝や丸木浜のカヌー乗り場のそばなどでよく観られる。
坊ノ岬灯台 南西端に位置する坊ノ岬には、坊ノ岬灯台がある。 位置:北緯31度15分01秒 東経130度13分00秒 
塗色構造:白塔形、灯 質:群閃白光、 毎30秒に3閃光、光達距離:21.0海里、塔 高(構造物の高さ) : 12.0m 灯 高(光までの高さ) :海抜 84.0m
光達距離 : 21.0海里(約39km) 初 点 灯 : 大正11年7月15日
国道226号線から海岸に下りあとは15分ほど歩く。灯台職員の旧退息所(灯台守の官舎)跡が残っている。第十管区海上保安本部串木野海上保安部の管轄の灯台である。
馬来丸(マレー丸)撃沈の地 昭和20年1月25日伊万里湾を出向した帝国陸軍輸送船(戦時徴用船)「馬来丸(マレー丸):満州の歩兵四六連隊第三大隊の主力が乗船」が13時50分、鹿児島県久志湾口北側付近(北緯31度18分東経130度11分)を航行中アメリカ潜水艦の魚雷を右舷二番艙、船橋下部に相次いで被雷し13時53分、126mの海底に沈没。乗船部隊1,493名、船砲隊46名、船員37名が戦死。沢山の将兵の死体が流れつき、その日はとても寒くて時化ており、泳ぎきった兵士も寒さのため多くが死んでいたという。そして一帯の浜で荼毘にふされた(参考:麹町ウぉーカー78号「靖国神社」)。慰霊碑は沈没地点に一番近い今岳の末柏鳥井口の先の馬込浜に立っており、毎年生き残った方々や遺族が来て慰霊祭を行なっていたが、馬込浜は少し不便な場所にあるためか沈没地点が正面に望める久志の自然休養村に立派な「馬来丸戦没者慰霊碑」が建てられた。 MAP
坊ノ岬沖海戦 日本海軍が発動した天一号作戦の一環として出撃した戦艦大和と護衛の9隻の艦からなる水上特攻部隊と、アメリカ海軍の空母艦載機との戦闘のこと。この海戦により日本海軍の海上作戦能力は喪失したといわれる。
1945年4月7日 戦艦大和は米空母艦載機の攻撃で魚雷10本、爆弾7発が命中、2498名と共に沈没した戦艦大和は坊ノ岬沖 北緯30度22分、東経128度.04分 に沈んでいます。坊津から約230キロほど西南西方向です。
映画「男たちの大和」の中でも枕崎から坊ノ岬の沖を西に向かう姿が描かれていた。
坊ノ沖海戦概要】 
大日本帝国海軍 司令官伊藤整一中将、戦力:戦艦大和、軽巡洋艦矢矧、駆逐艦 8隻、損害:戦艦大和、軽巡洋艦矢矧、駆逐艦 4隻(「霞」「磯風」「浜風」「朝霜」)、戦死 3,700名 
アメリカ合衆国 司令官マーク・ミッチャー中将、戦力:航空母艦 11隻、艦載機 386機、損害:艦載機損失 10機、戦死 12名
特攻隊「震洋」 知覧の特攻記念館にある震洋の模型坊津は海軍の震洋というベニヤ板製の自動車エンジンを搭載した小型のモーターボートの船内艇首部に炸薬(約250kg)を搭載し、搭乗員が乗り込んで操縦し、上陸しようとしている敵艦に体当たり攻撃することが目標とされた人間魚雷「123震洋隊」の特攻基地があった所である。日本中の小さな入り江には至ると場所に配備されていた(長崎鼻山川、指宿、野間池等)。
梅崎春生文学碑の近くに、特攻隊「震洋隊記念碑」が建っている。 知覧にある特攻平和会館に終戦時海没処分したものを昭和53年に京都の嵐山美術館が坊津泊まりから引き上げた震洋のエンジンが展示されている。(靖国神社のとなりに建つ遊就館でも観た記憶があるが・・)
鳥濱トメ 知覧の特攻の母として知られる「鳥濱トメ」さんは明治35年6月22日に坊津で生まれている。18歳のときに鳥濱義勇と結婚し昭和4年知覧で富屋食堂を開業し、昭和17年陸軍の指定食堂となった。昭和20年(1945年)、特攻作戦が始まると、知覧から出撃する特攻機の見送りを続け、隊員が検閲を避けるためにトメに託した手紙を代理で投函したほか、個々の隊員の出撃の様子を自ら綴った手紙を全国の家族のもとへと送り続けた。特攻の母として慕われた。戦後は平和記念館の建設に尽力。平成4年4月22日89歳で死去。
梅崎春生文学碑 昭和29年に「ボロ屋の春秋」で第32回直木賞を受賞している福岡生まれの梅崎春生は1944年(昭和19年)6月、29歳で海軍に召集される。下士官候補の速成教育を受けて、1945年5月通信科二等兵曹になり、坊津に派遣された。
当時坊津は水上特攻隊震洋艇の基地だったが、通信隊の仕事はほとんどなかった。同年7月に桜島に転任となる。終戦後すぐに書いた出世作「桜島」は坊津が舞台となっており書き出しは「7月初め、坊津にいた。往昔、遣唐使が船出をしたところである。」と始まり、暗号員・村上兵曹が坊津を出て枕崎経由で谷山の本部に行く途中峠から見た坊津の光景を「何故このように景色が生き生きしているのであろう。」と書いている。
また遺作となった「幻化」は 戦争末期に兵士として死と直面した土地を、20年後に再訪する話であり坊津が舞台である。輝津館のそばに梅崎春生文学碑が建つ「人生幻化に似たり」 。MAP 幻花の中にも「谷崎潤一郎の台所太平記を読んだことがある・・あそこに出てくるのは泊まりなのよ・・」というようなくだりが出てくる。
谷崎潤一郎の碑 泊の九玉神社の鳥居の脇に文豪谷崎潤一郎の自宅の様子をモデル小説「「台所太平記」の碑が建てられていたが、現在は丸木崎展望台に移されている。
「台所太平記さつま潟とまりの浜の乙女子は嫁ぎてもゆくか伊豆の猛夫に 潤一郎 S.43.4.6」と碑に刻まれている。鹿児島県南さつま市坊津町泊44番 MAP台所太平記 中央公論 
この小説は、昭和37年に「サンデー毎日」に連載されたもので西南方村泊出身の谷崎の自宅のお手伝いさんをモデルにして書かれている。谷崎家では、昭和11年頃から泊出身のお手伝いさんが十数名仕えていたと言う。谷崎家では昭和11年夏に泊まり出身の「初」がお手伝いさんになってから次々に彼女をたよっての沢山の女性が谷崎家で青春を過ごしている。特に谷崎(千倉)は約20年間ほど谷崎家で過ごした初がとてもお気に入りでこの小説の中でも女中の中心人物として一番紙幅を割いて書かれている。そして「梅」は酒が好きで癲癇もちで、初の弟に嫁いだ。泊まりの裕福な家の出の「銀」はとても美人で結婚した後湯河原のお土産売屋「春吟堂」の女将として活躍し、結婚した後の付き合いまで細かく書かれている。また坊津出身の乙女は学校は出ていないものの料理にしても裁縫にしても金銭感覚、責任感などもとてもよくできた乙女として谷崎夫妻の深い愛情と共に描かれている。谷崎は本の最後に年老いて坊津を訪ねることはできなかったことが残念であると書いている。そして谷崎が彼女たちから聞いた坊津の位置や風俗、歴史、生活、カツオの釣り方など詳細にかかれており、読んでいて懐かしくなった。坊津出身者は是非「台所太平記(中央公論)」は読んでほしい(古い本であるがネットで600円で購入できます。2009.1月)。お勧めです。九玉神社に彫られている碑は小説の中の「銀」について詠んだ歌のようである。
◎谷崎自身は坊津を訪ねることができなかったと書かれており、彼女たちの語る坊津の情景を詳細に書いている。
1963年(昭和38年)東宝で「台所太平記」を原作として同名の映画がができている。*谷崎役の森繁久彌/ 淡島千景/(初) 森光子/ (梅)乙羽信子/ 淡路恵子 / 池内淳子/(銀の妹真理) 中尾ミエ/(銀) 大空真弓/ 水谷良重/ 京塚昌子 / フランキー堺/ 三木のり平/ 山茶花究/ 西村晃 等そうそうたる豪華キャストの映画である。初役の森光子、梅役の音羽信子、銀役の大空眞弓、万里役の中尾ミエが坊津泊出身者という設定である。2008年4月25日にNHKBSで放送がありました。
*九玉神社は坊津にはそのほか秋目と久志にもあります。
日新公のいろは歌 盆踊りの起源となり島津氏を戦国大名として薩摩を統一した名君「島津日新斉忠良公」が作った薩摩武士の教育の聖典「いにしえの道を聞きても唱えても 我が行いにせずばかいなし」で始まる島津日新公のいろは歌を紹介します。
☆ 久志地区の盆踊りは日新公が出陣するときに舞われたこと起源であると久志役場のうえの神社でおこなわれた出陣式で説明されていた。(2001年夏帰省時)
追記:管理者の家族は転勤で会津若松市に3年住んだが、会津の人々の薩摩や長州に対する意識や関係はいまだに微妙なものがあった(仕事上差し障りがあるため本社の業務命令で東山小学校の先生方や東山スキースポーツ少年団の関係者を除き薩摩出身ということは隠して過ごした)。会津では最大の屈辱といわれる降伏式のときに会津藩主松平容保公が降伏状を官軍(会津では官軍とは言わず西軍という。また戊辰戦争は西南諸藩の下級士族が起した戦いであるとも言う。)に渡すときに官軍の軍艦中村半次郎(人切り半次郎とも言われた、後に西南戦争を指揮した桐野利秋)だけが頭を下げたという話が残っている。教育の無い中村半次郎は若い頃郷中教育の教材の「いろは歌」の教えを思い出して武運尽きた敗軍将に礼をつくしたということを本で読んだことがある。 「会津見て歩記(鶴ヶ城周辺)」 会津見て歩記の管理者はなんと薩摩の男だったのです。今では会津は我が家の第二の故郷になっております。
小原國芳先生誕生地 小原國芳先生誕生後の碑坊津町久志は全人教育を教育信条として東京町田に玉川学園を創立した小原國芳先生(1887年(明治20年)4月8日 〜1977年(昭和52年)12月13日)の誕生の地である。(久志では國芳先生といっていましたね・・。先生ご夫妻の墓は久志漁港の裏の高台にあります。今村と塩屋地区の間辺りです)
久志の坊津支所久志庁舎のそばにある國芳先生の実家跡には先生の碑が立っている。MAP この場所は玉川学園のOBにとっては聖地のような場所でバスツアーが来ています。
1980年までは久志中学校のとなりに玉川学園久志高等学校があったが1980年に廃校となった。
海水浴で知られる丸木浜の周りの山は玉川大学の農園(熱帯植物機能開発施設:約10万u)でポンカンを中心とするカンキツ類の栽培、冬季温暖な気候を利用したビワなどの試験栽培を行い、農学部学生の実習や、高等部生の労作の場として利用されています。小原國芳先生と子供たち碑先生久志中学校の運動会は玉川学園の高校生と合同で開催され、高校生によるデンマーク体操(昭和6年に國芳先生がデンマーク体操の権威者ニルス・ブック氏を招聘し我が国に導入されたもの)が披露された。昭和40年代の初期鹿児島の片田舎の中学生である管理者には徒手体操のほかこん棒などの手具を使ったとても進歩的な体操でした。また運動会のやぐらやアーチは高校生が耕耘機を使って山から杉の葉を切り出してきたりして作るためとても立派なものでした。
玉川学園久志高等学校の校風は保守的な鹿児島にあって当時としてはとても自由な校風でした。私服で農園の実習や卒業研究などもあり、修学(卒業)旅行は学生が自ら企画立案して行なうものでした。管理者の妹はグループで大坂から京都、金沢、飛騨と回り、そして東京で合流して東京駅で解散というものでした。当時大学生だった管理者は東京駅の銀の鈴に妹を迎えにいき、しばらく東京や横浜を楽しみ、大阪に行って兄妹で混雑するお盆の帰省の電車で途中(福岡あたりだった)まで立って帰ってきたことを覚えています。
また夏になると沢山の東京町田の本校の高校生が交換留学生として久志地区の家々にホームステイしていた(我が家にも妹の同級生の東京の女の子が来ました。なんとその子が後に有名な女性雑誌のモデルになりました)。
地区の学校や公民館には玉川大学の発行するとても立派な玉川百科大辞典が寄贈されて置かれていて、今岳池屋敷公民館で手にして目にして楽しんでおりました。 
小原國芳先生は1930年(昭和5年)「銀嶺の王者」といわれシュテム・クリスチャニアを日本に伝え我が国(いや世界)のスキー技術の躍進させたハンネス・シュナイダーを日本に招聘した人物であることを発見しました(山道具が語る日本登山史134ページ:山と渓谷社)。同年3月14日から4月20日までの間、長野県菅平で玉川・成城両学園の生徒たちに指導をしたのを皮切りに各地で指導公演をおこない、ラジオでも指導をしたという。菅平や野沢温泉にも氏の名前を冠したシュナイダー・ゲレンデ(コース)がある。故郷の偉大な先人小原國義先生が私達が家族で楽しんでいるスキーの歴史に偉大な功績を残していたことに、誇らしく思うと共に嬉しくもなった(2009.2.17)。息子が中学生のスキー大会で行った菅平にシュナイダーゲレンデがあることを思い出しました。
*追記 管理者が中学生の頃、久志中学校で自分生い立ちや、体が弱かったこと、貧しくて教育を受けられなかったこと、通信技士になり後に師範学校に入り教育者になり努力して東京町田の山を買い学校を作ったことなどの話をしてくださったことがあった。シルバーグレーのとても優しい紳士で、講演の後に直接お話をし私の名前を言う機会があり、すると「今岳の〇〇の孫か・?」といわれたことが今でも鮮明に思い出されます。
平家落人伝説 坊津町清原平原地区は平家の落人集落があり「平」に「山」をつけて平氏であることを隠したと伝えられています。しかし管理者である私は伝説とは思っていません。私が大学時代の夏休み(昭和52年頃)、京都大学の先生が平家の落人の調査に来ました。坊津に1軒だけある私の実家の苗字の存在を大阪いる私の親戚から聞いて、九州の落人伝説の里の調査の一環として訪ねて来たといっておりました。先生の話によると私の苗字は桓武平氏の家臣一門の一つで、また私の家紋のアゲハチョウの「向かい蝶」の家紋は平氏の一門が使うもらしいく(私の村には私の家以外にはありません)。そのときに先生から桓武平氏の系図や源平合戦の絵巻に描かれた旗指物など見せてもらいました。それにして我先祖たちは壇ノ浦からはるばる地の果てまで生き延びたものだと思いました。
豊臣秀頼伝説 1615年(元和元年)大阪夏の陣で淀君とともに大阪城で自刃したと伝えられる豊臣秀頼公は織田有楽斎(織田信長の実弟で千利休に茶を学び千利七哲の一人で、茶道有楽流を創始)と加藤忠広(加藤清正の次男、第二代熊本城主)等が薩摩国坊津へ逃がしたという大坂の遊里の歌があるという。「はなのようなる ひでよりさまを 鬼の様なる さなだが連れて 退(の)きも退(の)いた坊津(鹿児島へ)へ」 坊津という地名は知識人だけでなく遊里の人々にも外国に開けた九州のとても遠い場所として知られていたようである。
これは坊津の伝説ではなく出張で行った大阪で、私が薩摩坊津の出と知った歴史好きの同僚から飲んでいるときに聞いた話(坊津で聞いたことはありませんでした。)。
因みに以前住んだ鹿児島市谷山には木之下という場所があって木之下川があり豊臣秀頼公が住んだ場所といわれ、谷山小学校に豊臣秀頼公の墓があるといわれています。そういえば豊臣秀吉は元は木下藤吉郎ですよね・・。
アマチュア無線
(ハム:HAM)

幻のJCGナンバー「46007」
アマチュア無線をやる方なら喜ぶと話題だと思いますが、旧川辺郡坊津町のJCGナンバーはなんと「46007」だったのです。今藤峠からアマチュア無線の移動運用合併が行われるとこのJCGコードが無くなったのはさびしい限りです。ところで「007は二度死ぬ」はここで撮影されたこのとき移動運用地46007のJCGナンバーをつけて発行した我が家のQSL(交信証明)カードのですが、撮影スタッフは坊津のJCGナンバーが46(鹿児島県)007(川辺郡坊津町)ということを知っていたのだろうか。もし知っていたうえで秋目が選ばれたとすればすごい!!。
*2001年帰省の折、今藤峠から短波の7メガと21メガで全国にCQ、CQと電波を出したら応答を頂き、右の写真の「移動地川辺郡坊津町、JCGナンバー46007」のQSL(交信証明)カードを20枚ほど発行した。
(右の写真は今藤峠に車を止め、TANDARDのFT-900の無線機を使いタイヤベースに5mのポールを立てげダイポールアンテナを張り、運用中のもの・・。「CQ、CQ CQフォーサーティー(7Mhz)こちらは7N3BMJ/6 移動地 鹿児島川辺郡坊津町久志今岳 JCGナンバー46007 ・・受信します。」と電波を出しています。)

73and88
 
(左のQSLカードを見ても分かると思いますが我家は家族全員HAMです。)
2024年5月加筆更新

HOMER’S玉手箱  夫婦で登る日本百名山 麹町ウぉーカー(麹町遊歩人) 会津見て歩記 甲府勤番風流日誌 伊奈町見聞記 鹿児島県坊津町 Good Journey(よい旅を!)