戻る  甲府勤番風流日誌

武田家滅亡後の山梨の歴史

恵林寺にある心頭滅却の額

山梨といえば甲斐、甲斐といえば武田信玄公(山梨では呼び捨てはいけない)である。武田信玄公亡き後、1581年3月11日大和村野田で武田勝頼公が自刃して果てた武田家が滅びる。しかしてその後はほとんど知られていない。私は甲府に赴任してきて武田の歴史よりそれ以後がどのようであったかが興味深かった。

勝頼公が大和村で一族共に露と消えたとき、信長の家臣沼尻鎮吉(シゲヨシ)により塩山市にある恵林寺に火が放たれ、快川和尚が「安禅必ずしも山水を用いず、心頭滅却すれば火も自ずから涼し」と唱えて従容として入寂したのである。この和尚のこの言葉は恵林寺の三門の両袖に掲げられている。

この事件の3ヵ月後に、織田信長は本能寺の変で明智光秀に殺される。この報せを聞いた民衆は蜂起して沼尻鎮吉を襲い殺したと伝えられている。

因みに、この恵林寺は武田信玄公の菩提寺であり、その庭園は見事である。

その後徳川家康や幾人かの領主の支配を得て、7代将武田晴信(信玄)の墓軍徳川綱吉の側近柳沢吉保、吉里(1704〜1709)父子が領主となる。徳川一門以外では初めての領主である。ただ吉保は一度も自分の領地に足を踏み入れてはいない。吉里が伊賀上野に転封となった後は徳川幕府の直轄領となり甲府城に甲府勤番が置かれる(甲府では最後の藩主柳沢親子は名君と仰がれ、転封が決まったにもかかわらず、その年の年貢を皆納めたという逸話が残っている)。

さらに「三分代官」が細分化された領内の支配を行い、加えて三卿領といわれる田安、一橋、清水家の領地が入り組み、村ごとに領主が異なるという他では見られない支配と圧政が行われたのである。これが山梨県の県民性に大きな影響を与えているように思える。

幕府の役人にとって甲府勤番は「山流し」的な意味合いを持っていたともいう。そのため私のホームベースのある埼玉県伊奈町の代官「伊奈備前之守忠次公」(彼は江戸時代の名代官の筆頭に上げられている)のような名代官は出ていない(ただ、後述する田安騒動の後の田安代官小島焦園は名代官として仰がれている。)。

この間も武田時代の納税方法である「大小切り」、「甲州金」、「甲州枡」(京枡の三倍ある)等は連綿として引き継がれ、江戸幕府の全国支配が成立した後も使われていたということは特筆すべきである。そしてこれらを廃止しようとしたとき強い抵抗にあい時の幕府はこれを認容せざるを得なかった。

金と、枡については中央の統一基準と規格が異なったという意味で理解できるが、大小切りについては少し説明が必要である。今流に言えば一種の優遇税制とでもいうべきものである。田畑の租税のうち三分の一を「小切り」といって金一両について米4石1斗4升に換算して上納させていた。「大切り」は残りの三分の二のことをいう。特にこの小切りの部分については値段が江戸時代を通じて据え置かれたため米の値段の値上がりにより実質的に農民の税負担が減少していくことを意味していたのである。

大阪で大塩平八郎の乱が起こった前年(1836年)は、たて続く飢饉とそれに対する甲府勤番以下三分代官所の無策から郡内騒動という一揆が起こり、甲府の市中が無政府状態に陥っている。この時代甲州においては多くの一揆が発生している。

その中でも1750年の米倉騒動は米倉村(現在の八代町)長百姓七平がタバコ、蚕の運上新設を代官所に進言し、請負の利権にありつこうとした企てを阻止しようとして約二万人が蜂起したが、鎮圧され、発起人の5人と16カ村の村役人48人全てが記録上は病死したとされ、その他多くの者が獄死している。その審議がいかに厳しかったかがうかがえる。この事件は一人の百姓の抜け駆けにより多くの農民を死に追いやった悲劇的な事件である。

御三卿の一つ田安領の反動的な収奪強化に抵抗した一揆(田安騒動)においては水戸黄門のようなテレビの時代劇で目にする老中松平越中守への駕籠訴が決行され、その後直訴にかかわった関係者に多くの死者を出している。一揆、直訴に対しては厳罰でのぞむという幕府の姿勢である。

私の前任地会津においても南会津郡は「南山お蔵入り」と呼ばれた天領であるが、そこでも苛酷な取立に対して直訴しそれにかかわった関係者が処刑されたという「南山お蔵入り騒動」が有名である。幕府の収奪の場である天領においてはよく起こったことのようである。

郡内騒動以降他国から多くの無宿者が入り込み治安がかなり乱れ、代官所の治安維持機能はほとんど果たされなかったようである。特に清水次郎長の講談でも出てくる竹井村安五郎(竹井のども安)、若宮勝三(黒駒の勝三)などを親分とする博徒が横行するのである。ちなみに黒駒の勝三は御坂町の峠に上り始めるコンビニの斜め向かいに墓が立っている。

明治になり若尾逸平翁などの多くの経済人を排出し、甲州財閥と呼ばれている。これは後の財閥というより経済人というべきかも知れない。若尾逸平、雨宮啓次郎、根津嘉一郎(東武鉄道)、小林一三などである。

山梨県が輩出した一番の経済人は若尾逸平翁である。現在の白根町出身で、最初は行商を行っていたが、開港間もない横浜で甲斐絹や水晶を売って莫大な財を得る。それを元手にいろんな産業への投資と進む。特に「光と乗り物」に対する投資が多く、現在の東京電力の前身や東京都電の前身に対する出資を通じて経済支配を進める。時代の需要を読んだ驚くべき先見性である。根津嘉一郎の像

ただそれでより得られた財力は農民に対する貸付を通じて、近代農村における地主による小作人の支配という典型的な形態をとるのである。そして、大正7年には米騒動が起き若尾家の焼き討ちが行われた。

また後に「鉄道王」といわれる東武鉄道を日光まで伸ばした根津嘉一郎(富国生命の前身にも投資経営する)は若尾翁その影響を一番受けている。ただ、根津翁の場合、昭和10年(正確ではない)に山梨県のすべての学校にピアノと顕微鏡を寄贈している。さらに山梨市を流れる笛吹川に橋を架けて贈っている。現在の万力公園の前にかかる根津橋がそれである。さらに武蔵大学を作っている。なんという財力であろうか。

韮崎市出身の小林一三は阪急電鉄を作り、宝塚を作った。鉄道の沿線に観光地を作り、住宅を作るという今ではあたりまえのことも山梨の経済人の発想である。

このような山梨の財閥の形成に関しては山梨学院大学のビデオによる特別セミナーが詳しく、市立図書館や県立図書館で借りることができる。山梨にやってきてすぐにすべてのビデオを借りて見た。

武田信玄公までの歴史

武田家は新羅三郎義光を祖とする源氏の末裔である。新羅三郎義光は後三年の役(秋田県横手市周辺)で勇名をはせた八幡太郎義家の弟である。その新羅三郎義光の子孫が韮崎市にある武田の庄の神社で武田を名乗り、以後武田家が起こり義光から18代目が武田信玄ということになる。

武田家終焉の地甲斐大和村

私がこの村を訪れたのは、10月中旬の曇りの日だった。甲府盆地の西のはずれにある勝沼町を過ぎ、笹子トンネルに向かう渓谷に入ると今にも雨の降りそうな雲が重くのしかかってきた。何故か歴史の重みをひしひしと感じ、それまでつけていた車のラジオを切らざるを得なかった。

国道20号線を左折して山側に入り五分も走ると野田の集落に入る。そこに武田家終焉の地、景徳院がある。

武田勝頼の墓武田信玄公亡き後、その後を継いだ勝頼公は1575年長篠の合戦で織田・徳川連合軍に敗れ、甲府に退いた。その後、数回戦いを繰り返すが態勢の挽回には至らず、ついに祖父伝来の躑躅ヶ崎(ツツジガサキ 現在の武田神社)の館を捨てて、韮崎市の高台に新府城を築いた。1582年2月末、武田一族の親族筆頭、駿河江尻城主穴山梅雪が家康に招かれて下り、3月3日やむなく居城間もない新府城に火を放ち、勝沼を経て現在の大月駅の向かいにある岩殿山に向かった。

ところが山深い笹子の山中で岩殿城主小山田信茂の背反の報を受け、天目山栖雲時(セイウンジ)の麓にある野田の地(東山梨郡大和村)に逃れ、そこで北条夫人、長男信勝とともに自害して果てるのである。ここに新羅三郎義光以来の名門武田氏は悲劇的な滅亡を迎えるのである。信玄公没後10年足らずであった。

この地に徳川家康が寺を建てて勝頼公一族の菩提をともらったのである。

この戦いで怒涛のごとく攻め寄せる織田方の先陣、滝川一益の兵に対して勝頼方の古屋惣蔵が渓谷の狭い道に藤づるを体に巻きつけ片手で応戦し、下を流れる川が血に染まり3日間消えなかったという。これが「古屋惣蔵片手千人切り」 、「三日血川」の伝承である。この川が大和村から笛吹き川に流れ込む日川である。

武田氏終焉の地の野田から日川を上ると渓谷が美しく、多くの滝がある。竜門峡と呼ばれ、甲府市にある昇仙峡のように観光化されておらず、渓谷を楽しむためにハイキングするには絶好の場所である。

野田から車で10分も走ると高い山の中腹に小さな集落があり、その中心に栖雲寺がある。ここはこの地名、天目の由来になった臨済宗の寺である。 この寺の裏山は禅僧が修行のために、見上げるばかりの切り立った裏山全体に巨岩が配された庭となっている。庭の上に溜池を作りそこに水をため、その水を一気に流して岩を露出させたものだという。曲解を承知であえて言うならば快川和尚は「安禅必ずしも山水を用いず・・」というが、禅にはやはり山水であると実感させられる。

さらにこのお寺の境内には「そば切り発祥の地」なる碑が立っている。

武田家終焉地の大和村を語る以上この山を隔てた、塩山市の雲峰寺に付いて述べたほうがよいと思う。この寺は塩山市の中心部から国道411号線を柳沢峠、奥多摩方面に20分も走ると大きな「大菩薩の湯」という温泉がある。その裏あたりが裂石地区であり、ここを右折すると中山介山の小説で有名な大菩薩峠にいたる。

右折して数百メートル走ると左側に杉並木がはじまり、裂石山雲峰寺の参道になる。苔むした石の仏様の並ぶ杉並木の急な階段を上り、仁王門をくぐるとそこに檜皮葺きの重厚な本堂が見えてくる。本堂はその重々しさと対照的に屋根の曲線と上に向かってたおやかに湾曲しツンと突き出た屋根の先端が美しい。本堂の後ろ右側には庫裏、左側には書院が配されている。広い境内の中央には桜の古木が植わりその右手奥に宝物殿がある。

その中に入ると中央にガラスのケースに収められた絹地に赤く染められた絹の張られた日の丸、その脇には斜めに立てかけられた横1メートル、縦3メートル以上もある大きなガラス張りの収納ケースに「風林火山」の「孫子の旗」、さらに赤地に金の文字で「南無諏訪方南宮法性上下大明神」と書かれた武田信玄ご自身の旗とされる「諏訪神号旗」、赤地に黒の三花菱紋を染め抜いた信玄公の馬前の標識とされる「馬標旗」が並べられている。

これらは武田家の家宝とされていたもので、特に正面にある日の丸は現存する我が国最古のものであるとされている。日の丸とはいっても日の丸の上4分の1程はなく、左下は一区画欠けて継ぎ足されている。それでも歴史の重みは感じさせるものである。清和源氏が起こるときに天皇から下賜されたものといわれ、天皇家の天照大神(アマテラスオオミカミ)すなわち太陽信仰の現れであるという。

これらの宝物は、大和村の野田で勝頼公が自刃して果てたとき、敗残兵の一人が山を越えここまで運び預けたものであるという。

因みにこの寺の山号になっている「裂石(サケイシ)」という地名の由来であるが、僧行基が山中で修行に来た夜、霊雲が烈しい光を放ち、山や谷は震動し、高さ約15メートルほどの石が真っ二つに裂けて、その割れ目から萩の大樹が生え、石のうえに十一面観音が現れた。そこで行基はその木を切り取って、十一面観音を彫って当山を開山したという。この辺りを裂石といい大字を萩原というのはこのような伝承に基づくものだという。