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===========麹町ウぉーカー(麹町遊歩人)No.78=========

アテネオリンピックが始まりました。毎回、メダルが幾つ取れるか、日の丸が何本上がるか、始まる前はこんな話題で一杯です。時差が6時間もあるので、テレビ観戦しようとすると中継は真夜中ばかりです。ちょうど、お盆休みの方は、昼は高校野球、深夜はオリンピック中継とテレビの前にくぎ付けですね。

オリンピックと言えば、欠かせないのが聖火リレーです。この聖火リレーというのは1936年第11回ベルリンオリンピックから始まりました。ヒットラーが国威高揚のためギリシア→ブルガリア→ユーゴ→ハンガリー→オーストリア→チェコの6国を聖火リレーさせたそうですが、これはナチス侵攻のための偵察ではなかったのかと言われています。第11回ベルリンオリンピックでは、レーニ・リーフェンシュタール女史の記録映画「民族の祭典」と「美の祭典」の荘重なファンファーレと、神殿での採火にはじまる聖火リレーの画面を思い出します。国威高揚には国同士が競い合うスポーツイベントが一番利用し易いのでしょう。先日の「サッカーアジアカップ」での、中国サポーターの日本チーム(日本国)に対するブーイングのテレビ中継が頭を過ります。

さて、今日は終戦記念日です。

H氏はウォーカー(遊歩人)として、そして故郷の薩摩を思い出す光景を目にしながら靖国神社を探訪しました。

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8月15日の終戦記念日が近くなると総理大臣や閣僚の靖国神社公式参拝問題と絡んでこの神社の歴史や、戦犯合祀問題、信教の自由、政教分離等の憲法論等など多岐の論議おこる。今回はその辺りの論議は抜きにして約93千u(約2万8千坪)の広大な靖国神社を歩いてみよう。(東京都千代田区九段北三丁目1番1号)常夜灯

靖国神社は1869年(明治2)6月29日に、幕末の鳥羽伏見の戦いから明治維新の戊辰戦争にかけての犠牲者や戦没者を慰霊するために、長州藩士大村益次郎の努力により江戸時代九段坂上の火除地と呼ばれていた当時の三番町歩兵屯所跡に「招魂社(しょうこんしゃ)」として設けたのが始まりであるという。そして最初「東京招魂社」と呼ばれたが、1879年(明治12)6月4日に別格官幣社に列するとともに、招魂社という称号は各地にあり、永く神霊を祭るには不適合と考えられ、国家を平和に統合するという意味から靖国神社と改称した。

その後、明治維新時から第2次世界大戦まで国事に倒れた犠牲者・戦没者の英霊、約250万人柱を祀ってきた神社である。

しかし、1945(昭和20)年12月、GHQ(連合国軍総指令部)の神道と国家の分離令によって国家の祭祀は廃止され現在は宗教法人として運営されている。

東京メトロ東西線九段下駅で降りて坂を登るとすぐに靖国神社の大きな鳥居が見えてくる。靖国通りを隔ててお濠側の田安門の右手には石で出来た古い常夜燈がある。この常夜燈は明治4年に作られたもので品川沖を航行する船の目標であったという。東京に高い建物がない時代ここからの明かりが品川沖で見えるというのだから驚きである。以前は通りの反対側にあったというが、現在でも、夜になると灯がともっている。

常夜灯の脇は小さな公園になっており吉田松陰門下の幕末の志士で、維新後にドイツ公使や内務大臣などを努めた「品川弥二郎」と、明治の軍人「元帥陸軍大将従一位大勲位功一級公爵大山巌」の馬に乗った銅像がある。

大山巌は西郷隆盛の従弟で幼年期から西郷の影響を受けて育った。薩摩藩の内紛劇であった寺田屋事件に参加し、薩英戦争にも従軍した。戊辰戦争では薩摩藩大砲隊を率いて各地を転戦、会津若松で重傷を負っている。西南戦争に際しては、鹿児島の私学校党との調停を命ぜられるも、不調に終わり、心ならずも政府軍の指揮官として、郷里を敵にすることとなった。その後大山は陸軍大臣、参謀総長の職にもついている。この像は戦前、三宅坂に建立されたが戦時中の金属供出で撤去され、戦後、上野の東京藝術大学の敷地内で放置されていたものをここに再建したのだという。

この像をよく見ると大山は軍人であるにもかかわらず軍刀や銃を帯びておらず丸腰である。その上右手がズボンのポケットに入れられており、少しミステリアスである。尚、大山の妻は大山が砲兵隊長として攻めた会津藩士の娘で留学生として津田梅子と共に海を渡り「鹿鳴館の華」といわれた「山川捨松」である。

靖国神社大鳥居

坂道になった境内に入るととてつもなく大きな鳥居がある。そして左右に銀杏が植えられ長い参道が一直線に伸びている。参道の左側(外堀通り側)は駐車場になっている。

この大鳥居(第一鳥居)は靖国神社が創建50年祭の大正10年の建立されたが、昭和18年戦力増強のために撤去され、戦後昭和49年17000名余の浄財一億6千万円によって作られた。旧鳥居は高さが約21mであったが新しい鳥居は一回り大きく高さ25m、横幅約34mで8階建てのビルの高さを持つ、日本一の鳥居である。

大鳥居の右奥に「常陸丸殉難記念碑」がある。明治37年(1904年)日露戦争が勃発し、同年6月14日、近衛歩兵第一連隊の将兵963名を乗せた輸送艦常陸丸は広島の宇品港を出港し、15日午前10時ごろ沖ノ島付近に達すると雲の切れ間から突然現れた三艘のウラジオ艦隊の砲撃うけ、海戦の装備をもたない常陸丸はなすすべなく約1000有余名が玄界灘の波間に没したとある。

さらにその脇には大正8年(1919年)シベリア出兵に際してアムール州(現在の中国黒龍江省北方)で全滅した「田中支隊忠魂碑」、ガダルカナル等太平洋戦争の激戦地の「戦跡の石」、「慰霊の泉(戦没者に捧げる母の像)」、「戦没者の妻等に対する特別給付金支給法」制定を記念して建てられた「靖国の時計塔」などが並んで建てられている。

大村益次郎の像そして、参道の中央辺りに大きな「兵部大輔(ひょうぶのたいふ)大村益次郎銅像」がある。大村益次郎は長州出身(周防国)の医者であったが、緒方洪庵の適々斎塾で学び塾頭にまでなる。明治維新の新政府軍の指揮官として上野の彰義隊との戦いや戊辰戦争で戦功をあげ、日本陸軍の開祖とされ、招魂社の設立に尽力したとことから明治26年(1893年)我国最初の西洋式の銅像として立てられた。とても大きな銅像で、見上げると、とても立派な眉毛である。

少し進むと参道を車道が横断している場所がありその両脇に大きな灯籠2基が立っている。これの台座の部分には日露戦争等で帝国陸海軍が活躍する様子がレリーフで描かれている。これを寄進したのは富国徴兵保険相互会社、代表取締役は根津嘉一郎(明治時代の山梨市出身の経営者:甲府勤番風流日誌参照)である。富国徴兵生命寄贈の灯篭

第二鳥居をくぐるとその左側に手水舎がある。そして神門をはいると中央の参道の両脇一帯にソメイヨシノが植えられている。ここに植えられている中の3本の桜が東京の桜開花の基準木である。さらにここの桜は一本一本が旧帝国陸海軍の各部隊の記念樹として植えられ、それぞれの木に各部隊のプレートが付けられている。

右奥には能舞台がありその前の桜並木には白い鳩が舞っている。

そして中門をくぐるとそこが拝殿でその奥が本殿であり、中門の外とは明らかに異なる厳かな神域である。拝殿の右奥後方には法政大学のボアソナードタワービルが見える。拝殿域は写真撮影が許されない。拝殿の右脇には本殿に昇殿する場所があり、ここがテレビなどで総理大臣や国務大臣、国会議員列をなして本殿に参内する姿が映される場所である。

中門前の桜並木を右奥に抜けると「遊就館」がある。ここは、明治維新からのここに祀られた戦没者(即ち御祭神)の遺品、各戦役、事変の記念品、その他古今の武器類約10万点を集めて、陳列し、御祭神の奉慰と遺徳を欽仰するため明治15年、建設開館し、~14年7月に改修された。

本館の脇にある新館には零戦が復元され、帝国海軍最後の艦上爆撃機で零戦を上回る性能を持つといわれる「彗星」、ロケット噴射により超高速で目標に突入する“人間爆弾”「櫻花」、人間魚雷「回天」等、我国の悲しい歴史が陳列されている。その他、昭和11年に製造され、南方の泰緬鉄道で使われ、昭和52年までタイで使われていた蒸気機関車C56がある。

遊就館の前には古い大砲や戦没馬慰霊像・鳩魂塔・軍犬慰霊像が並んでいる。動物達も従軍し、命を落としたのである。靖国神社拝殿ここにあるこの大砲の由来を読むのも楽しい。

本殿の裏側に向かって歩くと行雲亭とその前に相撲をとっている力士の「国技像」がありその少し下った奥に「相撲場」がある。本殿の裏側には散歩道があり本殿の裏を一巡りできるようになっている。小道沿いに本殿裏の右奥には「神池」、左奥には「憲兵之碑」がある。

拝殿に入る前にある中門の左側で境内から外堀通りに出る門のある辺りが本殿の裏を巡る散歩道が出てくる場所であるがそこが幕末の四大道場のひとつであった斉藤弥九郎の神道無念流道場、「練兵館」があった場所であるという。斉藤弥九郎は幕末の三大剣客の一人で、桃井春蔵(鏡心明智流、士学館)、千葉周作(北辰一刀流、玄武館)と、心形刀伊庭道場とあわせて江戸四大道場と呼ばれた。しかし、靖国神社境内に当たったため牛込見附内に移ったという。

明治2年に招魂社としてできたこの神社の前の広場は明治4年から明治31年まで競馬が開催され靖国の名物であったという。この年には田安門の前に常夜灯もできフランスの曲馬団の公演もあった。その後もここではは曲馬団の公演が度々行なわれたという。

また九段の坂はとても急な坂で、広重の絵にもまるで箱根の峠を越えるような急峻な坂道として描かれており、その右奥には町家が並んでいる(この絵は靖国神社の入り口の一角に解説と共に紹介されている)。ここは宝永6年(1709)、御用屋敷の長屋を9段階段状に建て、九段長屋と称したことに由来し、飯田坂と呼ばれていた坂を「九段坂」としたのだという。関東大震災後に復興整備の際、現在のようななだらかな坂に整備された。麹町ウぉーカー75号、76号で大正時代の麹町界隈の話題を提供いただいた池上に住むKさんのお祖母さんからの「九段の坂が急で荷車を押す男達がいて子供心にとても怖かった。」という話しからもこの坂がかなり急であったことが裏付けられる。

大震災後の大正15年2月11日、初めて開催された「建国祭」の会場となり靖国神社はだんだんと政治色を帯びていく。 現在の建国記念日(2月11日)は、戦前には「紀元節」と呼ばれていた。この日は神武天皇が即位の日といわれており天皇制国家の正当性を示す祝日として明治5年(1872年)に定められたものである。この紀元節には明治22年の大日本帝国憲法の発布(1889年)や明治23年の金鵄勲章の制定(1890年)など大きな国家的行事が行なわれ、国家主義や軍国主義の宣伝に大いに使われていた。

7月になると麹町界隈の掲示板には靖国神社の「みたま祭」の案内のポスターが貼られる。今年は7月13日から16日までの平日に当たったため仕事帰りに歩いて覗いて見た。他の夏祭では見たこともないほどの提灯や白い行灯の形をした雪洞(せつどう:ボンボリ)が整然と並べられている。また数多くの屋台も並び色とりどりの浴衣姿の人が集い、とても賑やかで大きな「みたま祭」であった。

幼い頃、故郷で親に連れられて行った「みたま祭」は、お寺やお墓に行くお盆と異なり、死んだ人を神社で供養する祭であると教えられた。お盆はしんみりしているけど「みたま祭」は提灯やボンボリが並ぶ賑やかなものだという思い出がある。

私の故郷、薩摩半島の突端にある鹿児島県南さつま市坊津町久志は終戦間際の昭和20年1月25日、帝国陸軍輸送船「馬来丸(マレー丸)」が久志湾を航行中、アメリカ潜水艦の魚雷攻撃を受け海中に没した場所である。まだ娘だった母親はその日、山の畑にいたが湾の沖で大きな爆発音が二回して地響きが起こり、大爆発と共に沈んでいくのを見たという。海岸に行くと多くの兵隊さんが泳いで来た。しかし、その日の海上は風、波ともに強く、雪まじりの悪天候で、村人が必死に救出したが、時化と寒さで作業は困難を極め、海岸には多くの将兵の遺体(1612名)が並び、一帯の海岸で荼毘に付されたと聞かされた。

またその年の4月6日には後に「坊ノ岬沖海戦」と呼ばれる帝国海軍が発動した天一号作戦の一環として出撃した戦艦大和と護衛の9隻の艦からなる水上特攻部隊と、アメリカ海軍の空母艦載機との戦闘があった場所である。私の故郷の南西約230kmの海底に戦艦大和と約3700名の将兵が沈んでいる。

そして私は「みたま祭」はこの人たちを慰霊するための祭と思って育った。

靖国神社に参拝した後、私の故郷の海で死んでいった多くの将兵がこの靖国神社に御祭神として祀られているのだと気づいた瞬間、提灯やボンボリの赤い灯り中に遠い日の幼い日に両親に手を引かれていった「みたま祭」の様子や若かった両親の面影が昨日のことのように思い出された。

靖国神社を麹町ウぉーカーで取り上げることはなかなか難しく、3年間、何回通っても書き出しを見つけることができずにいた。ところが「みたま祭」で思わず若かりし頃の両親に巡り会い、故郷と靖国神社が結びついたことにより、麹町ウぉーカーのきっかけを得てほのぼのした気持ちになり靖国神社を後にした。

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インターネットで「靖国神社」を検索してみたら、65000件余ヒットしました。今回は公式HPを紹介します。

http://www.yasukuni.or.jp/

 

H氏のHPは、登山レポートがどんどん追加されていますよ。最近の戸隠山では、相当スリリングな体験をしたようです。

http://homer.pro.tok2.com/index.htm

 

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http://www.mag2.com/m/0000073086.htm

(大)

平成16年8月15日配信


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