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麹町ウぉーカー63号付録
「わがまち人物館2階展示データー」

名前 コメント「麹町界隈町名新旧対照表
斎藤秀三郎  さいとう 
ひでさぶろう
1866〜1929 「英語学の大家で、正則英語学校の創立者」 日本の英語教育に多大な足跡を残した英語学者である。1906年(明治36年)に、五番町2番地(現:一番町2)の英国大使館脇の千坪ほどの敷地を持つ広大な邸宅に移り住む。1896年(明治29年)、神田錦町に正則英語学校を創立し、当時の生徒が神田の町に群れをなしたというほど盛隆を極め、さらに彼が著した英語書は「実用英文典」をはじめ200冊にも及び多大な印税をもたらした。
津田梅子
つだうめこ
1864〜1929 1871年(明治4年)、欧米視察岩倉使節団に同行する女性留学生として、わずか6歳で渡米した梅子は、18歳で帰国したときにはほとんど日本語を忘れていたという。帰国後は桃夭女塾、華族女学校、明治女学校などで英語を教え、再度留学の後1900年(明治33年)梅子35歳のとき一番町に女子英学塾(津田塾大学の前身)を創立。「時代を生きる自立した女性を育てる。」ために、梅子は寄宿舎で厳しく鍛えたという。後年は、日本YWCAの初代会長を務めるなど教育事業家としても活躍した。
北村透谷   きたむら
とうこく
1866〜1894 「恋愛のマニュフェストを謳った」 明治25年「厭世詩家と女性」を持って巌本善治を訪れ、これが「女性雑誌」に掲載されると大反響を巻き起こした。「文学界」の客員となる一方、明治女学院の教壇に立つ。斎藤冬子との情熱的な講義ぶりは語り種となる。明治27年自らの命を絶つ。
島崎藤村 
しまざきとうそん
1872〜1943 「若き日の詩人は教え子との恋に破れて」 明治、大正、昭和の三代にわたり活躍した詩人、小説家。明治学院を卒業した藤村は、明治24年に「女学雑誌」の翻訳の仕事をしながら、明治女学校で英語と英文学を講じる。教え子の佐藤輔子に失恋(彼女には許婚がいた)し、傷心の末に一時教壇を去る。戻った時の熱の入らない授業は、生徒の相馬黒光をして「ああもう先生は燃え殻なのだもの」(相馬黒光「黙移」)と言わしめた。
巌本善治 
いわもと よしはる
1863〜1942 「熱血の教育指導者」 キリスト教の立場から女性解放を説き「女性雑誌」を創刊(ここから分かれて「文学界」が誕生した)。明治女学校の校長として女子教育に尽力し、大きな影響を与えた。ちなみにヴァイオリニストの巌本真理(1926から1979)は孫に当たる。また下二番町43(現:二番町1)にも住んでいた。
若松賎子 
わかまつ 
しづこ
1864〜1896 「小公子」の最初の翻訳者 巌本善治の妻で翻訳者。 フェリス女学校を卒業後長らく母校で教鞭をとる。24歳のとき巌本と結婚。「女学雑誌」、「国民の友」などに童話や小説を書く。バーネットの「小公子」を始めて翻訳。胸を病み、明治女学校火災に遭い悪化して亡くなる。
荻野吟子 
おぎの
 ぎんこ
1851〜1913 「日本の女医第1号」 女医免許1号を取得した医師」 明治女学校の校医、舎監を勤め大日本婦人衛生会に参加して衛生思想の普及を図る。
大塚楠緒子  おおつか
 くすおこ
1875〜1917 「漱石も憧れた美人作家」 1875年(明治8年)に、一番町49(現:三番町8)で生まれる。夫(大塚善治)の友人である夏目漱石に師事し、厭戦詩として名高い「お百度詣」や「空薫」などを発表。明治女学校の旧友だった相馬黒光によれば「女ながら振るいつきなるよう」な美人であったという。彼女が亡くなったときに詠んだ「有る程の菊投げ入れよ棺の中」の句が、漱石の想いを伝えている。
清水紫琴    しみず しきん 1867〜1933 女学雑誌の記者として活躍した明治時代の女流作家。 明治女学校に学び同校で作文教師となり「女学雑誌」の編集者となり、同士のほかに作品を発表。農学者・古在由直と結婚。後の東大総長古在由重の母となる。
相馬黒光   そうま
 こっこう
1876〜1955 新宿・中村屋の創立者。相馬黒光(旧姓は星良)は、1895年(明治28年)亜樹に明治女学校に入学。作家志望を捨てて相馬愛蔵と結婚。その後、中村屋を創立。」萩原守衛、などの芸術家やロシアのエロシュンコ、インドのビハリ=ポーズら亡命者を支援した。著書に「黙移」、「明治初期の三女性」などがある。
羽仁もと子   はに
 もとこ
1873〜1957 1921年(大正10年)夫の羽仁吉一とともに自由学園を創立。日本最初の女性記者として活躍。1908年雑誌「家庭之友」(後に「婦人之友」と改題)を創刊し、女性が合理的な家庭生活を営むための婦人運動の先駆となる。娘は羽仁説子。
幸田延    こうだ
のぶ
1870〜1946 「西洋音楽黎明期の第一人者」 ピアニスト。幸田露伴の妹。音楽取調掛に通い第1回全科卒業、発の音楽の官費留学生として欧米に留学。帰国後は東京音楽学校教授。1897年日本人初の本格的「ヴァイオリンソナタ短調」を作曲。退職後は紀尾井町でピアノ教場を設立。1918年(大正8年)自宅内に「洋楽講○堂」という名前の音楽堂を建て、当時来日した世界の名演奏家たちが演奏会を開いた。
安藤幸     あんどう
 こう
1878〜1963 ヴァイオリニスト幸田延の妹。東京音楽学校に学び、ウイーンとベルリンに官費留学、長く母校で教鞭を取る。退官後は日本人で初めて国際音楽コンクールの審査委員になる。1958年(昭和33年)女性としてはじめて文化功労者に選ばれる。戦後も四番町に在住していた。
滝廉太郎    たき
れんたろう
1879〜1903 荒城の月、花、箱根八里で知られる滝廉太郎は、官吏であった父の任地に従って東京(麹町小学校卒業)、富山、大分などをでの生活を経て明治33年(1900年)頃から翌年4月のドイツ留学まで、旧上二番町(現:一番町)従兄・滝大吉の家に寄宿していた。先にあげた名曲はここから生まれた。ドイツ留学も志半ばで帰国、23歳の若さで世を去った。
三浦環     みうら
 たまき
1884〜1946 蝶々夫人で世界を魅了した日本人初の国際的オペラ歌手(ソプラノ)旧姓柴田。東京音楽学校卒業後、帝国劇場歌劇部の専属歌手として人気を得、さらに欧米各地で「蝶々夫人」などを歌い好評を博し国際的プリマドンナとして活躍した。音楽学校在学中は幸田延の生徒であり、恋多き女としても有名で、滝廉太郎からもプロポーズされたという。自伝の中で語っているが真相は不明。帰国後は中六番町(現:四番町)に住んでいた。
原信子    はらの
ぶこ
1893〜1979 オペラ歌手(ソプラノ)三浦環に師事しその後輩として活躍。特に浅草オペラ全盛の頃は自身でオペラ団を結成し一世を風靡した。イタリアに留学し、オペラの殿堂ミラノ・スカラ座で日本人初のオペラ出演を果たす。帰国後は、二番町で後進を指導。戦後は日本のオペラの代表作「夕鶴」の初演に出演。
山田耕筰    やまだ こうさく 1886〜1965 「日本交響楽の父、日本歌曲の第一人者」 大正、昭和の作曲家。東京音楽学校を卒業後、ベルリン高等音楽学校に入学。ベルリンで幸田延と再会。1914年(大正3年)日本初の交響楽団である東京フィルハーモニーを結成。日本音楽協会を結成して、オペラ運動にも力を注ぎ初のオペラ作品「黒船」を発表。北原白秋たとともに「この道」、「からたちの花」などの美しい日本歌曲を次々と世に送り出した。現在の「千代田区歌」(作詞:佐藤春夫)の作曲者でも有る。昭和10年代一番町に在住。
斎藤秀雄    さいとう ひでお 1902〜1974 昭和期のチェリスト、指揮者、音楽教育家。英語の斎藤秀三郎の長男として東京に生まれる。ベルリン、ライプツイヒに留学しフォイアマンなどの指導を受ける。帰国後はチェリスト、指導者として活躍。五番町2番地(現:一番町2)の父の家を継ぎ、戦後まもなく「子供なための音楽教室」を東京家政学院の教室を借りて始める。これが発展して桐朋学園大学音楽学部となる。彼の門下から小澤征爾、岩城宏之、堤剛、藤原真理など、現代を代表する名演奏家が次々と誕生した。現在、世界的な実力を誇るサイトウ・キネン・オーカストラは彼の門下生による管弦楽団である。
中江兆民    なかえ ちょうみん 1847〜1901 明治時代の自由民権思想家。彼は若くしてフランスに留学し、ルソーの「社会契約論」を訳し、日本のルソーとも呼ばれ、身時期の民権運動に大きな影響を与えた。麹町五番町二番地に兆民の住居があり、当時は福沢諭吉の慶応義塾とも並び称された私塾である仏蘭西学舎もそこにあった。
三宅雪嶺     みやけ せつれい 1960〜1945 三宅雪嶺は、フェノロサに影響を受けた明治・大正・昭和期の評論家で、政府の欧化主義を批判し日本主義を主張し、雑誌「日本人」を創刊した。1892年巌本善治の媒酌で田辺太一の娘田辺龍子(筆名:花圃)と、結婚し下二番町37(現:二番町5)に住んでいた。自己の歴史観から同時代を鳥瞰する「同時代史」は、昨今、再評価されている、花圃の実家、田辺家も下二番町5(現:二番町11)にあった。
島田三郎    しまだ
 さぶろう
1852〜1923 明治・大正期のジャーナリスト・政治家。「横浜毎日新聞」主筆などジャーナリストとして活躍の後、第1回衆議院議員選挙に当選し政治家に転じる。また、種村正久牧師から洗礼を受け、明治女学校の創立者の一人として名を連ねている。評論家としても知られ、足尾鉱毒事件で論陣を張り被害の共済に力をつくした。中六番町31番地(現:四番町2)に居住。
ジュルジュ・ビゴー 1860〜1927 スランスの風刺画家。明治時代の時事問題、民族的習慣などを特異な筆致で描いたことで知られる。現在の五番町交差点角にあったと思われる中江兆民の仏蘭西学舎でフランス語教師として教鞭をとったこともあり、土手三番町16(現:五番町4)に住んでいたほか、下二番町にも住んでいたという。
藤田嗣治    ふじた
 つぐはる
1866〜1968 パルで活躍したエコール・ド・パリの画家(スランス名:レオナール・フジタ)は昭和15年から戦後24年にかけて、六番町(現在と同じ)に住んでいた。戦後フランス国籍を取得し、、再び日本へは戻らなかった。。その独特の画風は今日でも多くの人々に愛されている。1957年にはフランス政府からレジオン・ドヌール勲章を受章。
黒田清輝    くろだ
 せいき
1866〜1924 鹿児島県出身。薩摩藩の重臣だった黒田清綱の養子。法律家を目指してパリへ留学したが画家志望に変わりフランスのラファエル・コランに師事し、洋画を学ぶ。帰国後は東京美術学校(現:東京芸大)の初代西洋画科教授となり、生涯画壇の指導に当たった。
小室翠雲
こむろ
 すいうん
1784〜1945 明治、大正、昭和期の日本画家。群馬県出身。 帝室美術院会員。南画の普及に努めた南画壇の重鎮。中六番町40(現:四番町4の自宅には日本南画院を併設していた。 以前若槻礼次郎が住んでいた屋敷のところ三番町、三番町の山種美術館にも収蔵品が有る。
郷誠之助   ごう
 せいのすけ
1865〜1942 ハイデルベルグ大学の哲学博士号を持ち、日本運輸の社長として実業界へ登場。その後多くの企業の再建を任された豪腕経営者である。彼の屋敷が、上二番町28(現:一番町14)にあった。東京株式取引所理事長として市場の重要性を説く。また戦後の財界のリーダーとなる長野護、小林申、河合良成ら当時の若手実業家を集め、この私邸で番町会を催すなど財界世話役としても慕われた。
大谷竹次郎 おたに
 たけじろう
1877〜1969 松竹の創立者。京都府出身。双子の兄白井松次郎の名を一字ずつとって(松竹)を設立。明治から戦後に至るまで歌舞伎、文楽、新派、松竹少女歌劇団など、ほとんどの演劇界を掌握し、一大演劇王国を築き上げた。昭和10年代には中六番町(現:四番町サイエンスプラザの場所)に邸宅を構えていた。
平塚らいてう ひらつか
 らいて
1886〜1971 雑誌「青鞜」を創刊し「新しい女性」を提言した平塚らいてうは三番町10番地(現:九段三丁目5)に生まれ、富士見小学校に入学している。その後8歳で本郷区へ転居するが、自伝「元始、女性は太陽であった。」には子供の頃の番町付近が描かれている。
山川菊栄  やまかわきくえ 1890〜1980 社会主義運動家の山川菊栄は麹町区四番町(現:九段北四丁目)に生まれ。当時としては珍しいほどの開明的で知的な家庭的な環境で育ち、番町小学校、女子英学塾(津田梅子主催)を卒業。同じ婦人運動でも青鞜には属さず、日本人初の社会主義婦人団体の成立をめざすが弾圧され、その後社会主義運動家の山川均と結婚。戦後は労働省婦人少年局初代局長に就く。。
大杉栄    おおすぎ
さかえ
1885〜1923 大正期のアナーキズム思想家で雑誌「近代思想」(1912・大正元),「平民新聞」(大正3)を創刊。大杉栄は若き日の一時期を番町界隈で過ごした。「その頃僕は僕より20歳ばかり上野女性と一緒に下六番町(現:六番町8)に住んでいたのだった。(自叙伝)」と記している。現在の番町小学校の敷地内だが、番町幼稚園校舎あたりと思われる。その後、大杉は昭和12年関東大震災下に妻の伊藤野枝、甥橘宗一らとともに麹町憲兵隊で甘粕憲兵大尉に殺害された。
堺利彦     さかい
 としひこ
1870〜1933 明治の社会主義思想化で小説家。明治39年ごろ元園町一丁目・二丁目詳細は不明)に住んでおり、友人の木下尚江が「電車賃」という一文の中で電車賃値上げ反対運動の折に元園町を訪れたときのことを書いている。
東郷平八郎 とうごう
へいはちろう
1748〜1934 現在東郷公園と呼ばれる場所は、日露戦争の日本海海戦でバルチック艦隊を破った日本の提督・東郷平八郎の屋敷であった。明治14年からなくなる昭和9年まで53年間を、上六番町37(現:三番町18)で過ごした。かってその屋敷に隣接した現在の九段小学校は、上六小学校と呼ばれた時期もあったが、昭和9年には元帥を記念して昭和9年から12年間は東郷小学校と呼ばれていた。
若槻礼次郎 わかつき れいじろう 1866〜1949 松江の出身で大蔵官僚から政治家になり、首相を2度経験した、若槻礼次郎の屋敷があったのが、中六番町40(現:四番町4)。若槻は加藤高明とともに憲政会に加わり、加藤の死後は総裁となって、1926年内閣を組織。しかし、昭和恐慌の責任をとって総辞職。ロンドン会議の首席全権として活躍し、三十一年再び首相となるが満州事変で辞職した。
松岡洋右
 まつおか ようすけ
1880〜1946 大正から昭和に欠けての政治家・外交官。1933年国際連盟総会で満州国が否認されたことに抗議して退場したことで知られる。その後、近衛内閣外相を務め三国同盟を締結、戦後はA級戦犯として起訴されるが病気悪化で死去。満鉄総裁の頃、下六番町(現:六番町11)に彼の私邸があった。
田中義一  たなか
 ぎいち
1864〜1929 明治・大正期の軍人であり、後に首相となった軍人。常に軍政の中枢部を歴任しシベリア出兵を指導。1925年立政友会の総裁となり2年後には首相に就任。山東出兵など強硬方針を打ち出すが、張作霖爆殺事件の処理で天皇の不興を買って総辞職し、その後五番町13(現:一番町25)の別邸で急死した。
青木周蔵   あおき しゅうぞう 1844〜1914 現在「いきいきプラザ一番町」が建っている場所は元国鉄総裁公邸のあった場所(現:一番町12)だが、そのもっと以前は、明治時代に外交官として名をはせた青木周蔵の屋敷でもあった。(上二番町15)。青木は長州藩士で、幕末にドイツに留学。明治になってからは外交官僚として主にヨーロッパ列強国の公使とそて条約改正交渉に奔走。山県有朋、松方正義両内閣の外相を務めた。彼の妻はドイツ人エリザベートで国際結婚のはしりでもあった。
金子賢太郎 かねこ
 けんたろう
1853〜1942 福岡県出身。藩主に従って渡米し、ハーバード大学に留学。帰国後は伊藤博文、伊東巳代治らとともに明治憲法を起草した。その屋敷が一番町30番地(現:三番町3)にあった。
加藤高明    かとう
 たかあき
1860〜1926 明治期は実業家として活躍。後に外交官として日英同盟を推進した。その後政治家に転じ1925年に首相となるが、病を得て在任中に死去した。その加藤高明の屋敷が下二番町35(現二番町5)にあった。現在ベルギー大使館になっている場所である。この付近には若槻礼次郎総理の屋敷もあったことから、総理大臣通りとも呼ばれたという。

2004年1月18日

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