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=========麹町ウぉーカー(麹町遊歩人)NO63============

「幸田露伴先生が裏の借家を見に来られた時、ここは文人町ですねと言って帰られたそうだ。パリ一辺りなら取りあえず文人町とでも改名されるところだ。」これは、幸田露伴が番町を訪れた時の感想を、有島生馬の「大東京繁盛記」より抜粋したものです。麹町ウぉーカーNO16号でちょっと触れていますが「番町文芸地図」という小冊子の表紙に載っていました。そして「幻の文人町 六番町ラビリンス(迷宮)へようこそ」とも小さく書かれています。この「番町文芸地図」は一番町から五番町、麹町界隈・旧番町地区に住んだ文人たちの簡単な紹介と地図まで載っていて、麹町遊歩人にはとても便利なツールです。この番町文芸地図は、其の一〜其の三まで発刊されていますよ。

麹町を離れた編集担当は、この「番町文芸地図」を読みながら、「わがまち人物館」の中を頭の中で探索しています。

前回に引き続きH氏による「わがまち人物館」2階の紹介です。麹町界隈町名新旧対照表

==================================「わがまち人物館2階展示データー 

2階に上る階段の踊り場に麹町地区連合町会の22町会が紹介されている。

2階は1階より広い長方形のスペースである。

まず英語研究家で「英和中辞典」を編集した「斉藤秀三郎」の展示の前に立つ。英国大使館脇の一番町2の千坪もある広大な邸宅に住んでいた。

次は、6歳から渡米し、遣欧使節に参加した山川捨松(会津藩出身。後に「鹿鳴館の華」といわれ、会津戦争のとき砲兵隊長として会津を攻めた薩摩藩出身の大山巌と結婚)とともに18歳で帰国した津田梅子である。一番町に津田塾大学前身となる「女子英学塾」を開校した。

 

二番町の日本テレビの斜め向かい辺りに明治、大正、昭和の時代の先端を走った女性たちが学んだ「明治女学校」があった。

明治女学校は明治18年に木村熊二が創立し、明治25年に「巌本善治」が2代目の校長となったが明治41年に閉校になった。たった23年間の歴史だったが、その間に時代を変えた近代日本を代表する多くの女性達を次々と輩出した。

ここで教鞭をとった教師の中には、教え子との恋に破れた「島崎藤村」、島崎藤村らと「文学界」を創刊した「北村透谷」、そして、バーネットの『小公子』を翻訳した「若松賎子」(会津藩士・松川勝次郎の長女として会津に生まれた。巖本善治と結婚)がいた。渡辺淳一の代表作『花埋み』のモデルで日本の女医第一号「荻野吟子」も、明治女学校の教師となった後、校医になった。苦労の末に女医となった彼女は、女性開放の先駆者である。大塚楠緒子

漱石も憧れたという美人作家「大塚楠緒子」、雑誌記者として活躍した「清水紫琴」、新宿中村屋の創業者でもあった作家「相馬黒光」は、ここの卒業生である。

相馬黒光によれば大塚を「女ながら振るいつきたくなるような美人」と評しており、教え子の佐藤輔子に失恋して退職した島崎藤村が復職した後、熱の入らない授業に「先生はもう燃え殻なのだもの」という言葉を残している。

その前には「ひとあし踏みて夫思ひ ふたあし國を思へども 三足ふたたび夫おもふ」という大塚楠緒子の『お百度詣』の一節が天井から下げられている。 

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* この歌の後段を紹介すると「女心に咎ありや 朝日に匂ふ日の本の 國は世界に只一つ 妻と呼ばれて契りてし 人は此世に只ひとり かくて御國と我夫と いづれ重しととはれなば ただ答へずに泣かんのみ お百度詣ああ咎ありや」である。何という夫婦愛であろう。現在イラク派遣されている自衛隊員の奥様達の心境であろうか。

*       夏目漱石が四国松山を流浪したのは大塚楠緒子に失恋したからだという説がある。才色兼備の彼女が35歳で死んだときに、漱石はその訃報に「棺には菊抛げ入れよ有らん程」、「有る程の菊抛げ入れよ棺の中」という二句を手向けたという。

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自由学園(現在の学校法人自由学園)を夫「羽仁吉一」とともに設立し日本最初の女性記者として活躍した「羽仁もと子」もここの卒業生。また吉一とともに雑誌『家庭の友』を創刊した。それが現在の「婦人之友社」である。

 

『五重塔』で知られる「幸田露伴」の妹でピアニストの「幸田延」は、紀尾井町にピアノ教室を開いた。幸田延の妹でヴァイオリニスト「安藤幸」は四番町に住んでいた。

三浦環・原信子そして昭和を代表するプリマドンナで「蝶々婦人」で知られる「三浦環」が東郷公園のそばに住んだことがあるという。

三浦環に師事し日本人で初めてミラノ・スカラ座にオペラ出演を果たした「原信子」。

日本交響楽の父と呼ばれ、日本初の交響楽団東京フィルハーモニーを結成した、日本歌曲の第一人者「山田耕作」は一番町に住んでいた。「千代田区歌」の作曲者でもある。

最初に紹介した英和中辞典を編集し一番町に住んでいた「斉藤秀三郎」の長男が、昭和初期のチェリスト「斉藤秀雄」。彼が三番町で創設した「子供のための音楽教室」が発展して桐朋学園大学音楽学部となる。その門下から小沢征爾、岩城宏之などが出る。

我が国で始めてルソーの「社会契約論」を翻訳した自由民権思想家「中江兆民」は市ヶ谷駅から日本テレビに向かう五番町のケロリンビル辺りに住んでいた。

更にフランス人の風刺画家「ジョルジュ・ビコー」、パリで活躍しレジオン・ドヌー勲章を受章したエコール・ド・パリの画家「藤田嗣治」(フランス名:レオナール・フジタ、藤田は戦後フランスに帰化した)、近代日本洋画の父と呼ばれ「木かげ」や「湖畔」などで知られ東京芸大初代洋画科教授の「黒田清輝」、日本画家「小室翠雲」等我国を代表する芸術家達も麹町に住んでいた。

渋沢栄一死後の財界の大御所といわれ財界の世話役として活躍した「郷誠之助」、松竹の創業者で演劇界を支配した「大谷竹次郎」は、四番町のサイエンスプラザ辺りに住んでいた。

 

「新しい女たちが、このまちをつくったのか。」というパネルには三番町10番地(現:九段北3丁目)で生まれた「青鞜」の女性解放思想家「平塚らいてう」(漱石の「三四郎」に登場する美禰子のモデルともいわれる)。その前のスクリーンには「元始、女性は実に太陽であった。真正の人であった。」という彼女の言葉がある。

並んで四番町(現:九段北4丁目)で生まれた社会主義運動家で戦後労働省初代婦人少年局長となった「山川菊枝」がいた。

アナーキスト(無政府主義者)で甘粕事件の「大杉栄」は六番町8に住んでいた。現在の番町小学校の敷地内幼稚園舎あたりである。

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*       甘粕事件は1923(大正12)年9月16日関東大震災の混乱に乗じ東京憲兵隊麹町分隊長・憲兵大尉甘粕正彦らが無政府主義者大杉栄・妻伊藤野枝、甥の橘宗一を殺害し、井戸に投げ込んだ事件。大杉を拘束した事大杉栄が内務省に漏れ、宗一が幼少(7歳)で、しかも米国籍であった事などから問題となり事件が発覚する。甘粕は軍法会議で10年の刑を受けるが3年後に恩赦で出獄、満州に渡り満州政界の黒幕となる。後に、中国に渡り、数多くの謀略工作に参加。満州国建国の際、陰の立て役者の一人となる。満州国建国後は、初代民生部警務司長(警察機構のトップ)、満州協和会 総務部長(大政翼賛会と同じような組織)、満映理事長を歴任。日本の敗戦直後に、満映理事長室内で毒を飲み自決した。平成15年11月に放送されたラストエンペラーの弟・愛新覚羅溥傑と浩夫人を描いたテレビ朝日の「最後の皇弟」が放送されて好評であったが、その中では甘粕正彦を竹中直人が演じ、映画「ラストエンペラー」の中では坂本龍一が甘粕の独特のキャラクターを演じていた。

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1922年に日本共産党を秘密結社として結成し初代委員長となった「堺俊彦」も一番町に住んでいた。

日本海海戦でロシアのバルッチック艦隊を破った提督「東郷平八郎」は、53年間を東郷公園の場所にあった屋敷で過ごした(既にNo38号で紹介済)。隣にある現在の九段小学校は元帥が亡くなった昭和9年から終戦まで東郷小学校と呼ばれていた。

青木周蔵・金子賢太郎・加藤高明四番町4の上智大学比較文化学部辺りには二度総理大臣になった「若槻礼次郎」が、六番町11の双葉学園付属幼稚園の辺りには1933年の国際連合総会で満州国が否決され抗議して退場し、後に日独伊三国同盟を結んだ「松岡洋右」が住んでいた。

張作霖爆殺事件の処理に当たって天皇の不興をかい総理大臣を辞職した「田中義一」は英国大使館裏の一番町25の別邸で辞職後急死した。

一番町の「いきいきプラザ一番町」の建っている場所には、元国鉄総裁公邸があり山縣有朋・松方正義内閣で外務大臣を勤めた「青木周蔵」が住んでいた。

三番町3には明治帝国憲法を起草した3名の一人「金子賢太郎」がいた。彼の日記の中に帝国憲法の草案が盗まれたというエピソードがフジテレビ系で放映中の人気テレビ番組「トレビアの泉」で15年11月に紹介されていた。

ベルギー大使館の場所には日英同盟を推進し、後に首相となった「加藤高明」の屋敷があった。従って、この辺りを総理大臣通りとも呼んでいたらしい。

 

これが「わがまち人物館」の全てである。まるで大学受験の現代国語における文学史のまとめのようなものになってしまった。しかし、受験のための知識として覚えたものが、この街を知り、ちょっとした拘りと想像力を生かすことによって、時間の壁を越えて生き生きと蘇ってきた。特に島崎藤村にははまってしまい、日テレの前の角を曲がると教え子に失恋し燃え殻のようになった藤村がとぼとぼと歩いているのが見えるようでならない・・。 

抹茶と不破福寿堂の「鹿の子餅」何はともあれ、「わがまち人物館」を訪ねることをお勧めする。昼休みに1回行っただけでは到底十分に楽しむことは出来ない。私は5回通った。そしてその度ごとに、この街の懐の深さを発見した。さらにこの展示は町内の多くの方々がサポートしておられる。昨年12月5日には麹町中学校PTAの素敵な母様方にお茶とお菓子のサービスをしていただいた。12月12日には麹町三丁目町会が抹茶と富山の不破福寿堂の「鹿の子餅」を出していただいた。皇太子妃雅子様が富山を訪問されたときに「美味しい」といわれた銘菓であり、そのため取り寄せたとのことであった。

この展示場の入り口に

『このまちに生きた このまちを愛した 麹町界隈「このまちの人々展」 まちを創ったのは人 人がいてまちが息づく』

と書かれている。まことにその通りである。麹町遊歩人もこのまちに拘り、愛しつづけたいとの思いを新たにした。Web版にはここに展示されている全ての人々のパネル解説を紹介しているのでお楽しみ頂きたい。

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前号で「わがまち人物館」前編を配信した後、読者の方から場所は何処?と質問を頂きました。何と言うことでしょう。基本中の基本を失念しておりました。申し訳ありません。

改めて、場所を紹介させてもらいます。住所は、麹町2丁目14番地(旧番町出張所)です。
 【最寄駅】
 地下鉄半蔵門線半蔵門駅4番出口
 地下鉄有楽町線麹町駅3番出口

以上、是非訪れて観てください。(私も行ってみたい!!)

H氏のHPには、平成16年1月9日麹町界隈で取り行われた「新春・木遣り・纏振り・梯子乗り・寿獅子舞」の様子が写真と一緒に掲載されています。

http://homer.pro.tok2.com/index.htm

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http://www.mag2.com/m/0000073086.htm

(大

編集後記:2回に分割して配信し、Webのページは4枚にも及ぶ膨大なデーターになりましたがやっと編集が終わりました。単調なデジタル写真からパネルの記載を読み取る作業は編集長(大)からクリスマスプレゼントに頂いた竹内まりやのNEWアルバム「Longtime Fevourites」を聴きながら編集しました。「ボーイハント」、「ジョニーエンジェル」、「砂に消えた涙」、「THE END OF THE WORLD」等は島崎藤村や夏目漱石等の文豪の若き日の失恋を想像しながら書くのにぴったりの素晴らしい曲で・・感激・涙ものでした。特に藤村の失恋には、「THE END OF THE WORLD」を何度も聴きながら書きました。このアルバムは60年代に流行した曲のカバーアルバムで40代以上の方(特に女性)には最高のアルバムです。奥様や恋人へのプレゼントにはなかなかセンスのいいものだと思います。
それにしても麹町近辺はすごい町でした。これで麹町ウぉーカーをまだまだ続けられると実感しました。
 麹町遊歩人(H)


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