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麹町ウぉーカー62号付録
「わがまち人物館1階展示データー」

. 名前 生年・没年 展示パネルコメント(パネルをもとに多少加筆しました。)「麹町界隈町名新旧対照表
1 武者小路実篤
むしゃのこうじさねあつ
1855〜1976 1885年(明治18年)白樺派の代表的作家であった武者小路実篤は、父実世の屋敷であった元園町1-38(現:一番町17)で誕生した。明治・大正・昭和の時代を小説家・劇作家として活躍し、明治43年志賀直哉とともに「白樺」創刊。その後「新しき村」の建設など社会運動にも情熱を傾けた作家が生まれ育った場所である。また、1928年(対称3年)に、実家であった兄公共の家を出て下二番町48(現:二番町4)に借家で所帯を持ったが、わずか1年余りであったが、彼が実家を離れた最初の家であった。その後転居し、約10年後には再び下二番町40(現:二番町3)に戻ってくる。
2 千家元麿
せんけもとまろ
1888〜1948 千家元麿の父千家尊福は出雲大社大宮司で、東京府知事、司法大臣を歴任した政治家であった。1888年(明治21年)、麹町三丁目(現:一丁目)の高級官僚の父の別邸で生まれた元麿は、自由奔放な青年時代をここで過ごした。母・小川豊子は梅崖と称した日本画家であったが、元麿は妾腹の子という悩みを持って青春を過ごした。歩いて数分の所にあった近くの武者小路実篤とは幼少の頃から親交を結び、後に同じく白樺派の詩人として活躍する。
3 島崎藤村
しまざきとうそん
1872〜1943 明治、大正、昭和期に活躍した小説家、詩人。長野県木曾馬籠の旧家に生まれる。本名「春樹」。北村透谷らと「文学界」を創刊して、文学を目指す。青春の思いを情熱的に謳いあげた第一詩集「若菜集」で鮮烈なデビューを飾る。その後、小説「破戒」「新生」「夜明け前」など発表、明治から昭和までの文豪の名をほしいままにした。1937年(昭和12年)欧米旅行から帰るとすぐに大倉喜七郎から贈呈された下六番町17(現:六番町13)に新居を移し、大磯の別宅で亡くなるまで晩年の6年を過ごしている。絶筆「東方の門」をはじめ晩年の作品もここから生まれた。しかし、六番町は藤村にとってほろ苦い青春の思い出の詰まった地でもあった。  〔明治学院を卒業した藤村は、明治24年に「女学雑誌」の翻訳の仕事をしたことをきっかけに、翌年秋から教壇にたち英語と英文学を教えるようになりました。時に藤村20歳の多感な年頃でした。そして教え子の佐藤輔子を恋するようになりますが、彼女には許婚がおり藤村は失意のうちに一時女学校を辞職。しかし翌27年には復職して教壇に立ちます。思いを寄せた輔子を、後年藤村は「春」で勝子ととして登場させます。時は移り藤村は国際ペンクラブ大会に出席のためアルゼンチンへ渡り、帰路アメリカ、、フランスをまわって昭和12年1月に帰国するとそのまま新居を六番町に移しました。ここに居を移す陰には、ペンクラブ大会にも同行した有島生馬の熱心な誘いがあったといいます。すでに功なり名をとげた藤村が、再び六番町に戻ってきた意図はどこにあったのでしょうか。晩年をほろ苦かった青春の地ですごそうと思ったかどうかは定かでありませんが、心の片隅にその記憶が残っていたかもしれません。当時の住まいから5分足らずのところにあった、かっての明治女学校跡を彼は何を思いながら通り過ぎたのでしょうか〕
4 樋口一葉 
ひぐち いちよう     
(1872〜1896) 若くして散った「たけくらべの作家」 樋口一葉は、内幸町の東京府庁内長屋(内幸町一丁目5付近)の生まれ。本名奈津、夏子との書いた。歌塾「萩の舎」に入塾。ここで三才女の一人と謳われる。姉弟子の田辺花圃の書いた「藪の鶯」が評判を得たことから、半井桃水に師事し小説家としての一歩を踏み出す。生活苦から荒物・駄菓子屋を出すなどするが失敗し、本郷丸山福山町に転居。「文学界」の若い同人たちとも交わりながら、わずか2年半の間に珠玉の作品「大つごもり」、にごりえ」、「たけくらべ」などを発表し文壇に旋風を巻き起こすが、その絶頂の24歳8ヶ月という若さで短い生涯を過ぎる。
5 半井桃水
なからい とうすい
1860〜1926 一葉が、師として通いつめた思慕の人 作家として半井桃水の名を知っている人は少ないだろう。現在では「たけくらべ」の樋口一葉の師であり、また思慕の人であったとことで名を残している。彼は東京朝日新聞の小説記者として「天狗題状」、「大石内蔵助」といった時代通俗sy創設を書いていた人。その桃水は一時期平河町二丁目2(平河町1丁目3)及び二丁目15(1丁目6)に住んでいた。彼の住まいを訪れた様子が一葉の日記に幾たびか記されている。
6 有島武郎
ありしまたけお
1878〜1923 いわゆる有島三兄弟といわれる中で長男。学習院では皇太子の学友に選ばれる温厚な性格で、アメリカに留学。弟生馬を通じて知り合った武者小路実篤、志賀直哉などとともに「白樺」を創刊。「カインの末裔」、「或る女」、「生まれ出づる悩み」など、次々と発表しリアリズムの虚構を極めた作家として文壇の寵児となる。しかし、不倫問題の末に軽井沢の別荘で女性記者・波多野秋子とともに45歳の生涯を終える。
7 有島生馬
ありしまいくま
1882〜1972 本名は壬生馬、武郎の実弟。藤島武二に師事し、イタリア、フランスに留学。印象派の影響を受け日本で最初にセザンヌを紹介した。二科展を創設した作家であり、かつ「白樺」の同人として文壇にも登場。学生時代から志賀直哉の親友で島崎藤村とは南米旅行にも同行した。
8 里見ク
さとみとん
1888〜1983 本名山内英夫母の実家の姓を接いだ有島家で育った。兄の武郎、生馬らとともに「白樺」の発行にもたずさわる。隣家にいた泉鏡花にも可愛がられた。六番町の家を出てからは   麹町1丁目、三丁目に所帯を持った。多くの小説がある。
9 菊池寛
きくちかん
1888〜1948 「文芸春秋」を創刊した骨太の作家 明治21年(1888年)12月26日、現在の高松市天神前に生まれる。本名は寛(ひろし)小説家、劇作家として活躍する一方雑誌「文芸春秋」を創刊し文壇に君臨。一高時代の同級生であった芥川竜之介、久米正雄らとともに第三次「新新潮」の同人となる。小説「忠直卿行状記」、「恩讐の彼方に」や戯曲「父帰る」などを発表して新進作家としての地位を固める。また、ジャーナリスト的な視点から文芸春秋社を設立し一大出版社に育て上げる。最近ドラマ化され評判になった「真珠婦人」は成功した通俗小説の第1作であった。1926年(大正15年)有島邸の一部を自宅兼文芸春秋社とした。 
10 薄田泣菫
すすきだきゅうき
1877〜1945 明治10年岡山県生まれ。蒲原有明とともに、同じく印象派の詩人で随筆家ある。明治30年ごろに六番町の漢学者三好正気宅に寄宿し手板と年譜で記述があるが場所は不明。この頃はじめて筆名でデビュー。明治25年「公孫樹下にたちて」で、藤村が詩壇から身を引いた後の詩壇の寵児となる。新體詩人。『暮笛集』(明治32年)、『白羊宮』(明治39年)。のち、『茶話』『艸木蟲魚』などのコラム・隨筆で知られるようになる。
11 蒲原有明
かんばらありあけ
1876〜1952. 日本における象徴派の詩人蒲原有明は1875年(明治18年)麹町隼町8番地(現:隼町4)に生まれた。生誕の地名から隼雄と名づけられた。麹町小学校を卒業。雅号の有明は父の郷里の佐賀県有明海に因む。島崎藤村らと親交を深めロセッティらの詩人画家を知り「海潮音」を訳した上田敏などの影響で象徴派を創作。従来の詩壇に見られなかった清新さを示した。
12 坪内逍遥
つぼうちしょうよう
1859〜1935 近代小説の始祖で、シェイクスペア学者 1859(安政6年)岐阜県加茂郡太田宿(美濃太田市)生まれ。日本で本格的にシェイクスペアを紹介した坪内逍遥も明治9年(1876年)に名古屋から上京し、現在の三番町に当たる上六番町の兄・信益の家に寄寓していたと年譜には記載されているがその場所は特定できない。
13 大橋佐平
おおはしさへい
1835〜1901 「最初の近代図書館を作った出版社主」 長岡藩出身。日本に近代的な出版業を開始したのは大橋佐平の博文館であった。その彼が欧米を歴訪して図書館の必要性を痛感。上田万年らの協力で明治34年(1901年)。自分の屋敷であった上六番町44番地(現:三番町33)に木造2階建て(書庫はレンガ造り3階)の近代的図書館を開館した。石川啄木、菊池寛、網野菊など数多くの作家たちが訪れた。網野の「仮入学生」にその様子がよく描かれているが、残念ながら大正12年に火災に遭い建物も図書も灰燼に帰した。
14 田辺太一
たなべ(みやけ) かほ
1831〜1915 幕末、明治の外交官として活躍し「幕末外交談」を著す。 明治時代の外交官。元老院議官。儒学者を父に持ち、幕末の頃は幕臣として外交交渉に当たった。慶応3年遣欧使節団の随員としてパリ博覧会に出席。維新後はその実績を買われて外務省高官として活躍(著書に「幕末外交談」がある)。下二番町5(現:二番町11)に住み、当時は市川団十郎、三遊亭円朝らを自宅に招いて豪華な宴を催すなど万事が派手好みだった。その娘が樋口一葉とともに才媛と謳われた「薮の鶯」で近代文学史上に名を残す女流小説家田辺(三宅)花圃である。
15 田辺(三宅)花圃 1888〜1943 近代女流小説家の第1号 本名田辺龍子 一葉とともに萩の舎の才媛とよばれた女性。父は外務省官僚だった田辺太一で下二番町5(現:二番町11)に邸宅があったが放蕩三昧の暮らしぶりで、兄の葬儀費用にも事欠く有様だったという。原稿料を書くつもりで書いた処女作「薮の鶯」が評判となり、近代女流小説第1号と称されることになる。この花圃の成功を見て、一葉は小説で身を立てる決心をしたといわれる。花圃は明治25年に評論家の三宅雪嶺(1860〜1945)と結婚し下二番町37番地(現:二番町5)に新居を構えるが、ここへも一葉は幾たびが訪れている。
16 高浜虚子
たかはまきょし
1874〜1959 俳句の普及につくした 明治大正の俳句会を牽引した高浜虚子とその娘星野立子(1903〜1984)も一時期一番町に住んでいた。それ以前、麹町区富士見町四丁目8(現:富士見二丁目17)に8年ほど住んだあと明治42年に五番町3(現:一番町1)に移った。虚子は一年後の12月には鎌倉由比ガ浜に再度転居する。五番町3といえば斎藤秀三郎(仙台出身。「斎藤英和辞典」と呼ばれ、全国で親しまれた英和辞典の傑作を世に出した英語学者)がすでに明治39年、五番町2に1000坪の邸宅に住んでおり、そのすぐ隣に引っ越してきたことになる。英語界と俳句界の両巨星は相まみえたのであろうか。
17 島木赤彦
しまきあかひこ
1876〜1926 誠実な短歌を詠ったアララギ派の歌人 明治・大正期のアララギ派の歌人であった島木赤彦は大正9年ごろ下六番町27番地(現:六番町1)に住んでいた。旧27番地は現在大前ビルから番町スタジオあたりの広いいったいだが、現在のところ詳細な場所は特定できない。アララギの発行人であった島木の自宅の移転に伴いアララギ出版所も一時ここに置かれた。
18 国木田独歩
くにきだどっぽ
1971〜1908 独歩の恋愛の舞台は、もっぱら番町麹町界隈だった。 「武蔵野」で知られる作家・国木田独歩は千葉県銚子生まれだが、東京専門学校(今の早稲田大学)に入学するために上京。 明治24年一番町教会(現:富士見町教会)で洗礼を受け28年麹町に両親と住み、佐々城信子と恋愛関係になる。その後反対を押し切って結婚するがわずかの期間で破綻する。この間、明治女学校に寄宿生活を送っていた相馬黒光のもとにも信子を探しに訪れている。その後一番町の下宿では隣家の娘榎本治子に出会い明治33年に結婚。「おとずれ」、「死」などの作品には番町周辺のことが描かれている。妻の国木田治子もまた作家を志小説「貞ちゃん」などを書いている。
19 武田麟太郎
たけだりんたろう
1904〜1946 プロレタリア文学の旗手 プロレタリア文学の作家武田麟太郎は1937年(昭和12年)から太平洋戦争末期まで下二番町29(現:二番町10)にあった借家にすんでいた。麟太郎は戦前の昭和期にプロレタリア文学の新人としてデビューした小説家で代表作に「日本三文オペラ」、「釜ガ崎」、「井原西鶴」などがある。
20 邦枝完二
くにえだかんじ
1892〜1956 麹町小学校出身の時代小説家 邦枝完二は麹町小学校卒業の大正・昭和期の小説家。永井荷風に私淑し、江戸文化の影響を受け「東洲斎写楽」、「歌麿」、「お伝地蔵」など時代風俗小説を多数執筆した。麹町小学校の旧校歌は邦枝の作である。その娘・木村梢は俳優・木村功と結婚後エッセイストとして活躍。この付近の当時の風俗を東京山の手昔がたり」にあらわしている。下二番待ち72(現:二番町39に居住。
21 永井荷風
ながいかふう
1879〜1959 耽美派の作家永井荷風が若き日に住んでいた場所が一番町42(現:三番町5)にあった。ここに住んでいた時期は明治27年18歳の時から。優秀な官吏であった父、永井又一郎は荷風が19歳のとき体感して日本郵船に入社し上海支店長になり単身赴任。荷風自身は東京外語学校支那語課に入るもあまり勉強せず、尺八や落語に凝り、小説を書いて懸賞小説1等賞を獲得したのもこの時期。まさに荷風文学の原点が、この三番町にあるといえよう。その後、アメリカ、フランスへと遊学。戦前は「つよのあとさき」「墨東綺譚」を赤裸々に描いた小説を書いた。
22 小山内薫
おさないかおる
1881〜1928 無想庵の中学のときからの親友、劇作家で自由劇場、築地小劇場を興した小山内薫がいる。少年時代は少年時代は富士見町一丁目26(現:九段北南二丁目6)に住み、19さいからは三番町(現:九段北)に移転。無想庵や国木田独歩との交流など幼年から青年時代まで多感な年齢を番町地区で過ごしている。薫の妹で兄とともに多くの劇作を発表した岡田八千代(1883〜1962)も同じく三番町に住み、洋画家の岡田三郎助と結婚するまで番町に過ごした。
23 武林無想庵
たけばやしむそうあん
1880〜1962 大正期のダダイズムを代表する作家。養子先の武林写真館のあった一番町11(現:三番町5)に5歳から26歳までの間住んでいた。当時写真館は時代の先端をいく職業であった。彼はここから番町小学校に通い、後に尋常中学、一高、東大へと進む。幼友達の小山内薫らと「帝国文学」の編集に携わり、その後ダダイスト辻潤などの影響でフランスに遊学し放浪の日々を送った。
24 与謝野鉄幹
よさのてっかん
1873〜1935 雑誌「明星」を主宰し、浪漫主義運動を展開した歌人。鉄幹は(本名は寛)鳳晶子と結婚して中六番町(現:四番町9)に住む約10年前の明治32年(1899年)、上六番町45(現:三番町22)に1年余り住んでいた。ここから雑誌「明星」の第1号が発刊された。現在の東京家政大学学院の本館あたりは「明星」創刊の地に当たる。「雑誌明星の創始者で短歌界を革新した詩人」
25 与謝野晶子
よさのあきこ
1878〜1942 歌集「みだれ髪」でデビューし、反戦詩「君死にたもうこと勿れ」で知られる情熱の歌人与謝野晶子は(鳳晶子)は大阪堺市の生まれ。幼年の頃から文学に親しみ、さまざまな雑誌に短歌を投稿。明治33年「明星」2号に短歌を発表し、与謝野鉄幹と出会う。翌年結婚し生涯に5万首の短歌を詠んだという。結婚の1901年に発表した第一歌集「みだれ髪」は、まさに20世紀という新しい世紀にふさわしい女性の自我を高らかに詠った歌集として文学史に燦然と輝いている。女流作家の第一人者となってからは、古典の「平家物語」や「源氏物語」を現代語に訳して人気を得る。「女性の視点から官能とロマンを歌い上げた歌人」
26 内田 百間
うちだひゃくけん
1889〜1971 本名栄造岡山市生まれ。陸軍士官学校、海軍機関学校、法政大学などでドイツ語を教える。この間、夏目漱石の知遇を得て教壇から作家生活に入る。噛み締めれば噛み締めるほど味わいのでてくる瓢逸味に溢れた「百鬼園筆」によって人気を集める。黒沢明監督作品「まあだだよ」は彼がモデルである。古くからの六番町の住人にとっては彼が愛猫ノラの・失踪を憂いて必死になって探している様子が今でも記憶に新しい。
27 泉鏡花  
いずみきょうか
1873〜1939 「独特の幻想世界を生み出した」 小説家、劇作家明治6年石川県金沢市下新町23番地(現在の尾張町の久保市乙剣宮近く)に生まる。本名は鏡太郎。尾崎紅葉の門下となり「夜行巡査」、「外科室」などの観念小説で認められる。その後、独特の文体で幻想的神秘的な世界を構成し、今なお多くの読者を魅了している。元旗本屋敷だった広大な有島低の向かいの下六番町11(現:六番町5)には二軒長屋があった。鏡花は明治43年5月にそれまで住んでいた土手三番町から37歳から66歳で没するまでの29年間その二軒長屋の左側で過ごした。この家から「夜叉ヶ池」、「天守物語」などの名作が生み出され、すでに「婦系図」で人気を博していた彼のもとには、多くの作家たちが集まった。
28 水上滝太郎
みなかみたきたろう
1887〜1940 「鏡花に傾倒したモラリスト作家」 本名阿部章蔵 大正昭和期に活躍した小説家.劇作家の水上滝太郎は師として尊敬していた泉鏡花のすすめで下六番町29(現:六番町2)に、1923年(大正12年)から住んでいた。ここは当時、まだ立派な長屋門が残っていた旗本屋敷で、鏡花は「元禄屋敷」と呼んでいた。彼の父は明治生命の創立者阿部泰蔵で、彼自身も同社役員として終生小説家と実業家の二足のわらじを履きながら、執筆活動と「三田文学」の編集に尽力した。1940年寄しくも師である鏡花の追悼号に「覚書」を書いたのが絶筆となり53歳の若さで急逝した。代表作には「大阪」、「大阪の宿」などがあるが、評論集「貝殻追放」にもっとも彼のリベラルな人柄が現れている。
29 吉行エイスケ 1904〜1940 「ダダイ「ダダイズムとモダン文学の旗手」 1930年(昭和5年)と氏24歳の作家吉行エイスケは自分たち夫婦をモデルに「職業婦人気質」を出版した。その中で登場する無名の作家田村英介が著者自身、妻美容師田村スマ子が今なおかくしゃくとして活躍されている吉行あぐり(1907年)さんである。そして吉行淳之介(1924〜94)女優の吉行和子(1935年)さん、詩人の吉行理恵(1939年)さんの実父であることは言うまでもない。
30 吉行淳之介
よしゆきじゅんのすけ
1924〜1984 「戦後の新生代文学の旗手」大正13年に岡山市に生まれすぐに上京し番町小学校、麻布中学と進む。 作家安岡章太郎、遠藤周作らとともに「第三の新人」と呼ばれ、戦後の小説界に斬新な風を吹き込んだ。『驟雨』により第31回芥川賞を受賞。「夕暮れまで」など次々と話題作を書き続けた。吉行さんの生涯のパートナーが女優で「ねむの木学園」を運営する宮城まり子さんであることは知られています。
31 岡本綺堂
おかもときどう
1872〜1939 新歌舞伎作家の第一人者として「修善寺物語」、「番町皿屋敷」、「鳥辺山心中」などを書いた岡本綺堂は、生まれは芝高輪だが英国公使館に勤めていた父の関係で4歳のときに同じく元園町一丁目27番地(現:麹町二丁目10)に転居。いご、62歳に上目黒に移転するまでこの麹町に住み続けた。一躍番町の名を知らしめた「番町皿屋敷」は、もとは播州皿屋敷という歌舞伎を翻案したもの。「番町皿屋敷」自体は綺堂の創作だが、そのモデルとなった屋敷の所在はいまだに謎に包まれている。
32 寺田寅彦
てらだ とらひこ
1889〜1935 本名吉村冬彦 物理学者であり優れた随筆家であった寺田寅彦は、本人は平河町三丁目の生まれと自述年譜に記しているが、小林・・著「寺田寅彦の生涯」によれば、正しくは平河五丁目40(現:平河町二丁目10-11)で生まれたという。8歳のときに中六番町52(現:四番町8・マインハイム四番町辺り)に住み、ここから番町小学校に通っている。高校のとき夏目漱石から英語を学び、それ以後師と仰ぐ。「天災は忘れられたる頃来るという警句は有名。
33 堀辰雄
ほりたつお
1904〜1953 「風たちに」などの小説で今なお人気の高い作家の堀辰雄も、平河町五丁目5(現:平河町二丁目13)で生まれており、三歳の頃向島に転居している。自身の肺結核と闘病生活の中で「・・家」や「美しい村」などの清新な恋愛小説を発表して小は前半期を代表する作家となった。
34 網野菊
あみのきく
1900〜1978 「麹町の庶民の暮らしを描いた女流作家」女流作家の網野菊は志賀直哉に師事し、リアリズムによる私小説を得意とした。11歳から三番町(現:九段北四丁目)に住み、番町小学校、千代田高等女学校(現:千代田女学園)に通学。日本女子大学英文科卒業。昭和17年から四番町1(現在と同じ)に打つ井住んだ。「光子」、「さくらの花」、「ゆれる葦」などの作品には、麹町界隈の当時の庶民生活が丹念に描かれている。
35 吉屋信子
よしやのぶこ
1896〜1973 「女の吉川英治と謳われた人気女流作家」「徳川の夫人たち」など女流流行作家として戦前戦後を通じて人気があった吉屋信子は昭和25年から昭和37年まに鎌倉に転居するまで二番町11に住んでいた。大衆小説、歴史小説を精力的に執筆し、「安宅家の人々」、「鬼火」などの作品がこの家から生まれた、ここ番町の家は作家たちのサロンにもなった。
36 森雅之
もりまさゆき
1911〜1973 有島武郎の長男として札幌に生まれた。本名は有島行光。幼年時代から青年時代までここで過ごした。戦後、映画「安城家の舞踏会」(47)に出演し、知的でしかも暗い影を宿した二枚目俳優として注目を集める。以後「羅生門」(1950)「雨月物語」19(53)「浮雲」(1953)などの名作に出演。戦後の代表的な二枚目俳優として数多くのファンを魅了した。 遺言は「死顔をひとに見せてはいけない」であった。
37 市川右太衛門
いちかわうたえもん
1907〜1999? 生涯「旗本退屈男」を演じ続けた。 戦前からの映画スター。1925年(大正14年)マキノプロに入社。独立して多数の時代劇で人気を集めた。中でも「旗本退屈男」は戦前戦後を通じて31作に出演。戦後も片岡知恵蔵とともに東映の重役スタートして時代劇映画界に君臨。60年代以降は活動の場を舞台に移し「退屈男」を演じ続けた。晩年は、一番町20のマンションに住んでいた。
38 若山富三郎
わかやまとみさぶろう
1929〜1998 あの勝新。、若山の兄弟がアメ車に乗って。兄弟スタートして戦後の映画・テレビ界で人気が高かった若山富三郎・勝新太郎がデビューしたての一時期六番町5(現:ガレリア・クルテ)がたっている場所)に住んでいたことがありました。派手な外車とサングラスをかけた若き日の二人を知る人も今は少なくなりました。若山富三郎は父・杵屋勝東治のもとで長唄を修業後、1955年新東宝で映画デビュー。仁侠映画の隆盛期には「博徒打ち・総長賭博」、「極道」シリーズなどで人気を博す。さらに「子づれ狼」シリーズをへて、NHKテレビの「事件」の弁護士役などで新境地を開いた。
39 勝新太郎
かつ しんたろう
1931〜1998 兄・若山富三郎とともに長唄の世界から映画俳優の転じ、1959年にデビュー。1960年「不知火検校」で盲目の悪役を演じて芸域を広げる。これが後の「座頭一」シリーズで開花した。他に「悪名」シリーズでも個性豊かな主役を演じ人気を得た。勝プロダクションを主宰し監督もこなした。
40 大岡越前守忠相
おおおかえちぜんただすけ
1677〜1751 伊勢の山田奉行の実績によって、藩主徳川吉宗が8代将軍に就任すると江戸町奉行に抜擢される。公正な裁判と優れた江戸行政によって名奉行と謳われた。元文元年(1736年)に寺社奉行となり一万石を与えられ大名となる。おわゆる「大岡政談」は現在では中国の小説の焼き直しであったり他の奉行の裁判を混ぜたもので、彼の実績であったという根拠は薄いとされているが、江戸の経済政策に力量を発揮した。麹町ウぉ−カ−(麹町遊歩人)bT5号
41 佐野政言    
さのまさこと
1757〜1784 旗本の佐野政言は、賄賂政治が横行した老中田沼意次時代天明4年(1784)、意次のこで父とともに権勢を誇った若年寄田沼意知を城中で切り付け切腹を命じられた。原因は私情であったとされるが、世人はこれを「世直し大明神」とたたえた。その屋敷は現在の大妻女子大学の校舎内(現:三番町12)にあった。当時は「番町には過ぎたるものが二つある。佐野の桜に塙検校」とうたわれたほど見事な枝垂桜があったという。麹町ウぉーカー(麹町遊歩人)bS1号
42 高野長英    
たかのちょうえい
1804〜1850 江戸末期の蘭学者・医師。長崎でシーボルトに医学を学び、西洋の地学、兵学などを広く紹介した。江戸で町医者として天保元年(1830)この貝坂下にに塾を開いている。渡辺崋山らと蘭学を学び世界を知ろうと勤めたが、蛮社の獄に連なり、いったんは脱獄するがその後幕吏に追われ自殺する。麹町ウぉーカー(麹町遊歩人)46号
43 山田朝右衛門
やまだ あせもん
初代1657〜1716 劇画にもなった「首切り浅(朝)右衛門」は浪人の山田家が引き継いだ幕府の「お試し御用」の家系で、代々その名を受け継ぐ。将軍のための刀剣を管理する腰物奉行奉から依頼を受けて、刀剣の切れ味を試すのが仕事であった。刀剣の鑑定だけでなく、実際に人体を斬って切れ味を試すことから「人斬り」とも呼ばれた。江戸切絵図にもその名が残されており、現在の平河町一丁目2あたりと思われる。麹町ウぉーカー(麹町遊歩人)48号
44 安藤広重
あんどう ひろしげ
1797〜1858 江戸後期の浮世絵師。定火消(幕府直属の消防隊)同心職の家柄に生まれた。現在の丸の内二丁目1あたりはその屋敷があった場所でそこで広重は生まれた。当初は常火消同心としての家督を継ぐが、文政6年に引退して画業に専念する。最初は美人画で売り出したが、次第に花鳥風月の色彩が強まり、風景画「東海道五十三次」で一躍世に認められた。
45 塙保己一
はなわ ほきいち
1749〜1821 和学講談所は盲目の大学者として有名な塙保己一の建議によって、寛政5年(1793)麹町六番町(現:三番町24)に開設された。講談所は幕府直轄学校となったが、実際の運営は保己一に任されていた。「群書類従」など古今の書籍の収集・分類し、彼の死後もこの事業は継続され、明治元年まで続いた。この精神は、現在も東大史料編纂所の仕事として受け継がれている。麹町ウぉーカー31号
46 渡辺崋山
わたなべ かざん
1793〜1841 江戸後期の画家であり思想家であり田原藩の家老職であった。渡辺崋山は田原藩三宅備前守の江戸藩邸のあった地でうまれ、蛮社の獄で入牢するまの天保10年(1839)まで住んでいた。(現在の最高裁判所の場所である。)藩政改革に努めたが旧守派に阻まれて失職。さらに蘭学を学び高野長英らと交情を深めたが、蛮社の獄で弾圧されたのちに自殺する。西洋画法を取り入れた人物画、山水画を描いた。

2004年1月4日

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