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大晦日からお正月の間、TVは休み無しですね。

歌あり、ドラマあり、バライティーありのテンコ盛状態です。

また、地上波デジタル放送が始めて迎える正月でもありました。

どんな具合なのでしょうか?興味は尽きないのですが、何が今のTVと違うのかが実感できないでいます。

今年、ちょっと寂しかったのが、例年必ずあった上野鈴本演芸場からの中継放送が無かったことです。(1月3日に浅草演芸ホールからの中継はありました)ただ騒がしくバカバカしいTVのお笑いバライティー番組とは違い、高座からの落語中継は日本の正月を感じさせてくれる数少ない番組だと思っています。上野鈴本演芸場の火事の影響もあったのでしょうが、是非来年は復活してもらいたいものです。(落語番組として、NHK教育1日の深夜11時45分から4時半まで「日本の話芸」の再放送を延々と流していました。初夢はいいけれど、初笑いが真夜中というのも妙なものです)

さて、H氏は昨年来「わがまち人物館」に通い詰めです。

新年御挨拶でも予告させていただきましたが、わがまち人物館「このまちの人々展」のレポートを2回に分けて配信いたします。

麹町界隈町名新旧対照表

====================================== 一階に展示されている全てのデーター
15年11月8日、旧番町出張(麹町2丁目14番地)の建物を使って、千代田区麹町出張所管内22の町会(麹町地区連合町会)の地域活性化事業実行委員会主催 『祭 サンさん千代田』がこの街に住んだ人々を紹介する、「わがまち人物館」をオープンしたので紹介しよう。

内容があまりに多すぎるので、2回に分けて紹介することとした。

まず、わがまち人物館「このまちの人々展」の開催期間は、平成15年11月8日(土)〜平成16年3月27日で開館時間は毎週金・土曜日・午前11時から午後6時まで、週末のみのオープンなので注意が必要である。(当初は期間限定であったがその後、金・土曜日開館の常設展となった。そして展示内容も多少さしかえられています。変更内容について追って紹介します。2004.11.30)

最初に「会いにこないか あの頃、みんなお隣さんだった私たちに会いに来ませんか。打ち揃ってお待ちしています。〜この町の昔の住人より 」、「これだけ多くの著名人、文化人が住んでいた町なんてちょっとない。そして今、私たちが住み、学び、働くこの町が好き」とある。これが、「わがまち人物館」のテーマであろうか?

以前は事務所だったスペースの壁一面に写真と短い説明が書かれたパネルある。中央には2メートル四方もあろうかという麹町地区の地図あり、それにこの町に住んだ人々の名前の書かれた黄色い名札がピンで立てられている。

まず、番町で産声を上げた白樺派の巨匠「武者小路実篤」と「千家元麿」のパネルがある。

「仲よきことは美しき哉」、「天に星、地に花、人に愛」等と書かれた色紙でよく目にする白樺派の作家「武者小路実篤」は、1885年(明治18年)5月12日に麹町区元園町1-38(現:一番町19-4)この「わがまち人物館」の前の辺りで生まれた。

次に詩集『若菜集』で文壇にデビューし『破戒』や『夜明け前』など明治から昭和まで文豪の名をほしいままにした「島崎藤村」のパネルである。若い頃日本テレビの斜め向かい辺りにあった「明治女学校」の教壇に立っていた。このとき藤村は教え子の佐藤輔子に恋をしたが彼女には許婚がおり失意のうちに一時女学校を辞職したのだという。それゆえに藤村のパネルには「藤村先生若き日の失恋の痛みは消えましたか」とあるのである。

天井から吊るされたスクリーンには「まだあげ初めし前髪の 林檎のもとに見えしとき 前にさしたる花櫛の 花ある君と思いけり」という島崎藤村代表作若菜集のなかにある『初恋』の一節が書かれている。

* 「初恋」の後段を紹介しよう。忘れかけていた青春時代のピュアな気持ちになれるすばらしい詩である。

  「やさしく白き手をのべて   林檎をわれにあたへしは  薄紅の秋の実に

  人こひ初めしはじめなり

  わがこゝろなきためいきの  その髪の毛にかゝるとき  たのしき恋の盃を

  君が情に酌みしかな

  林檎畠の樹の下に   おのづからなる細道は  誰が踏みそめしかたみぞと

  問ひたまうこそこひしけれ」

次は、有島邸である。パネルには「六番町の有島邸は大正・昭和文学の梁山泊だった。」とある。現在の「漢方のツムラ本社」の向かいの六番町3に広大な屋敷があり有島三兄弟(武郎、生馬、里見惇)が住み、その敷地の一部に菊池寛も一時住み、文芸春秋社もここに置かれていた。

有島武郎は武者小路実篤、志賀直哉などとともに「白樺」を創刊し、『カインの末裔』で知られる作家である。渡辺諄一の『失楽園』の中にも、有島と女性記者「波多野秋子」の不倫の末に起こした軽井沢の別荘での心中事件が、自分達(久木と凛子)の心中と対比して描かれている。

有島生馬は日本で最初に「セザンヌ」紹介した人である。

「文芸春秋社」や「直木賞」等を作った菊池寛に関しては20号で紹介した。

その隣には「日本の印象派の詩人は・・番町から。」とあり「薄田泣菫」、「蒲原有明」が紹介されている。蒲原有明は最高裁判所のある隼町に生まれ、名前の「有明」は父親の郷里の佐賀県有明海に由来するという。

さらに、「近代小説の始祖」と呼ばれ日本で始めてシェイクスピアを紹介した「坪内逍遥」は三番町の兄の家に寄宿したがその場所は特定できないという。

会場の正面には「最初の近代図書館を作った出版社主・大橋佐内」のパネルがある。大橋は東京家政学院あたりの三番町33の自宅にわが国最初の図書館を作った。

二番町11には明治時代の外交官「田辺太一」と、わが国最初の女流小説家「田辺花圃」の親娘。そして明治・大正の俳句界を代表する「高浜虚子」、アララギ派の詩人「島木赤彦」がいた。その前のスクリーンには、「夜に街どよみを止めぬ灰の上に火鉢の縁の影する寒さ」という島木赤彦の『東京』の一節が書かれている。

今年から5000円札の肖像となる「樋口一葉」は、住んでいた本郷から師であるとともに思慕の「半井桃水(なからいとうすい)」のところに通っていた。『たけくらべ』、『にごりえ』で文壇に現れた彼女の生活は苦しく、24歳8ヶ月の短い生涯であった。

次に「独歩の恋愛の舞台はもっぱら番町麹町界隈だった」と、「国木田独歩」が青春時代に恋した女性がこの界隈にいたことを紹介している。ここでは彼の代表作『武蔵野』の朗読がCDで流れている。

そして「与謝野家の食卓は賑やかでしたか」とある。雑誌「明星」を創刊し、短歌界を革新した歌人「与謝野鉄幹」と女性の視点から官能とロマンを歌い上げた歌人「与謝野晶子」夫婦は明治43年神田から麹町に移り住んで、富士見町に転出するまで番町に住んだ。四番町の女子学園隣の「麹町小田急ハイツ」の場所や、東京家政学院の向かいに居を構え5年間を過ごした。このとき夫婦には3男4女がおり食卓は賑やかだったと思われる。

夫婦のパネル前の、天井から吊るされているスクリーンには、鉄幹の「妻をめとらば才たけて、みめ美わしく情ある  友をえらばば書を読みて、六分の侠気四分の熱」、そして晶子の「旅順口包囲軍の中に在る弟を歎きて ああおとうとよ 君を泣く 君死にたもうことなかれ 末に生まれし君なれば 親のなさけはまさりしも 親は刃(やいば)をにぎらせて 人を殺せとおしえしや 人を殺して死ねよとて 二十四までをそだてしや 君死にたもうことなかれ 」と書かれている。

与謝野夫婦の隣には「内田百閨vがひろいスペースで紹介されている。内田百閧ヘ六番町の中華学校辺りに戦前戦後に住んでいた小説家で黒沢明監督の最後の映画作品「まあだだよ」のモデルである。そして壁に内田百閧フイラストがある。一見すると吉田茂と見間違ってしまう。彼が飼い猫の「ノラ」が失踪して探し回る姿が今でも六番町の人たちには記憶に新しいのだという。

その隣には「荷風も薫も無想庵も放蕩無頼の時代を番町界隈で過ごした」と耽美派の作家「永井荷風」、劇作家「小山内薫」、大正ダダイズムを代表する作家「竹林無想庵」がある。(☆ダダイズムとは既成の権威・道徳・風俗・芸術形式の一切を否定し、自発性と偶然性を尊重する芸術運動。)

そして1階、展示スペースの奥にある部屋には千代田区女性フォーラムによる「加藤シズエ」と「千代田区女性史」それにここに紹介されている女性達の似顔絵がある。

1階にはもうひとつ隣に展示スペースがある。

一番奥には「泉鏡花」の家と部屋の様子が再現され「独特の幻想世界を生み出した」小説家として紹介されている。鏡花は恋仲になった神楽坂の芸者桃太郎(すず)との仲を師匠の尾崎紅葉に反対されたこと、それが題材となった代表作『婦系圖』や、『高野聖』の中に紅葉の死後正式に妻となった「すず」の中に彼の理想の女性を見出していたのではないか等を16号で紹介済である。

その他にも、1階フロアーでは麹町界隈に住んでいた多くの文人たちを紹介している。

「鏡花に傾倒したモラリスト作家」として明治生命の創業者阿部泰三を父に持ち自らもその経営に携わり、二足のわらじを履いて小説家、劇作家として活躍した「水上滝太郎」(本名:阿部章蔵)は、師として尊敬した泉鏡花のすすめで六番町2に住んでいた。

NHKの連続テレビ小説「あぐり」で知られるあぐりの夫「吉行エイスケ」とその息子「吉行淳之介」。テレビの主人公「あぐり」の美容院は市ヶ谷駅そばの五番町グランドビル内にあことは52号で紹介した。

そして『番町皿屋敷』や『半七捕物帳』で知られる新歌舞伎作家の「岡本綺堂」は麹町二丁目に住んでいた。皿屋敷のモデルとなった旗本屋敷は今でも謎であるという。

「女吉川英治」と呼ばれた『徳川の夫人たち』で知られる「吉屋信子」は昭和37年まで二番町11に住んでいた。

「災いは忘れた頃にやってくる。」という言葉で知られる物理学者で随筆家の「寺田寅彦」は平河町5丁目(現平河町2丁目10―11)で生まれた。

昭和を代表する「若山富三郎」、「勝新太郎」兄弟が若いころ六番町5に住んでおりアメ車に乗っていた。「旗本退屈男」の「市川右太右衛門」は晩年1番町のマンションで過ごした。更に「羅生門」、や「雨月物語」の映画で知られる二枚目俳優「森雅之」は有島武郎の長男でありツムラ本社前の屋敷で青春時代を過ごしたという。

さらに「大岡越前」から「安藤広重」等の江戸時代の人物が紹介されている。「大岡越前」は55号で紹介したが日比谷公園脇の弁護士会館の場所に屋敷があり、安藤広重は丸の内大手門近くの定火消屋敷で生まれた。その他31号の「塙保己一」、41号「佐野善左衛門政言」、46号の「高野長英」、48号の「山田朝右衛門」、さらに最高裁判所の場所で生まれ高野長英と同じく蛮社の獄で投獄された「渡辺崋山」が紹介されている。

<ここから2階ですが、次号に続きます>

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なぜ、これだけの人たちが麹町界隈に住んでいたのでしょうか。

創造力を刺激する何かが、この街にあるのかもしれません。

わがまち人物館「このまちの人々展」の案内HPです

http://33chiyoda.net/waga_koNachi.html

 

H氏のHPには、わがまち人物館「このまちの人々展」で紹介されている文人たちが

エクセルデータで整理されて掲載されていますよ。

http://homer.pro.tok2.com/index.htm

 

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(大


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