TOP 坊津TOPに戻る  

老いらくの恋の歌人川田順の短歌が残る聖蹟野間池

鹿児島県の最西端野間半島の最先端・野間岬。旧笠沙町野間池 MAP
伝説の里でもあり古事記や日本書紀に天孫降臨の「ニニギノミコト」が木花之開耶姫「コノハナノサクヤヒメ」がここ野間岬で結婚したと伝えられる聖蹟である。
半島のつけ根に野間岳(標高591m)もある。
ここは(老いらくの恋の歌人)として知られる昭和を代表する歌人川田順の吟詠した数首が残る。
南さつま市笠沙町野間池の「夕日の見える丘公園」に一首。そして杜氏の里の入り口ゲートの右側の後ろに一首あります。
辻井喬著「虹の岬」は川田順をモデルとした素晴らしい小説である。
尚、このサイトの川田順の短歌はの笠沙町片浦にお住いの中尾雄作様の調査を基に作成されています。

更にサツマノギクについては友人のMrs.Sonodaの写真を使わせていただきました。
サツマノギクに令和5年のNHKの朝ドラのモデル牧野富太郎先生の薫陶を受けた東大の前川文夫先生が「牧野先生がサツマノギクは日本で一番美しい野菊である。」と話していたという。(鹿児島の植物研究者木戸伸栄先生から令和5年3月坊津町今岳のフィールドワークの際お聞きした。)2023年4月26日追加
 

「いにしえも今もあらざり阿多の海の黒潮の上に釣りするみれば 」昭和14年作

夕日の見える丘公園 MAP


photo by 中尾雄作様

 

昭和十四年極月六日川田順氏和子夫人と共に当地に詣て夕日を拝して吟詠数首を成せり小社  して一首を石に刻し皇紀二千六百年奉祝事業の一をなす
昭和十六年十二月 鹿児島朝日新聞社

妻の和子はこの旅のあと12月27日に脳溢血で亡くなっている。
(極月:ごくづき12月の異称)

追記
この碑の除幕式には川田順氏も京都から来られて臨席しておられる。
ここに書かれている和子夫人は来笠沙の直後に亡くなっておられるわけでどのような想いでこの碑の前に立ち野間池の海を展望したことであろうか。

photo by 中尾雄作様

 

冬知らぬ 薩摩野菊の 咲くところ 神代の蹟の 磯におりたつ

杜氏の里の入口のアーチの右側の裏にある。 MAP
photo by 中尾雄作様

サツマノギク(薩摩野菊)

海岸に面した岩場や草地に生える。分布は九州西南部。茎葉に銀白色の毛が密生する。葉は、長さ46pの広玉子形で羽状に浅く切れ込む。花色は白色で後にやや淡紅色を帯びる。とても貴重な野菊である。
photo by Mrs.Sonoda
 サツマノギク
「野の花めぐり大工園認著、初島 住彦監修」には「もし野草で県花の選定があれば本種がイチオシ。・・堂々とした中に孤高の気品が漂う。いかにも質実剛健の薩摩の気風にふさわしい。・・分布は・・と薩摩半島の西海岸が中心。まさしく鹿児島が誇っていいい名花の一つである」と紹介している。photo by Mrs.Sonoda
 サツマノギク

葉が白く縁どられるのが特徴。
「鹿児島の植物図鑑(杉本正流」には「純白で楚々と咲き競うサツマノギクは野生とは思えない気品がある」と紹介されている。
photo by Mrs.Sonoda

「牧野富太郎先生が(サツマノギクは日本で一番美しい野菊である)と話していた。」と東大の前川文夫先生が話していたと鹿児島の植物研修者木戸伸栄先生お聞きしたと教えていただきました。
2023年4月26日加筆
杜氏の里
このアーチの手前の裏に「冬知らぬ 薩摩野菊の 咲くところ 神代の蹟の 磯におりたつ」の碑が建つ。

photo by 中尾雄作様
 杜氏の里の向かいにある笠沙美術館から望む沖秋目島。「007は2度死ぬ」の舞台。
下の入江は黒瀬の浜は字は「神渡」という。

正面の岬の左端にある尖った山が「今岳」
   南さつま市立笠沙図書館に掛けられているという川田順が昭和14年12月6日に詠んだ歌
 おのずから ねんごろにして 神代なす 笠沙人らの もてなしにあう この海に 釣りし 網して 神々の いにしえのごと 人は生きけり  遠くにて 暁鴎(あきとり) 鳴けば やがてこの 笠沙の岬の 村にも泣きぬ  神さびし 笠沙の岬に 吾が佇めば 夕日の 日照る 時は来向ふ
 その他笠沙で川田順が昭和14年に詠んだ歌
(薩摩の国川辺郡笠沙村にて)
@天孫(すめみま)のここに来ましし古事を村の人らと一夜かたらふ
Aあかときと鶏高鳴けり磯崎の潮騒のなかにまぎれず
Bにはつどり遠鳴くききてここよりもさびしき部落を吾が想い居り  
【笠沙訪問の理由】
川田順が笠沙を訪ねたのは昭和14年12月6日。奥様の和子さんと訪れて数首の短歌を詠んでいる。なぜ川田が笠沙を訪ねたかの理由について書いたものはないが昭和15年は皇紀2600年であり愛国詩人と言われていた川田が第一回帝国芸術院賞を受賞した歌集『鷲』/歌文集『国初聖蹟歌』から推測すると「国の初めの聖蹟を巡った歌」として古事記や日本書紀でニニギイノミコトが笠沙の宮を築いた場所と伝えられる即ち聖蹟を巡って多くの歌を残したのではないかと考えられる。
川田順の短歌の作風は「浪漫的なものと写実的な感性が混ざったもの」と評されるが、これらの歌を読むと川田が神代の時代のことを思いながら笠沙の地で生きる人々への深い思いが詠われていており自分がその光景を見ているような感じのする歌である。
笠沙を奥様と訪れた直後に和子夫人が脳こうそくで亡くなっている。川田は「妻の死により予の人間が大きく変わった」と言わしめるほど愛しており、この旅行は川田にとって思い出深いものだったのではないかと推察される。
ただこの時期の神話にもとずく天皇体制の賛美、体制翼賛的な歌風はのちに彼にとって苦しいものとなったとの評もある。
【川田順、笠沙訪問の記録】
中尾雄作様が東京神田の古書店から取り寄せた歌文集『国初聖蹟歌』より。
昭和14年12月6日に鹿児島市内から伊集院駅に移動して、南薩鉄道に乗り換えるが南薩鉄道の山作一氏と笠沙助役有馬景義氏が案内方々迎えに来ている。
そして車窓に吹上浜の松原、温泉の出る伊作駅、一部の学者により高千穂の峰と擬されるという金峰山、そして烏帽子状の野間岳を望んでいる。初めて「古事記の匂い」を感じ、阿多駅にとまれば「阿多の宮ア」という小部落を過ぎると加世田駅に着いた。南薩鉄道常務取締役の鮫島三雄氏の自宅で昼食をごちそうになっている。その間に川村氏の庭園と竹田神社を散策している。
そして車で笠沙に向かい途中で有馬助役が薩摩芋の蒸かしたものをもらってきて頬張って、笠沙村役場を散策した後午後4時に笠沙之御崎の中村旅館*についている。旅館は2階建ての下宿屋風と書かれている。
一服して岬に上っている。「目を放てば黒潮の大洋際涯なく、脚下の浪の音を聞く。誰かが「この岬は揚子江の河口と相対しています。」と誰かが説明したと書かれている。
ここで川田は古事記の一節ニニギイノミコトが「此の地は韓国に向かい、笠沙之御前を真木通りて、朝日の直刺す国、夕日の日照る国なり。かれ、此の地ぞいと吉き。」と神勅を偲びながら黙々と洋上を見詰める。
五時十分、火焔の如き太陽は波濤の彼方に彼方に没した。こうして聖蹟巡拝第一の目的は充分に遂げられたとある。
中村旅館に下りてくると村の人が目の下二尺もある赤鯛を一匹下げて来てご馳走してくれた。土地の有力者都外川為吉翁も同席して賑やかな晩宴会を開いた。

和子も男子同様に浴衣の上に宿屋のたんぜんを着て座る。三十年一緒に暮らしたが、こんな姿には今晩初めて見た、と書いている。
海幸彦の話になり、有馬助役が「二三年前に大浦潟にクジラに二十頭が座礁した。」と話してくれたという。
これが笠沙に関する記述の概要である。
*ここにある中村旅館は九州電力ウインドパーク跡である。
(笠沙地区の歴史的記述としての価値があるため
国初聖蹟歌記載されている個人名はそのまま記載した。) (平成29年4月8日加筆)

 【夕日と妻】平成29年3月19日中尾雄作様の調査をもとに加筆。
川田順と妻の和子さまの鹿児島、笠沙旅行そして亡くなるまでの様子は「夕日と妻」という本にまとめられている。前書きにこの本の目的は「川田和子という純日本的家庭婦人の存在したことを・・追憶していただく・・」とある。
「今年(昭和14年)124日午後5時頃、僕と妻和子との二人は急行列車で鹿児島駅に着いた。折からの夕陽が櫻島山の西斜面に映じて、噴煙も鮮やかに仰がれた。『和子、あれが櫻島だ。綺麗で、雄大だらう。鹿児島は佳い處だぜ。』和子は、うれしさうな顔をしてうなづいた。・・(中略)

聖蹟巡拝の第一歩として此處に来ることは僕の旅程に定められてあった。さうして、勿論、火の如く照る落日を観んがためであった。僕等は村の人々に導かれて、小高い岬に登った。南国の忝なさ、路傍の枯草にまじって野菊や菫が咲いて居り、和子は珍しがって摘みとった。岬の突端、芋蔓の束を積み干した上に座り、僕等夫婦は肩を並べて大海の夕陽と相対した。天空雲なく、赤々と燃える太陽は刻々水平線に近づき、510分、全く波涛に没した。『これが古事記の夕日だよ』と僕は和子に教へてやった。その晩、野間池の中村旅館に泊まった。土地の人々の親切で僕等の夕食に用意してくれた赤鯛、眼の下二尺といふ海幸に、和子は目をみはった。・・・
(中尾雄作様の要約)

この本は中尾さんが調査の過程で国会図書館に1冊あることが判明しそれを南さつま市中央図書館がコピーサービスで取得し、それを川田順と関係の深い笠沙図書館に収蔵することが好ましいとの判断して笠沙図書館に収蔵された。 (平成29年3月19日加筆)

12月6日の夕日の見える丘公園からの夕日を私が登山で使うカシミール3Dを使って再現 川田ご夫妻はこれを見たのだろう。 

【老いらくの恋の歌人川田順】 
川田順は東京浅草区三味線堀の生まれ。
東京帝国大学では当初文科(文学部)に所属し小泉八雲の薫陶を受けた。小泉八雲の退任を受け「ヘルン先生のいない文科に学ぶことはない」と法科(法学部)に転科したという。
1907(明治40)年卒業後、住友財閥を統括する総本社の大卒の定期採用第1号として住友に入社。総務・経理などを経験し、1930(昭和5)年には常務理事に就任。歌人と実業人という二足のわらじを履き次の住友の総帥の座である総理事就任がほぼ確定していたが、昭和1154歳の時、自らの器に非ずとして自己都合で退職。
1942年に歌集『鷲』/歌文集『国初聖蹟歌』で第一回帝国芸術院賞を受賞。
歌人の道に専念し戦後は新春に宮中で行われる「歌会始」の選者をつとめ皇太子
(今上天皇)の和歌の指導を行う。
1944(昭和19)62歳の彼が弟子である3人の子を持つ京都大学教授(経済学者)中川与之助夫人鈴鹿俊子(35)と出会い恋に陥った。1948(昭和23)俊子と川田の恋愛が公になり、苦しんだ川田は昭和14年に亡くなった妻の墓石に頭をぶつけて自殺未遂を起こす。同年11月にこの事件を取材した当時産経新聞記者司馬遼太郎が川田の詠んだ「墓場に近き老いらくの、恋は怖るる何ものもなし」の一節を引用し「老いらくの恋」という見出しを付け報じ流行語となった。
24年(1949年)俊子(39歳)は中川と離婚し同年川田(66歳)と結婚。
情熱的な恋をした歌人である。
川田は昭和41年、84歳で没した。57歳で寡婦となった鈴鹿俊子は歌人随筆家として過ごし2008220日に98歳で亡くなった。
川田順の墓
昭和14年12月6日川田順と南さつまを訪問した後に亡くなった最初の奥様和子さまとの墓は京都の法然院にある。(写真は2017年5月撮影)

そして再婚した後の俊子さまとの墓は北鎌倉の縁切寺として知られた東慶寺にある。
昭和11年1月22日東京大学病院で亡くなった川田順はそののち解剖され脳は先に亡くなっている斎藤茂吉などと共に東京大学に保存されたという。
戒名は「泰順院殿締道博文居士」とされたという。
葬儀は青山斎場で住友の手配で執り行われ、天皇陛下、皇后陛下、皇太子殿下(今上天皇)、三笠宮殿下のお花やお供えもことのほか光を添えていたという。
三十五日忌は彼の父漢学者川田甕江(おうこう)の墓のある東京駒込の吉祥寺で行われた。
川田の骨は川田家の菩提寺である京都の法然院の川田家の墓に納め昭和24年12月27日亡くなった和子夫人の右に名前が彫られている。同時に分骨が高野山の桜池院にも納められた。
そして残された俊子は歌人の安藤博、三枝博音氏夫人の紹介で住んでいる辻堂から近い鎌倉の東慶寺に一角に墓地を見つけ分骨した。真ん前には一本の大きな欅の大樹が聳え、見上げる真向かいの丘の上には後醍醐天皇の皇女用堂尼の墓所がある。
墓は住友の仕事を仕事をしていた歌人若山牧水の息子の旅人しが設計し、墓石の表面の字は川田が書いた短歌の短冊のうしろの署名をとったため「川田順」とだけあり「之墓」がない。ただ東慶寺の墓の戒名は「泰順院締道博文居士」とあり「殿」がない。
没年の翌年の春彼岸に法事をして分骨をおさめた。その後、川田の骨は小学校時代からの親友で画家の堀田善種氏が川田家を訪問した時に氏が自身で焼いた白磁に土筆の絵の描かれた「若草」という蓋付きの壺に入れ替えられた。
そして川田敏子(歌人鈴鹿俊子)も平成18年(2008年)2月20日に亡くなりこの墓に一緒に眠っておられる。戒名は「詠雪軒梅窓大姉」(墓石の写真からやっと読み取った。)素適な戒名である。(2019年1月22日命日に加筆、写真は2019年1月4日撮影)
 【辻井喬著:虹の岬】
虹の岬は1994年度の谷崎潤一郎賞受賞作。
著者辻井喬は、セゾングループの経営者だった堤清二氏。
川田順は本名であるが中川(鈴鹿)俊子については森祥子としている。野間池を一緒に訪れた妻和子にその直後に死なれた後深い悲しみの日を過ごしたことが「妻に死なれて予の人間が変わったと思う」と残されていることから和子さんを心から愛していたことが分かる。そののち歌人としての実績を積んだ川田が昭和19年に祥子と出会い、恋愛へと発展し、(老いらくの恋事件)と呼ばれる自殺未遂事件をおこしてからの苦難の恋愛と再婚の経緯その後の人生が詳しく書かれている。
経済人である辻井喬であるが故に書きえた稀代の歌人川田順の老年の恋を繊細かつ端正に描いた恋愛小説であるるとに教養的小説ともいえる作品である。
さらにの小説は、経済人と文学者の二面性と共に斎藤茂吉、谷崎潤一郎、吉井勇等の友人たちとの交流も読んでいてとても楽しい。
そしてここ笠沙に川田順と妻和子が佇んで歌を詠んだという事実を知る者ならこの小説の最後の真鶴岬の場面が野間岬に重なるのではないだろうか。
一読をお勧めします。
これを原作として1999年に三国連太郎と原田美枝子による同名の映画も制作されている。
 
【坊津町で詠まれた歌】
昭和14年笠沙を訪ねた後私の故郷坊津町をへて長崎鼻に行っている。
その時坊津で詠まれた歌に坊津の様子がよく詠まれている。
@「坊津も久志も泊もこの国の 古き港は似てをおもしろ」
A「かつお船を久志の浦にて一つ見しが 坊津もまた一つ居るのみ」
B「火山島を沖合にしてこの磯の 松原の松あかるく青し」
長崎鼻にて詠まれた歌】
@「今落つる海の夕日に妻は笠沙の岬の昨恋ふらしも
A「再びは見ざらむ海と吾が妻は夕日のあたる岩よりおりて来ず
B「十二月薩摩半島の磯山にて すみれの花に妻は眼ざとし」

川田順は昭和11年にも長崎鼻を訪れ「黒潮の海に昇りし天津日は佐多乃岬を日ねもす照らす」と詠みその歌碑が佐多岬にある。もう一首「大隅の佐多の岬は海越しに突き出て青し鷹棲むといふ」歌も残る。   

この昭和14年の長崎鼻訪問の際の1番の歌から和子夫人は笠沙の岬を懐かしがっている様子が伺える。      

更に2番目の歌で京都丹波出身の和子夫人が海を楽しんでいる様子を愛おしく見つめている川田順の姿がある。
3番目の歌は和子夫人が長崎鼻あたりに咲いていた冬のスミレを見つけて珍しそうにしている。
そして中尾さんが国会図書館から取り寄せて調べてくれた「夕日と妻」の中には「南国の忝なさ、路傍の枯草にまじって野菊や菫が咲いて居り、和子は珍しがって摘みとった。」と書かれており野間池でもこのスミレを目にして喜んでいる様子が伺える。

 このスミレについてこの時期南さつまで咲くスミレをサツマノギクの写真を提供してくれたMrs.Sonodaさんに調査をお願いしたら、歌碑の写真と多くの川田の歌を調べてくれた笠沙町片浦で定置網を経営しておられる中尾雄作様と共に同定してくれた。この川田順と和子夫人が見たスミレは「ノジスミレ」と推定される。
中尾様
Mrs.Sonodaさん有難うございました。

 関連する管理者のサイト   ホメロスの読む古事記にある故郷の古代神話
☆古事記古代神話の舞台 笠沙ノ宮跡
 私の高校の先輩有馬さんがミュージシャンのYULYさんの「夕日の日照る国」のCD聞いて作ってくれた句集「国まほろば笠沙の春」を追加しました。
夕日の見える丘公園 MAP
杜氏の里 MAP
野間岬photo by 中尾雄作様

 

HOMER’S玉手箱 麹町ウぉーカー(麹町遊歩人) 会津見て歩記 甲府勤番風流日誌 伊奈町見聞記 鹿児島県坊津町