戻る 

Good Journey(よい旅を!)
増上寺
徳川家将軍墓

江戸時代の初め源誉存応(げんよぞんのう)が徳川家康の帰依(きえ)を受け、大伽藍(がらん)が造営される。以後増上寺は東京上野の東叡山寛永寺(天台宗)と共に徳川将軍家の菩提寺で、当山に埋葬されているのは、二代秀忠公・六代家宣公・七代家継公・九代家重公・十二代家慶公・十四代家茂公の六人の将軍のほか、崇源院(二代秀忠公夫人)、皇女和宮さま(十四代家茂公夫人)ら五人の正室、三代家光公側室桂昌院(五代綱吉公実母)はじめ5人の側室、及び三代家光公第三子甲府宰相綱重公ほか歴代将軍の子女多数が埋葬されています。
下の写真は廟に入って右側に二つ、正面に二つ、左面に4つの墓が順に並んでいる。
十二代家慶(いえよし)
家斉の第2子として、寛政5年(1793)に生まれ天保8年(1837)12代将軍となる。
家慶は天保の飢饉、大塩平八郎の乱などがあり水野忠邦を中心として「天保の改革」に着手するが、改革は失敗に終わり、幕府は没落の道を進むこととなる。家慶は嘉永6年(1853)、に亡くなった。行年61歳。
九代家重
8代吉宗の長子として、正徳元年(1711)に生まれる。成長するにつれしだいに病気がちになり、将軍になっても政務は重臣にまかせた。調査によれば、重度の歯ぎしりにより発音障害ががあったようで大岡光忠のみが聞き分けられたという。復元される容貌は歴代将軍の中でも最も美男子であったようで、遠くから拝謁するだけの大名にとっては気高く見えたという。49歳で将軍職を譲り、宝暦11年(1761)、51歳で逝去。
七代家継
家継は家宣の第3子として、宝永6年(1709)に生まれる。父家宣の逝去とともにわずか3歳で将軍職についた。家継は元来病弱で、正徳6年(1716)、8歳で亡くなられた。
二代秀忠
秀忠は家康の第3子として、天正7年(1579)に生まれる。慶長10年(1605)第2代将軍の位に就き、将軍職を18年勤め、寛永9年(1635)、54歳で逝去。台徳院廟に葬られた。
六代家宣
家宣は家光の三男綱重の子として寛文2年(1662)に生まれる。将軍職を継ぎ、新井白石等を重用し政治の刷新をはかる。「生類憐みの令」を廃止するなど、「正徳の治」をなしとげたが、将軍職わずか3年にして病に倒れ、正徳2年(1712)、51歳の生涯を閉じる。
十四代家茂
家茂は11代家斉の子、斉順の長子として弘化3年に生まれる。安政5年、将軍家の養子となり14代将軍とる。世継問題と日米通商問題で幕府は大きく揺れ、井伊直弼によって安政の大獄がはじまったが、事態収拾のために公武合体策をとり、孝明天皇の妹和宮親子内親王を正室に迎えた。家茂は第1次長州征伐を指揮し、第2次長州征伐中、大阪城で病没。慶長2年(1866)、享年21歳。2008年大河ドラマ天樟院篤姫では松田翔太さん演じた。
和宮(静寛院)
14代将軍家茂の正室、静寛院和宮は仁孝天皇の第8皇女として弘化3年(1846)に生まれる。和宮は嘉永4年、6歳の時に有栖川宮と婚約が成立したが、婚儀間近になって公武合体策によって降嫁。時に15歳であった。和宮は家茂死後、落飾して静寛院と称した。明治10年(1877)、箱根で31歳で逝去。
2008年大河ドラマ天樟院篤姫では堀北真希さん演じた。
合祀塔
将軍生母、側室等
崇源院(二代秀忠公夫人)、家宣の父・綱重(清揚院)、5代綱吉の生母・三代家光公側室桂昌院、11代家斉の正室・広大院、13代家定の正室・天親院、家宣の側室・月光院、家斉の側室・契真院、家慶の側室である見光院・殊妙院、その他計35名の将軍家ゆかりの子女が合祀されている
昭和33年7月(1958年)から昭和35年1月(1960年)にかけて、増上寺の徳川将軍家墓地の改葬に際して行われた、将軍家の人々の遺品や遺体の調査結果は鈴木尚・矢島恭介・山辺知行 編『増上寺 徳川将軍墓とその遺品・遺体』(東京大学出版会、1967年、1997年)として公表されている。

秀忠公と家継公の保存状態が悪く、秀忠公は棺の上の石等の重みで薄く圧縮されており頭蓋が正常な形をとどめず、7代家継公は棺内に水が入ったためほとんど骨格すら残っていなかった。

【家重公】保存状態がよく推定身長は156.3cmで頭がはげていたのではといわれる。調査によれば、重度の歯ぎしりにより発音障害ががあったようである。しかし、とても美男子だったといわれる。

【家慶公】推定身長154.4cmで当時の平均身長(157.1cm)より低く、頭がとても大きく6等身にも及んだといわれる。

【家茂公】推定身長156.6cmで当時としては珍しい面長の顔立ちで現代人でも例を見ないほど鼻が高かったという。

【和宮】推定身長143.4cm出かなり低かったようである。遺体の前腕のところにガラス版が入っておりそれが湿板写真で長袴に垂直の立て烏帽子をつけた若い男性の像が映っていたが、翌日再度見たら消えていた。おそらく唯一の14代家茂公の肖像写真だったと思われている。
2008年2月22日  撮影 CANON G7

夫婦で登る日本百名山 麹町ウぉーカー(麹町遊歩人) 会津見て歩記 甲府勤番風流日誌 伊奈町見聞記 鹿児島県坊津町 Good Journey