大倉喜八郎男爵は明治28年に、徳川幕府の重臣であった酒井氏(雅歌守といわれる)より、大井川上流域の南アルプスの山林を、金35000円也で買い取った。大倉喜八郎は井川山林の資源を利用する東海紙料株式会社を明治40年に設立したが、これが今日の東海パルプ株である。
大正15年喜八郎の88時自分の所有地で一番高いところ登りたいことでの赤石岳登頂する。
大正15年8月1日東京から静岡に着き、同夜は安倍郡但馬という所に泊まる。
8月2日に赤石岳を目指して籠に乗り出発。一行は200人と多勢で、大日峠を越えて井川に泊まる。
8月3日目は田代に泊まる。
8月4日目は、現在の畑薙ダムより少し上流部にあった沼平に泊まる。
8月5日目に椹島に到着。
8月6日、一行はは悪天候を押して午前10時半椹島を出発、この夜は途中で1泊した。
8月7日、雨のあがるのを待って午前7時半、赤石岳山頂へ向け出発。
途中は霧が深く、お花畑で花束を作らせて楽しみ、頂上に近いハイマツ地帯で籠を降り、そこから椅子に腰かけたまま山男に背負われて雪渓を通り、午前時半に赤石岳の頂上に着く。
そこで羽織袴に改めた大倉喜八郎の音頭で、両陛下と摂政宮殿下の万歳を三唱し、国旗を掲げた。
その他、東海パルプには逸話として以下の話が残っているという。
この時大倉は供の者に風呂桶を背負わせて登り、赤石岳の山頂で風呂に入ったと伝えられる。
お供の中に、神部満之助(後に井川ダムを建設した株式会社間組社長をつとめた人という人)がいた。その神部は、白木づくりの組立式便所2組と豆腐をつくる石うすを人夫に背負わせて、お供をし、豆腐を持参させ、山頂で大倉に湯豆腐を供したとも伝えられる。
大倉の登山の間、静岡から毎日現地まで飛脚が新聞や通信物をその日のうちに届けたという。
|