山の話題
登山家加藤保男之墓
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加藤保男の墓の全景 右隣は加藤家の墓 |
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墓の正面 左は「エベレストの白き神の胸に安らかに眠れ・大宮市長馬橋隆二」 右には「保男はいつまでも私達の心の中に生き続ける・中村和夫」 |
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墓の右面 昭和五十七年十二月二十七日 戒名蓋岳院釋明保居士 俗名保男三十三歳 |
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墓の左面 左面にはエベレスト登山隊長湯浅道夫、西堀栄一郎 今井道子の想いが書かれている。 |
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加藤保男エベレスト春秋厳冬期登頂十周年記念 1992年10月 日本大学文理学部体育学科 桜門十期会 |
加藤保男(かとう やすお、1949年 - 1982年12月)は、埼玉県大宮市(現さいたま市)生まれの登山家。8000メートル峰に4度、エベレストに3度の登頂を果たした。エベレストをネパール、チベット両側から登頂したのは世界初。大宮市市民栄誉賞第一号を受賞。 登山家として知られる兄の滝男の影響で、高校時代から登山を始める。 1971年(昭和46年):日本大学文理学部体育学科を卒業。(大学の山岳部には入部していない。) 1969年(昭和44年)から1972年(昭和47年)にかけて、アルプスの三大北壁(アイガー、グランド・ジョラス、マッターホルン)を登攀。 1973年(昭和48年)10月26日、第2次RCC登山隊で、石黒久隊員とともに、エベレスト(サガルマタ)のポストモンスーン期(秋季)初登頂を果たす(ネパール側、東南稜)。ただ、日程上、強行軍であったために、サウスコル(7,986m)のキャンプからの一気の登頂であり、8,650m地点でのビバークを余儀なくされ、翌日、長谷川恒男隊員に救出される。奇跡の生還と言われたが、この時、凍傷で足指すべてと右手の指3本を失う。 1975年(昭和50年)、インドヒマラヤ最高峰(7,816m)のナンダ・デビ登頂。 1980年(昭和55年)5月3日、エベレスト(チョモランマ・珠穆朗瑪)にチベット側の北東稜から登頂。 1981年(昭和56年)10月に、尾崎隆ら三人による遠征隊でマナスルに無酸素登頂。 1982年(昭和57年)12月27日、厳冬期エベレストに登頂を果たす(東南稜)も、登頂を断念し下山していた小林利明隊員と共にビバーク。消息を絶つ。 |
墓の左面書かれた関係者の文 三たびエベレストの頂きに立った君はさわやかな笑顔で登山のもつもつ進歩の思想と美しく生きることの尊さを私達仲間と多くの若者にひたむきに語ってくれた 1973年日本エベレスト登山隊 隊長 湯浅道夫 加藤保男は自然を愛し自然にしたがったそこに世界最高の山があるからこそ 1984年5月3日西面よりチョイモランマに登る 西堀栄一郎 保(やっ)ちゃん、いくら卒論が「高所順化」でも余りににも素直すぎないかしらん。8848米のエベレストの女神に順応して供にしている姿をえがいています。私達山の仲間が保ちゃんに会にこれからも続くことでしょう。雪煙りの彼方に消えた保ちゃんがキット山の仲間を見守ってくれることを信じて市民栄誉賞と三冠王の保ちゃんよ安らかに・・ 女流登山家今井道子記 |
墓の場所 市営霊園思い出の里(さいたま市見沼区大谷600 MAP 拡大MAP(十字点が墓の場所) 会館の前の大通りを進み道が大きく右に曲がる場所にある第4区画に他の墓とは離れて建っている。 |