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山の話題

尾瀬ヤナギランの丘
(平野家墓地・武田久吉先生追慕之碑)

尾瀬自然保護の父として平野長蔵と平野家の人々が知られるが、そこには平野長蔵と植物学者武田久吉博士の深い信頼と友情があった。長蔵翁は「死後骨の半分を尾瀬に埋めてくれないか」と懇請し、博士は「僕ももちろんそのつもり」と快諾し、二人は死後隣同士葬られることを望んだ。しかし、武田先生の死後、この二人の想いは反対によりかなわなっかった。そこで、長男の長英氏が傍らにて武田久吉先生の愛用したジャンパーが埋め「武田久吉先生追慕之碑」とたという。
武田久吉(ひさよし)先生は日本山岳会を創立したメンバーであり、第6代日本山岳会会長、初代日本山岳協会会長、日本自然保護協会会長を歴任した、植物学者であるが、尾瀬の自然保護の恩人とも言われており、桧枝岐村に記念館が建ている。
奥の大きな墓が尾瀬の主と呼ばれた平野長蔵の墓
左が長男長英夫婦の墓と

その右が三平峠下で悲劇の死を遂げた長蔵の孫長靖の墓

墓に彫られた歌は一番下に紹介する。
武田久吉先生追慕之碑「武田先生は植物学者にして多年にわたり尾瀬の研究と紹介と保護に尽力された恩人なり 昭和47年6月7日東京において逝去年89歳 ここに先生の愛用品をいただき埋葬してその遺徳を追慕し敬愛の意を表するものなり。昭和60年10月長蔵小屋平野長英建立
ヤナギランの丘から尾瀬沼ビジターセンター長蔵小屋方面を望む
大江湿原の木道からヤマギランの丘とその奥の燧岳を望む。
武田久吉先生追慕の碑については1979年の「アルプ263号」にその経緯が書かれている。アルプの出版された昭和54年時点では「故武田久吉先生追慕之碑」という木柱が立っていたようであが、昭和60年に長男の長英氏によりこの碑に建かえられたようである。
岡茂雄著「新編炉辺山話(ろへんさんわ)」
武田久吉先生は英国公使のアーネストサトウの二男として生まれ、植物学者となり明治38年日本山岳会を創立したメンバーの一人である。尾瀬を紹介しそして尾瀬の保護に尽力した。
アーネスト・サトウ(麹町ウぉーカー42号)と武田久吉先生(麹町ウぉーカー53号)については麹町ウぉーカーでご覧ください。
【平野家の墓】
長蔵の墓には「ひらのむと 心つくしてをせのぬまに 鳴く水鳥の声をききつつ 尾瀬沼山人」とある。
長英の墓には歌人らしく「上の毛と岩代国の境なる尾瀬の沼べに住みつくわれは 長英」とある。
長靖の墓には「まもる 峠の道を 鳥たちのすみかを みんなの尾瀬を 人間にとってほんとうに大切なものをと彫られている。
2011年6月19日 撮影

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