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==========麹町ウぉーカー(麹町遊歩人)No.76=============

アテネオリンピック開催間近です。そのせいか、連夜のように「バレーボール」「野球」「サッカー」のテレビ中継をやっています。先週はサッカーの「キリンカップ」があってテレビ観戦をしていたのですが、対戦相手の国が「セルビア・モンテネグロ」?どこにある国なのかさっぱりわかりません。インターネットの地図で検索したら、もとのユーゴスラビア連邦共和国とのことです。ようやくイタリアの向い側にある国と理解できました。私が学生の頃習った社会科の地図の知識では、全く役に立たないようです・・・・・・。

最近本屋さんで「日本地図から歴史を読む方法」「東京を江戸の古地図で歩く本」(KAWADE夢文庫)という本を見つけました。地図を切り口にして、歴史を探っていく本です。

『江戸の地図を本格的に作る事を命じたのは、徳川四代将軍家綱であった。「麹町から出火した明暦の大火で多くの死者を出したのは、きちんとした江戸の地図が無かったからである」という理由である。そして、1658年に初めて実地測量で描かれた「万治年間江戸実測図」が完成した』 『江戸切絵図は、番町の入り口の四谷口近くにあった荒物屋(日用雑貨屋)の近江屋が、よく道を尋ねられる為、分りにくい番町の武家屋敷の道案内用に作成したのが始まりである』・・・・・等、面白く読むことができました。

この河出書房からは別にも「県民性がはっきり見える日本地図」という、地図に絡んだ本が出ているようです。一度読んでみたいですね。

今回お届けするメルマガは、読者であるKさんからのメールに触発されて探ってみた、H氏による「後編、大正から昭和初期の麹町界隈」です。麹町の地図を思い浮かべながら、大正浪漫を感じてみてください。

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前号に引き続き、次は大正から昭和初期の麹町界隈の様子を拾ってみよう。

昭和初期に麹町小学校に赴任した先生の記録として「清潔な磨きのかかった住宅地、程のよさをわきまえられた父兄の方々、優れた素質を持った児童達、田舎出の私には驚きであった。・・学区内には歯医者、洋服屋さん、お菓子屋さん、散髪屋さんが多く、お稽古事のお師匠さんの看板が多かった。」という、麹町界隈の街のゆとりが伝わって来る記述がある。

麹町は半蔵門から四ッ谷方面に向かって一区画ずつ町名がつけられていた。麹町という町名は大通りに面したブロック一列のみで、麹町の裏の番町側が元園町、麹町通りの一つ平河町よりの一列は山元町と呼ばれていた。麹町の昭和9年の地図

明治4年から皇居東御苑の江戸城本丸で、正午に大砲を鳴らしていたが、それは大正11年まで続いており、「ドン」という音は麹町まで聞こえていた。

また、年に何回か天皇陛下が赤坂離宮に向う「お通り」があり、その1時間ほど前から警察官や兵隊が警備につき、陛下の乗る馬車の列が通るときには不動の姿勢で声一つ立てることが出来ず緊張したという。

 

当時の麹町大通りは現在の中央分離帯から平河町、紀尾井町側の半分ほどの広さであった。歩道は狭く電車の上り線、下り線が走り、その脇を馬車や車が走るとかなり狭く感じたという。半蔵門前には新宿から月島に向かう11系統電車と、渋谷から赤坂を経て須田町に向かう10系電車の「半蔵門停留場」があり、現在の麹町1丁目交差点の場所に「麹町三丁目停留場」、現在の麹町4丁目交差点の場所に「麹町六丁目停留場」、麹町6丁目の「仲良し広場」の前辺りに「麹町九丁目停留場」があった。

 

麹町区役所が麹町警察署の隣にあり、現在国立劇場になっている場所には警視庁の官舎が並んで建っていた。その脇は広い原っぱになっていて子供たちのかっこうの遊び場で、たくさんの赤とんぼが飛んでいた。

平河天神も今と異なり敷地も広く、毎月25日には、平河天神の縁日があって講談で知られる「がまの油売り」等をやっていた。境内ではラジオ体操が行なわれたり、子供たちは境内にあった牛の象に乗って遊んだりしていた。

また子供達は、日枝神社の祭を楽しみにしていた。

 

旧麹町5丁目にあった小川洋服店2階にビリヤード場があった

現在の麹町3丁目丸増ビルにあるタバコ屋さんは「小川洋服店」である。ご主人お話しによると先代が明治45年に開業したが、以前は4丁目交差点の角にある「馬場商店」の隣にある喫茶店(Tully's Coffee)の場所にあったという。昭和初期の古い写真を見せて頂いたが、モルタルの2階建ての1階に小川洋服店があり、2階に「撞球場昭和倶楽部」と書かれている(字は当然右から左へ書かれている)。撞球(どうきゅう)とはビリヤードのことである。以前、麹町界隈には軍服を扱うテーラーが多かったと紹介したが、小川洋服店さんは一般のテーラーであったという。

 

現在の麹町4丁目交差点角にある東京三菱銀行の場所には「麹町銀行」があって、年末になると門松や注連飾りを売る市が立った。その近くに行政裁判所があり、李殿下邸があった。そして丸房露の「榮陽堂」があり、紀尾井町ビルに下りる角にある麹町4丁目の「志村薬局」(明治9年創業)があった。

 

麹町5丁目の弘済会館隣の本屋さんのある場所に、黒くて大きな大和質店の蔵が並んでいた。この蔵は「天保の大飢饉(1837年頃)」のとき、持ち主が貧困者に食い扶持を与えるため、工夫としての職を与えて作ったため「お助け蔵」と呼ばれていたという。

 

さらに大正元年の麹町七丁目(現在のオリコ本社の脇から東京トヨペット辺りまで)に「砂場」と呼ばれる蕎麦の総本家があり、1912(大正元年)に南千住に移転したという。

現在の東京の蕎麦は「砂場」や「藪」、「更科」が蕎麦の大きな系列であるが、その他に長寿庵、満留賀、松月庵、巴屋、朝日屋等のそばの系列がある。その中でも最も古く一番大きな系列がこの「砂場」である。

「砂場」は天文年間、豊臣秀吉が大坂城築城のときに、城の近く(現:大阪市西区新町2丁目)に砂場を設け、ここに集まる職人目当てにそば屋が出店したことに始まる。ここで発祥した蕎麦屋の一つが寛文年間(16611673)に江戸に移ってきたのが「砂場」の原点とされ、寛延年間(174850)に日本橋薬研堀の大和屋が「大阪砂場そば」の看板をかかげた。この「大阪砂場そば」の一つが、1804年に麹町七丁目に創業し「麹町砂場」として砂場の総本家となった。明治初頭には「室町砂場」と「虎ノ門砂場」がここから独立した。そして麹町七丁目にあった総本家の「麹町砂場」が1912年(大正元年)に南千住へ移転し、「南千住砂場」(荒川区南千住1-27-6 03-3891-5408)となっている。

今回の取材で麹町七丁目の正確な場所が特定できなかったのは残念であった。

 

さらに、紀尾井町のホテルニューオオタニの場所には「伏見宮邸」、紀尾井坂を隔てて現在のハウス食品工業の場所に「イタリア公使館」(大正時代)、その紀尾井坂の下の清水谷との交差路には交番、土手沿いの福田屋の辺りには「四谷税務署」があった。

JR四ッ谷駅前イグナチオ教会隣にある上智大学も、現在の麹町六丁目にある信号機の路地を入った裏門の一角が、上智大学だった。

大正から昭和初期にかけて麹町界隈は、年代的な前後の問題はあるかもしれないが、概ねこのような感じであったろうか。

 

最後に前述のKさんのメールにあった、『お祖母様が麹町で生まれてそのお父様が麹町五丁目で「早川商店」という小間物屋を営んで営んでいた』という情報を調べてみた。

現在の麹町三丁目界隈(旧5丁目)この辺りに早川商店があった

大正時代の麹町五丁目は、現在の麹町3丁目であり現在「食糧会館」のある辺りである。その隣に合ったと思われる小川洋服店の店主も残念ながら「早川商店」の記憶はなく場所を特定するには至らなかった。この界隈には九段や神楽坂、四谷荒木町など花街も多く綺麗な芸者衆もこの街を行き来し、「早川商店」にも小物を買い求めにきていたのであろう。

 

今回のレポートがKさんのお祖母様の麹町を語る思い出につながる話題を提供できたかどうかは不安であるが、お祖母様が青春時代をすごしたこの街は間違いなくモダンで素敵な街であったことは事実のようである。

それにつけても大正から昭和の一時期を少し調べただけでこれだけの話題が見つかるのだからこの麹町界隈は興味の尽きない街である。最後に、この話題を書くきっかけを与えて頂いたKさんに感謝するとともに、お祖母様の御健康をお祈りいたします。ありがとうございました。

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日本地図といえば頭に浮かぶのは、日本を実測量した伊能忠敬ですね。北海道の釧路でこんなイベントの記事見つけました。

『江戸後期の測量家伊能忠敬(1745−1818年)が作製した日本地図「大図」の複製を、1821年の完成以来初めて、二百十四枚そろった形で紹介する展示会「アメリカ伊能大図里帰りフロア展」が、十六日から釧路市観光国際交流センターで始まるのを前に、大図の運び込み作業が十四日に始まった。

 伊能忠敬研究会(東京)の渡辺一郎代表理事が二○○一年、米国で発見した二百七枚には、青い海岸線や緑の山々などの彩色が施された。五月に海上保安庁で新たに見つかった宗谷付近など四枚は、無着色のまま並べられた。大図一枚は畳一枚ほど。縦五十メートル、横三十メートルのフロアにも収まりきらず、北海道部分は能登半島の北側に並べられた。 (7月15日 北海道新聞)』

山の地図を眺めているばかりで、山歩きが出来ずにストレスが溜まっています。H氏は着々と山歩きに挑んでいるようです。その様子はH氏のHPでご覧ください。

http://homer.pro.tok2.com/

 

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http://www.mag2.com/m/0000073086.htm

(大)

 

平成16年7月18日配信


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