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===========麹町ウォーカー(麹町遊歩人)No.75=======

さあ7月、夏本番です。

そして、メルマガ「麹町ウォーカー」も2年目最後の月を迎えました。

毎回、読者の方々から返信メールを頂くようになりました。編集室一同心より感謝いたしております。

さて今回は、Kさんという読者の方から貴重なメールを頂き、H氏とテーマについてあれこれ相談した結果、大正・昭和初期の麹町小学校と麹町界隈について、2回に渡ってレポートをお届けすることとなりました。

今回は前編として、H氏が探索した「大正・昭和初期の麹町小学校」を配信いたします。

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今年の5月「麹町ウぉーカー」の編集長宛てに読者の都内池上にお住まいのKさんから「祖母が大正元年麹町で生まれで、大震災の後あちこちしたが、麹町への思い入れが強く、昔の話しといえば麹町の話しばかりで・・ぜひ大正時代の麹町について取り上げていただければ・・そして記憶に重なる情報をお持ちであれば・・」というメールを頂いた。

そこで百周年記念誌「麹町小学校の百年」や「麹町区土地台帳図(昭和9年版)」等から麹町小学校と大正、昭和初期の麹町界隈の話題を拾ってみることにした。

東京都麹町区地籍図

麹町小学校は明治3年平河町5丁目3番地の旗本屋敷に開かれた「平河学校」が元園町に移転して「麹町小学校」として明治8年に開校した区内では番町小学校に次ぐ歴史のある小学校である。

明治期の卒業生として、唱歌「富士の山」や「一寸法師」の作詞者として知られる児童文学者「厳谷小波(いわやさざなみ)」、「荒城の月」の作曲家「瀧廉太郎」、実業家で東京株式取引所理事長・日本商工会議所会頭を勤めた「郷誠之助」、「東京一代女」などで知られる小説家の「邦枝完ニ」等がいた。

明治も終わりの45年になって校舎が2階建ての洋風校舎に建て替えられた。それとともに校庭がアスファルト張りになったという。

大正期は土川五郎校長先生の指導による音楽に合わせて体を動かし踊る律動遊戯(運動)が有名で全国から多くの参観者があった。

入学すると1年生は男組、男女組、女組に分かれていた。月謝は20銭で毎月袋に入れて持っていき、先生が受領印を押してくれた。男の子は丸刈り頭で絣(かすり)の着物に袴、女の子は紫矢絣(かすり)の着物、えび茶の袴、おかっぱにリボンを結んでいた。下駄履きで教科書と上履き草履を風呂敷包みに入れて通っていた。

田島真治校長先生が赴任した直後の大正1291日、2学期の始業式終わり、児童が家に帰ったときに関東大震災が起こった。麹町では中六番町(現在の四番町)にあった明治薬学校(明治薬科大学)から出た火災が現三番町から一番町、小学校のあった元園町(麹町)、そして大通り越えて平河町一帯を焼き尽くした。

麹町小学校も炎上し、9月末まで授業ができなかった。そしてその後永田町小学校や上六小学校(現在の九段小学校。戦前一時期東郷小学校とも呼ばれた)に仮住まいした。

昭和24月に鉄筋コンクリート3階建ての立派な校舎が出来た。全館スチーム暖房、水洗トイレ、映写室を備えた講堂、それに理科、音楽、図工、手工、裁縫の特別教室、衛生室には太陽灯、さらに25mプール等昭和初期の学校としては最高の驚くほどの近代的な施設であった。校舎の南側に温室を持つ学級園があり、校門の脇に小さなお社が作られ、登校のときに参拝していた。

さらに屋上には、特別教室として三方がガラス張りの開放教室が作られた。3年生の中から体の弱い児童を20人ほど選抜して体力増進のために1年間だけ三方開け広げた教室で、冬も暖房を使わずに授業を行っていた。寒いときも手袋をして授業を行なったという。朝夕検温し、37度以上ある児童には保健室にいる校医の検診を受けさせた。乾布摩擦の後授業を行ない、このクラスの児童には東京都栄養研究所の栄養弁当の給食を実施していた。3時間目が終わるとスポイトで肝油の支給があり、その後の甘いドロップ飴が配られそれが楽しみであったという。このような保健養護教育の推進校として、全国から多くの視察者も多かった。「麹町小学校の百年」から大正時代の麹町小学校

開放教室の児童は多摩川などで林間学校が行なわれ一般の児童にとっては羨ましいことだったという。そのほか一般の児童にも希望者に対して多摩川や上高地等の林間教室も開かれている(多摩川の林間学校に竹下夢二画伯は来られたこともあるという)

さらに保健室に「太陽光室(紫外線浴室)」があり、昭和9年の写真を見ると円形のガラスルームにパンツ一枚の子供達がサングラスをかけて紫外線を浴びている。当時の貧しい農村の生活から比べると信じられないような学校生活だったことが伺える。 

新しい校舎の屋上からは区内全域が見渡せ、晴れた日には富士山や筑波山、丹沢の山も見えた。

この頃の遠足は日比谷公園、代々木八幡、小石川植物園、六年生の修学旅行は江ノ島、鎌倉へ行った。さらに昭和期になると区の補助(児童の負担なし)で関西方面に旅行があったという。

旧講堂の脇には相撲の土俵ができ、土俵開きには出羽海部屋の関取が参加する豪華なものだったという。当時の出羽海部屋の親方が貝坂下に住んでおり、親方のお子さんが麹町小学校に通っていたのだという。この出羽海部屋の親方は元横綱「常の花」(明治29年岡山市生、本名:山野邊寛市、優勝10回、年寄藤島を襲名)である。

 

大正時代になると東京では既に受験地獄という言葉があり、麹町小学校からも国立七年生高等学校、府立一中、四中、六中、私立一中の公立校や開成・麻布・芝等の有名私立への合格者を出し、進学率もかなり高かった。

麹町小学校は近隣の永田小学校や上六小学校に対してはそれほどでもなかったが番町小学校に対するライバル心は大変なもので、男の子が四谷堤やニ番町の街中で石合戦をして先生方が止めに入ることもあった。番町小学校の子供は元気がよく、麹町の子供は少しおとなしかったという。

毎年秋には区内の連合運動会や競技会が神宮競技場(現原国立競技場)で行われ、区内の各校が競い合った。麹町小学校の旗は藍色だった。

学校の前に文房具屋があり、角には「青柳」という寄席もあり、隣の麹町女学校の側に出前専門の「元園軒」という西洋料理屋があり、カツライス(30)、カレーライス(25銭)、その他カレーサンドやカツサンドが美味しかったという。その他「蕎麦の尾張屋」の「もり蕎麦」や「かけ蕎麦」(10銭)、山崎食堂の定食(30)、丹羽屋のうなぎ(80銭)等が当時の先生方の昼食だったという。うなぎは当時も高かったとみえる。

昭和初期の麹町区長が宮城県出身ということもあったのか仙台出身のズーズー弁の先生も多かったとのことである。

昭和9年に上六小学校から竹内嘉兵衛校長が着任し、学校衛生の世界的権威ターナー博士夫妻が来校した。昭和11年に226事件が起こり麹町小学校の講堂が住民の避難場所となり校門の坂下に機銃が据えてあった。

そして戦争へとひた走る暗い時代になり昭和16年に「麹町国民学校」となり、教科も国民科、理数科、体錬科などと変更された。戦争がはじまり麹町小学校の児童は山梨県大月と谷村(現在の都留市)に疎開して、食糧事情が悪く辛い日々を過ごしたという。

このとき一人の先生が疎開地から帰るたびに大百科事典をリュックに入れて大月の疎開地に持ち帰り空襲による焼失を免れたという。

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頂いたメールの中には、ご意見・ご要望のほかにも、誤った記述の指摘も当然頂いております。

前回取り上げた「山王祭り」についても、誤った記述だとご指摘を頂きました。

何度かメールを頂いているIさんからは

『「双葉学園」とありました。これは「隻葉」の間違いではないでしょうか?』

また、メルマガにも出てくる「大田楽」のメンバーの方からは

『主婦会館の前で踊っていた様子をレポートいただいたようなのですが、
「出雲の阿国女性のリーダーの踊りは、出雲阿国はこの様なものではなかったかと
思わせるような華やかさである。」と「大田楽」と同一のような記述をしていますが、これは後半に踊っていた真っ白な服を着た謎の団体の方の事で、「大田楽」とはまったく関係はありません』
と、お叱りのメールを頂きました。「大田楽」のメンバーの方々には、大変不愉快な思いをさせてしまい、反省いたしております。

ここで、前回配信した「麹町ウォーカー(麹町遊歩人)No.74」の本文18行目から25行目を次の通り訂正させていただきます。

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麹町大通を四ッ谷方面に進んだ巡幸の列はJR四ッ谷駅の周りに終結して体勢を組みなおして再度、四ッ谷4丁目方面にUターンする。

この四ッ谷駅前のプラザエフ(主婦会館)とスクワール麹町、隻葉学園の間のロータリーが一時解放区となりこの行列の中で異彩を放つ「大田楽」のメンバーの素晴らしいパフォーマンスが披露される。

2列になって踊る40名ほどの踊り手たちは白や黄色の装束に長い布を頭にまき山伏や富士山講の行者のように頭の左右にこぶを作るように結わえ、その彩りがどこか異国情緒をかもす。

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誤りの指摘やお叱りを頂いたメールの最後には、励ましの言葉も書き添えて頂いております。編集室一同、これを励みに3年目に向けて歩き回ろうと誓っております。今後ともご愛顧・ご愛読よろしくお願いいたします。

次回は「大正・昭和初期の麹町界隈」をテーマにお届けします。

 

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http://www.mag2.com/m/0000073086.htm

(大)

平成16年7月4日配信


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