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======麹町ウぉーカー(麹町遊歩人)No.68===========

麹町にも桜前線がやってきましたね。H氏のHPでは、千鳥が淵の桜の開花している様子が日々アップされています。毎日お昼休みを利用して撮影しているのでしょうか。

その拘りに敬服します。満開まで楽しみにしていますよ。

さて、今回は「麹町のお稲荷さん」と題してお送りします。

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麹町界隈には多くの由緒ある神社仏閣があり、今まで麹町の「心法寺」に始まり、「市谷の亀岡八幡宮」、平河町の「平川天満宮」、赤坂の「山王日枝神社」、「豊川稲荷別院」など紹介してきた(靖国神社はいずれ紹介する。)。今回はその大きな神社仏閣ではなく街角にある小さなお稲荷さんを紹介しよう。

 

麹町一丁目交差点を平河町方面少し入った麹町1丁目町会の倉庫の脇に小さな社がある。太田姫稲荷

目にまぶしい朱色の鳥居の前に「太田姫稲荷神社」と彫られた御影石が立っている。鳥居をくぐると左右に灯篭が配置され、社の前に30cmほどの大きさで神様の使いとされる狐が左右に置かれており、小さいながら威厳のある立派な社である。社の周りには、小さな白い狐の置物が並べられている。

この御影石に彫られている「太田姫稲荷神社」の由来については、道路に面して掲示してある「平成6年5月20日 祭祀再開20年を記念して建立 麹町 太田姫稲荷神社縁起」に詳しく書かれている。伝説によれば室町時代太田道灌の姫が当時流行した天然痘を病み、薬石効なく一日一日と悪化の道をたどりつつあったとき、友人に「山城の国一口の里にある稲荷神社に祈願すれば、どんな重い天然痘でも忽ち平癒するから」と言われ、早速同神社に参詣祈願したところ姫の病は忽ち平癒した。長禄元年(1457年)江戸築城のとき道灌は崇敬、感謝の念で、この一口稲荷を伏見より勧請、江戸城内にお祀りした。

その後、慶弔11年(1606年)徳川家康による江戸城改築の際、城内にあった神社・仏閣を城外に移したが、太田姫稲荷神社も駿河台の淡路坂(一口坂)上に遷座され、その後変遷を経て現在の地に鎮座しているとのことである。

一口坂は「いもあらい坂」と言われており、いもあらい(一口)の意味は、当時天然痘を「いもがさ又ははへも」とも呼んでいたので「天然痘を洗い流して直す」からきたものと解釈されている。 これが今の神田駿河台の淡路坂を下った東映アニメーション研究所の隣にある「太田姫稲荷神社」である。この神社は立派な建物で昭和6年まではJR御茶ノ水駅近くにあったものが現在の場所に移されたという(千代田区神田駿河台1-2-3)。江戸時代の切り絵図でも、湯島聖堂の神田川向かいの一帯が太田姫稲荷神社として描かれているのが確認できる。

冒頭に記した「太田姫稲荷神社」と彫られた御影石が立っている麹町一丁目の神社は、同じ名前であることから、この駿河淡路坂下にある太田姫稲荷神社の分社と考えられる。

 

次に一番町FSビルの坂の途中にある「福寿大神」である。福寿大神

ここは麹町と番町を隔てる辺りで、広い開放空地を確保してケヤキや木やサツキツツジやオオムラサキツツジ等が植えてあり、千代田区都市景観賞に選ばれている場所でもある。

高い木々が木陰を作り、季節になるとがツツジの花が咲き、近隣の会社で働く人たちの憩いの場所となっている。その坂の中間辺りに社が建っている。

社のそばに大きな石の灯篭があるところから、この「福寿大神」はもともとこの辺りの武家屋敷にあったものであろうと思われるのだが、縁起や由来に関するものが全くなく調査できなかった。

加筆:「こだわりを感じさせないというこだわり 麹町・番町散歩道マップ」(企画:岡本企画 編集A/ZBooks&Cafe 協賛麹町KYビル)によると「福寿大神 願い事をせず、結果報告をするとよい」と紹介してあった。(平成18年2月4日)

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調べている途中、「福寿大神」の側で興味深い直径1メートルほどのマンホールのようなモニュメントを見つけたので紹介しよう。

このマンホールのような鋳物にはこのFSビルを中心とした一番町、麹町、平河町、紀尾井町の町並みが描かれている。福寿大神側のモニュメント(ここからの主要都市の方角と距離がわかる)そしてその鋳物の周りが東西南北を指しており一番町を中心とした海外や日本の主要都市までの直線距離が書かれている。「千代田区一番町8」は東経139度44分、北緯35度41分、海抜20.7mであるという。1987年4月「日建設計」による寄贈品である。

散歩の折に自分のふるさとの方角と距離を確認してみてはいかがだろうか。因みにほぼ北に832qで札幌、西南西に923qで鹿児島である。

ところでこのプレートを寄贈した「日建設計」は明治33年6月(1900年)に 住友本店臨時建築部として始まった大阪に本拠を置く、一世紀以上の歴史を持つ会社である。

近隣では千代田区三番町に建つ大妻女子大学の全面ガラス張りの図書館や、四番町にあるサイエンスプラザに本拠を置く科学振興事業団の運営する晴海の日本科学未来館などはこの会社の手になる素晴らしい建築物である。

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最後に紹介するのは、麹町5丁目と6丁目にまたがっている麹町ミレニアムガーデンの公開空地脇にある「千代田稲荷神社」である。

麹町ミレニアムガーデン(敷地面積 :6457.71u)は平成12年に株式会社オリエントコーポレーション(オリコ)と他数名の共同事業者による開発として建設された。21階建て(92m)のオリコ本社ビルとその隣に立つ17階建てのミレニアムガーデンコートと呼ばれる賃貸マンション棟(57.5m)からなる。

オリコ本社ビルは麹町の高台の中でもひときは高いビルであるが、建ぺい率 が37.63%と公開空地が他の建物比して広く取ってある。ミレニアムガーデン脇には小さなせせらぎ流れ、木々が植えられ、四季折々に美しい花が咲き乱れる憩い空間となっている。

その小川の流れの始まる公開空地の隅に小さな生垣に囲まれた千代田稲荷神社がある。

小さな鳥居をくぐると奥に小さな社がありその前に小さな対の狐が置かれている。その脇に木板に墨でかかれた「千代田稲荷神社縁起」が建っているが、そこには以下のように書かれている。

『千代田稲荷神社の前身は「富田稲荷社」といって、伝承によれば江戸の昔、番町に住む富田某なる旗本の屋敷神様で有ったものが、幕末、明治と時は移り旗本の没落変遷に伴い当地旧麹町八丁目町会の人々がお守りして江戸の昔から大正九年頃まで現在の六番地にあった「村高山栖岸院」なる寺院の境内西側に祀られていました。その後、栖岸院跡地は岡常吉氏の所有となり、お稲荷さまは引き続き安置され、地元町会の信心篤き人々によってお守りしてまいりました。

時は昭和と変わり、太平洋戦争を向かえ昭和二十年五月の大空襲により社宇尽く消失してしまいました。

平和に蘇った昭和24年、明治の政商、「大倉喜八郎氏」のご好意で一番地の所有地、現「鉄道弘済会」の左側の一隅に社域をお借りして、二番地「杉田屋印刷」杉田弥太郎氏が京都「伏見稲荷神社」よりご神体を勧進して、麹町5丁目町会初代会長「葛和栄一氏」、「岡田庫三氏」、「瀬谷一良氏」とともに一間四方宝方造りの社殿を建立「千代田稲荷神社」と命名されました。

昭和26年「麹町五丁目会」(元麹町八丁目・九丁目会併合)が誕生以来、お稲荷様をお守りして年々歳々4月の初午に例大祭を執り行ってまいりました。

昭和30年代に入って稲荷神社の土地は、大倉氏より名古屋の南山大学に、更に鉄道弘済会に移り、昭和39年の暮れから稲荷神社移転問題が起こり方々土地捜しの末、時の町会長「瀬谷一良氏」、顧問の「岡田庫三氏」、岡常吉氏と親交のあった「湯田忠義氏」の努力で現在の六番町に再び社域をお借りして、会員より寄付された色々の樹木を境内に植え新社殿を建立、昭和40年8月8日遷座して後、町会の氏神様としてお守りして参りました。

昭和62年、ビル建設計画に伴い五月末、日枝神社内にご遷座依頼毎月10日、日枝神社本殿に於いて「月並祭」をご奉仕してまいりました。平成12年7月、共同ビル完成に伴い、ビル公開空地の一角に共同事業者ご寄付の新社殿が完成し、ふるさと麹町の防災防火の守護神として、奇しくも江戸の昔からの神域「村高山栖岸院」にお帰りになられました。

「村高山長福寺栖岸院」 創建は慶長19年、安藤対馬守重信開基、開山妙誉和尚、浄土宗知恩院末寺、三河の国「村高山長福寺」を移したという。

安藤対馬守は高崎城主5万6600石の大名。栖岸院殿大誉良善大居士は安藤の法号。

平成12年7月吉日  麹町五丁目町会 町会長 早川平典』とある。

調べてみると江戸時代の切り絵図にもこの場所に「栖岸院」を確認することができる。しかし、大正9年に杉並区の永福寺に移転したという。

この縁起の中にあるこの寺を作ったとされる「安藤対馬守重信」は、二代将軍徳川秀忠の三河譜代の側近の一人である。安藤対馬守は徳川家康が江戸入府の頃、小見川藩(利根川沿いの千葉県香取郡小見川町)を与えられるが後に高崎藩に移封になる。譜代大名として徳川幕府の老中職の家格をもち、その後彼の子孫は備中松山藩(岡山県高梁市)、美濃加納藩(岐阜県岐阜市)、磐城平藩(福島県いわき市)と移り明治維新を迎える。

彼の子孫で最後に歴史に大きく現れるのが「坂下門外の変」である。井伊直弼が暗殺されたの桜田門外の変(1860年万延1年)の2年後の1862年(文久2年)1月15日、江戸城坂下門外で、幕政改革を目指す水戸の尊攘激派浪士ら6名に襲撃された老中磐城平藩主安藤信正である。

ところで、安藤信正の墓がある杉並区永福寺「栖岸院」には、番町皿屋敷の「お菊」の墓もあることを付記しておく。

 

千代田稲荷神社は夜になると灯篭に明かりが灯され、朱色の鳥居と幟旗が生垣に囲まれた暗闇に浮かび上がり、ここが麹町であることを疑いたくなるような静寂で幻想的な空間になる。

麹町大通りからは朱色の鳥居と幟端が少しだけ見えるだけであるが、仕事帰りにでもオリコ本社ビルと「肉のハナマサ麹町店」の間を入りこの小さな千代田稲荷神社の不思議な魅力を味わってほしい。

 

原稿が出来上がって配信の直前になり、新しいお稲荷さんを発見したので急遽追加する。

麹町4丁目交差点の紀尾井町側に、この春全面ガラス張りの「麹町ダイヤモンドビル」が完成し、東京三菱銀行麹町支店のある1階の一角に「麹町警察署麹町四丁目交番」が出来た。その交番の脇に突然、赤い鳥居と社が現れたのである。植え込みに囲まれた小さな敷地の入り口に真新しい鳥居があり、直ぐに手水がある。中に入ると出来たばかりでまさに真新しい銅版葺きの小さな社がある。社の前にも小さな朱色の鳥居があり、本殿の中央には鏡が置かれ左右に真っ白な狐の置物が置かれている。社の細部に獅子や鶴など小さな細工が施され、覗き込むとなかなか楽しい。

この神社の縁起は正面に掲げられた高札に以下のように書かれている。

『正一位豊栄稲荷大明神縁起

  祭神   倉稲魂命(京都伏見稲荷と同祭神)
   創建   元文年間(1736〜1741、今から弐百有余年前)遠藤三右衛門氏の創建にかかると伝えられる。 旧称   遠藤稲荷又は垣見稲荷
           古くから遠藤家が、また明治以降は垣見家でお守りしてきたところからこの名がある。    明治22年 麹町銀行(後に三菱銀行)設立のため垣見家よりお社を含む敷地が提供され以来銀行でお守       りすることとなった。

  大正12年  震災後再建の際、町内安全、商売繁盛を祈って豊栄稲荷大明神と改称
  昭和20年5月 戦災により消失麹町4丁目の豊栄稲荷大明神
  昭和24年2月 有志の寄付により再建
  昭和44年7月 三菱銀行店舗新築に伴い新社殿落成
  昭和56年12月 有志の寄付により社殿等改修
  平成16年3月 麹町ダイヤモンドビル新築に伴い新社殿等落成
   平成16年3月吉日  敬白』

「麹町銀行」という聞いたこともない銀行の名前や、この稲荷が三菱銀行により管理されていたものであることなどとても面白い事実が明らかになった。

3月23日、国立劇場に桜の写真を撮りに行った帰り、平河町の「イン・ヴィーノ・ヴェリタス」にお気に入りのワイン「シャトールミエール」を買いに行ったことが幸いしてこの社を発見できた。

まるで今週私たちが「麹町のお稲荷さん」を配信することを知った神様が導いたようでならない。

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急遽追加原稿の中で書かれている麹町銀行。「1927年10月川崎第百銀行と合併」という記事を見つけただけで、後は不明です。ご存知の方がいらっしゃればメールください。

 

H氏のHPは、麹町界隈の桜の様子が日々掲載されています。お楽しみください。

http://homer.pro.tok2.com/

 

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(大)


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