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=========麹町ウぉーカー(麹町遊歩人)NO64============

今日、2月1日は、NO50号でも紹介した東京放送局NHKが日本初のテレビ放送を開始した日です。1953年(昭和28年)2月1日午後2時、「JOAK−TV、こちらはNHK東京テレヴィジョンであります」と第一声が放送されました。当時の受信契約数866台、受信料は月200円でした。今では、携帯電話でもテレビが見られるようになり、一家に一台のテレビだった時代が、懐かしくなってしまいます。

 

さて今回のH氏のレポートは、「東日本キヨスク株式会社」の本部のある弘済会館(麹町5丁目1番地)です。

JRの駅で必ず目にする「キヨスク」。この店名の語源についても触れていますよ。

キヨスクの前で、電車を待つわずかの時間を利用して腰に手をやり栄養剤を飲むサラリーマンの姿をよく見かけます。(腰に手をやって飲むのは中年の証拠と聴いたことがありますが・・・・)わずか2〜3坪のスペースに500〜600点の商品が揃っているそうです。街のコンビニも顔負けです。

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麹町五丁目のオリコ本社ビルの向かいに弘済会館(麹町5丁目1番地)がある。1階にはレストラン「ふたば」、カフェテリア「プチファイユ」があり昼時ともなると観葉植物で仕切られたカフェテリア「プチファイユ」の白いテーブルにはサラリーマンの集団が占拠している。今流行りのスターバックス等のカフェとプチファイユ異なり幾分設備やインテリアが地味目なこともあり女性客は少ない。ここの三種類のカレーは小麦を使わず上新粉を使っているとのことで口当たりがさっぱりしていてとても美味しいカレーである。

また隣にあるレストラン「ふたば」は古きよき時代の洋食屋さんといった風で生姜焼きや牡蠣フライ等のメニューが並ぶ美味しいレストランである。

40代以上の人であれば駅の売店が「鉄道弘済会」と呼ばれていたことを記憶されているであろう。そうここはあの鉄道弘済会の本部、正確には「財団法人鉄道弘済会」がある場所である。

鉄道弘済会は1932(昭和7年)年2月25日、内務大臣、鉄道大臣の認可により、国鉄の職域福祉事業を目的とする財団法人として設立された。

財団法人の寄付行為(会社の定款に当たるもの)によると以下の通り定められている。

「床次竹二郎は、金5,000円を出捐(えん)して国有鉄道の公傷退職者、永年勤続退職者及びその遺族並びに殉職者の遺族を救済し、鉄道従事員に後顧の憂いがないようにすることを目的とした財団法人を設立するため次の条項を定めて寄附行為をする。」

「目的 第3条 この法人は、国有鉄道及びその承継法人並びに日本国有鉄道清算事業団の公傷退職者、永年勤続退職者、その家族又は遺族及び殉職者の遺族並びにその他一般の援護を要する者に対し、必要と認める社会福祉事業を行うとともに、鉄道従事員の生活の向上と鉄道利用者に対する便益の増進に資することを目的とする。」

要するに旧国鉄(並びに現在のJR)の福利厚生事業を行うために設立されたものである。弘済会館

その一環としての駅構内での物品販売事業は1932年4月1日、東京駅乗車口、降車口、上野駅汽車口、電車口の10箇所ではじめて売店営業を開始した。そして1973(昭和48年)年駅売店の愛称をKiosk(キヨスク)と制定した。

しかしキヨスクの収益事業の大部分は1987年4月1日の国鉄分割民営化を受けて6つの株式会社に分離・独立させた(大部分はといったのは大宮営業所管内の事業は譲渡されずに委託営業の形態になっている。)

また弘済会館にはJR東日本の駅売店を運営する「東日本キヨスク株式会社」の本社でもある。東日本キヨスク株式会社は1987年(昭和62年)の国鉄分割民営化に遅れる2ヵ月後の6月4日に設立されている。現在の株主はJR東日本が91%,財団法人鉄道弘済会が9%の持ち株比率である。

鉄道弘済会の福祉事業は1936年はじめて授産場を名古屋市に開設したのに始まり戦後福祉事業を鉄道関係者から一般の福祉事業も行うようになり、特別養護老人ホーム、老人ケアセンターをおこなう社会福祉法人「東京弘済園」、そして神奈川県秦野市に知的障害者の施設「日向弘済学園」の運営なども行なっている。昨年だったか東京駅丸の内口でこの施設の活動の様子を紹介したパネル展が開催されていた。そのときにこの施設の運営母体が鉄道弘済会だと知って驚いた記憶がある。それが弘済会館を調べてみるきっかけになった。

ところで駅駅売店は1872年(明治5)に品川―横浜間で鉄道が仮営業を始めて1か月後に横浜在住の英国人が新聞を売ったのが最初といわれている。

私達が日頃使っている駅のキヨスクですがその語源はキヨスク労働組合のホームページによると「Kiosk(キヨスク)の語源はトルコ語のKioushk[キオスク「あずまや」]とされ、さらにトルコ語辞典によれば、イラン語(ペルシャ語)のKushk[コーシュク「宮殿・別荘」]が語源とされています。このようにKioskは、ペルシャ語の『宮殿』を意味する言葉がトルコ語で『あずまや』として取り入れられ、更にヨーロッパ各国へ伝わり、現在では一般的に「トルコ風のあずまや」や「駅・街頭などの新聞雑誌売場」また「便利で小さな売店」として国際的に使用されています。日本では、財団法人鉄道弘済会が、昭和48年(1973年)に駅売店の愛称を決めるにあたり、“キオスク”にキヨク(清く)のイメージを託し、またキヤスク(気安くご利用して頂きたい)との思いも込めて“キヨスク(Kiosk)”として発音・表記し使用しました。」と紹介されています。

なるほどキヨスクは「清く・気安く」だったのですね。

また四ッ谷駅改札を出たところにあるコンビニエンスストア「NEWDAYS」も東日本キヨスクの経営であり、看板の脇に「by Kiosk」と書かれている。

ところで財団法人鉄道弘済会の寄付行為の最初に出てくる「床次竹二郎は・・」という個人名であるが戦前の鹿児島県出身の政治家である。

この床次竹二郎であるが薩摩藩士の床次正精(まさよし)の長男として、1866(慶応2)年12月1日、現在の鹿児島市新照院町に生まれた。

東京府内務部長から徳島・秋田各県知事をへて1913年(大正2年)鉄道院総裁になり、官僚の身分で政友会に入党している。 1914年衆院議員となり以来当選8回、原・高橋是清両内閣の内務大臣を務める。多岐にわたる政界活動の後、犬養内閣で鉄道相、岡田啓介内閣の逓相となり、1935(昭和10)年9月8日在任中に病床で満68歳の生涯を閉じた。膨大な借財が残され、歌舞伎町2丁目の邸宅は人手に渡ったと言う。鉄道大臣のころに鉄道弘済会が設立されており5000円の出捐もこの借財の一因なのであろうか。

セイカ食品の「ボンタンアメ」

竹二郎が生まれた鹿児島市の屋敷跡はJR鹿児島線・城山トンネル口わきの山すそにあり記念碑が建っている。「チェストー」といいながら一太刀で切り込む薩摩の必殺剣「野太刀自顕流」のけいこ場に使われ、薩摩自顕流がテレビで紹介される時によく映し出されている。

先日会社で弘済会の話をしていたら同僚が子供のころ電車に乗るときに母親がいつも弘済会で「ボンタン飴」を買ってくれたという話しをしておられた。確かに「ボンタン飴」や「都昆布」は弘済会の定番だったと記憶している。このオレンジ色のボンタン飴は床次竹二郎の故郷鹿児島の銘菓である。

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このキヨスクでの一番の売れ筋商品は、何かご存知ですか?「通勤電車の暇つぶし本:平成暮らしの研究社」よると二位がタバコ、三位が雑誌だそうです。堂々一位はなんとお菓子です。商品の数が多いのとお土産などで買われているようです。

また、キヨスクの店員さんは、同時に五人のお客さんの相手ができて、一人前だそうです。同時に三人の話を聞くことができたと言われている聖徳太子も顔負けですね。

一人のお客さんにかかる接客タイムは、平均6秒だそうです。すごい!!

 

東日本キヨスク株式会社のHPです

http://www.ej-kiosk.jregroup.ne.jp/cgi-bin/index_new.cgi

 

弘済会館のHPです。(地図も載っています)

http://www.kousaikai.or.jp/hall/

 

H氏は、最近は山へ挑戦しているようです。超低山の写真も・・・・・。

http://homer.pro.tok2.com/

 

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(大


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