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========麹町ウぉーカー(麹町遊歩人)NO53==============

え〜!もう9月。実感ではないでしょうか。

夏が来たのか来なかったのか、なんとも寂しい夏でした。ほっとしているのは、東京電力だけみたいですね。

(逆に電力消費が、前年に比べて大幅に落ち込んでしまったようですが・・・・)

週末だけでも晴れてくれればというのが、私の今夏の実感です。

ウィークデイは麹町界隈を、週末は関東近辺の低山を歩くのを楽しみにしていたのですが、週末の山歩きの回数が前年に比べて随分と少なくなってしまいました。

せめて麹町界隈で山の気分を満喫したい。

そんな気持ちを察してか、最近山登りにはまってしまったH氏が、番町の日本山岳会をレポートしてくれました。

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日本山岳会と武田久吉

千代田区四番町にあるBS日本に隣接しているビル一階の奥まったところに

日本山岳会」がある(千代田区四番町5-4 サンビューハイツ一階)。

正式名称は「社団法人日本山岳会」"THE JAPANESE ALPINE CLUB"

1905年創立の、日本を代表する最も歴史のあるアルパイン・クラブである。

日本山岳会の事務所は常時開いているわけではなく、週のうち数日時間を区切って業務を行っているようで、昼休みを使って初めて訪ねた時には、事務所は閉まっていた。

中を覗くと数枚の山の絵が掛けてあり、正面にはヒマラヤと穂高の絵があった。ヒマラヤの絵には「牧潤一」と書かれていた(長野県蓼科の白樺高原美術館に絵があったと記憶している)。日本山岳会玄関

我々山の素人にとって日本山岳会というと昭和45年(1970年)の植村直己氏のヒマラヤ(8848m)日本人初登頂に代表されるように日の丸を背負ってアタックするアルピニストたちの団体というイメージがある。その意味からも日本山岳会の玄関に牧潤一氏のヒマラヤの絵が掛かっているのに、思わずうなずいてしまった

 

この夏、尾瀬の燧ケ岳に登り、尾瀬ヶ原でテント泊した後、桧枝岐村にある「尾瀬ミニ公園」を訪ねてきた。この公園には「♪〜夏がくれば思い出す 遥かな尾瀬・・」の歌いだしではじまる、有名な「夏の思い出」の江間章子の詩碑があり、中心部には「武田久吉メモリアルホール」がある。

武田久吉(よしひさ)」という名前を聞いてピンと来る人は少ないかもしれないが、NO42号で紹介した駐日英国公使アーネスト・サトウと妻・武田兼の次男である。

武田久吉氏は明治16年(1883年)3月2日に生まれ、飯田橋の日本歯科大学と富士見町の法政大学の場所にあった自宅で暮らした。東京外語学校卒業後、札幌農学校、東北帝国大学予科で講師を務め、明治43年に英国に渡り、王立キュウ植物園を本拠にロンドン大学で講義を受け、王立理工科大学で植物学を修めた後、帰国。その後京都大学、北海道大学、九州大学で講師を歴任し、高山植物の分類と分布の研究を続けるかたわら自然保護に尽力した人物である。

植物学者として日本の高山植物の主だった研究と植物図鑑は氏の研究よるところが大である。

また、深田久弥氏の著書「日本百名山」の谷川岳や丹沢山の箇所に、武田久吉氏が先輩のアルピニストとして紹介されており、我国近代登山のパイオニアでもあった。

明治38年(1905年)10月14日英国人牧師で登山家ウォルター・ウエストンの勧めで、小島鳥水(コジマウスイ=日本山岳会初代会長)らと共に日本山岳会を設立し、その後第6代目の会長も歴任している。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・(2009年11月加筆。) 登山の歴史参照
・3月21日帰国前の日本アルプスを欧米に紹介した宣教師ウォルター・ウェストンは小島烏水、岡野金次郎、武田久吉、高野鷹蔵をオリエンタル・パレス・ホテル昼食に招き、山岳会の設立をすすめる。⇒25日・ウェストン:再度日本を離れ帰国する。
・10月14日:「日本博物学同志会」の支会として「山岳会」結成。:創立時の会員393名
小島久太(烏水:香川県高松生まれ、銀行員:横浜正金銀行⇒解体後東京銀行⇒現在の三菱東京UFJ銀行、当時31歳)、高野鷹蔵(ヨウゾウ当時21歳:後蝶学者)、武田久吉(ヒサヨシ当時22歳、後植物学者、アーネスト・サトウの次男)、梅沢親光(当時20歳)、河田黙(じずか当時19歳)、城数馬(当時41歳、弁護士、朝鮮高等院長)、高頭仁兵衛(式、当時28歳、新潟の豪農) 等日本山岳会最初の会合が行われた。⇒日本博物学同志会「博物之友」第5年第29号「山岳及ビ山岳ニ関スル一切ノ事ヲ研究スル目的ヲ以ッテ本会内ニ「山岳会」ト称する一支会設立サレタリ」。
高頭は山岳会の会計に欠損ある場合、向こう10カ年間、毎年千円(当時の会費千人分)を提供する。ただし10年たって自立できなければ解散すること、万一の場合を考慮し、ただちに山岳会のために、養老保険一万円に加入する、との確約が成立。

・小島烏水と岡本金次郎は2009年6月公開された映画「剣岳・点の記」で地図を作るために未踏峰と思われていた剣岳に命を懸けて登った測量官柴崎芳太郎と剣岳初登頂を争う当時最新の装備を備えた日本山岳会の登山チームのリーダーとして描かれている。

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そしてなぜ、「武田久吉メモリアルホール」が建てられたのか。

久吉氏は明治39年山岳会の会報「山岳」の第1号に尾瀬の模様を紀行文として掲載して尾瀬を紹介した。大正11年頃の尾瀬の貯水化計画反対の声をあげ、さらに昭和23年には、尾瀬ヶ原巨大計画にも反対の調査報告書を提出した。その研究と活動が認められて紫綬褒章や勲四等旭日小授章を受章し、昭和47年(1972年)に89歳でなくなっている。

武田久吉メモリアルホールこのような経緯で尾瀬の恩人として玄関檜枝岐村に平成11年に武田久吉メモリアルホール」が出来たのである。

当時私は会津若松市に勤務していたが、このホールを紹介するパンフレットの目鼻立ちがスッキリした日本人離れした老紳士の写真を見てびっくりしたことを今でも鮮明に記憶している。これが、転勤を重ねて千代田区に赴任したら英国領事のアーネスト・サトウと繋がりがあろうとは思っても見なかった。

千代田区立四番町歴史民俗資料館の平成11年度特別展「駐日英国公使アーネスト・サトウとその家族」という有償配布物には、サトウの業績と日本での旅行、そして武田家の家族との生活が詳しく書かれている。

 

ところで今年は1953年にエドムンド・ヒラリーとテンジン・ノルゲイがヒマラヤに初登頂してから50周年である。「第三の極」、「死の領域」といわれたヒマラヤも、公募登山隊(コマーシャル・エクスペディション)に700万円程支払って参加すると、誰でも登れるようになり、すでに登頂者の数は1700名以上を越えている。1日に70人以上が登ることも珍しくない渋滞のある山になっているとのことである。

数年前『Because it is there.』「そこに山(ヒマラヤ)があるから」という言葉を残してその翌年ヒマラヤで行方不明になった ジョージ・リー・マロリーの遺体が75年ぶりに発見されたという報道があった。

登山は、酔狂なあるいは物好きなと評される趣味の一つであるが、現在多くの人たちが楽しんでいる。登山は高低の差こそあれサミットを極めるという達成感、充実感とともに、目標となる山を定め、計画を立て準備をし、すべて自分自身の力のみで対処し、切り開いていくという「自己完結力と想像力」が魅力なのではないかと思える。

有名な『Because it is there.』は、1923年マロリーが資金集めの為のアメリカ講演旅行の際、質問に答えて口にした、ある意味謎めいた言葉である。しかし、目標に立ち向い努力するすべての人にいろんなイマジネーションを与えてくれる含蓄のある言葉である。

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9月1日は、防災の日です。

山歩きや登山の道具は、結構サバイバル用になります。私はいつもザックに一式入れてベットの脇に置いてあります。本当は防災用というより、休日の早朝、天気がよければそのまま担いで行けるようにしているだけですが・・・・・。

もうすぐ100周年の日本山岳会のHPです。

http://www.jac.or.jp/

山好きにはたまらない雑誌「山と渓谷」のHPも紹介しておきます。

http://www.yamakei.co.jp/dsn/index.htm

 

H氏は、パソコンを新機種に入れ替えて、新規一転。益々快調です。

http://homer.pro.tok2.com/index.htm

 

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(大)

*尾瀬燧ケ岳登山のとき桧枝岐村の武田久吉メモリアルホールの写真を撮ってきたのですがブラスター騒ぎにより
旧パソコンが壊れすべてデーターが失われてしまいました。
いつか桧枝岐を訪ねたときに写真を撮ってこようと思っています。


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