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=========麹町ウぉーカー(麹町遊歩人)NO49============

麹町ウぉーカーNO37号で取り上げた、ホテルニューオータニ。

実は、昼休みにホテルニューオータニの中庭を抜けて麹町へ戻ってくる「麹町ウぉーカールート」を、よく利用させていただいております。水あり、草花・木影もありですが、中庭に出るまでホテルの中を通り抜けるのにちょっと勇気が・・・・・。

そしてこのルートを利用する度に、ニューオータニの向かいに建つ「赤坂プリンスホテル」が、目に映ります。

この、「赤坂プリンスホテル」旧館の青銅色の屋根が、H氏の目にとまったようです。

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赤坂プリンスホテル新館赤坂見附の弁慶掘橋の上に立つと、メタリックな外観と客室部分が段々になっているのが特徴となっている丹下健三氏設計の40階建の赤坂プリンスホテル「クリスタル・パレス」が偉容を誇って建っている(千代田区紀尾井町1-2)。ここは通称「赤プリ」と呼ばれ、赤坂見附のシンボル的建物である。内部はつるつるした白い大理石が多く使われ、ガラス張りの明るいロビー中央から地階に降りる踊り場に白いピアノが置かれている。(平成19年4月1日より、赤坂プリンスホテルは「グランドプリンスホテル赤坂」なった。

新館の裏に別館と、その隣に広い車寄せを持つ、歴史を感じさせる木造2階建て寄棟造りの旧館(「旧宮邸」)がある。

この旧館、現在は有名な仏蘭西料理「トリアノン(Le Trianon)」やバー、結婚式の披露宴会場として使われているが、昭和4年に竣工したもので、内部は細部にわたり細工が施された重厚な木造建築物である。 

赤坂プリンスホテルの敷地には、江戸時代第8代将軍吉宗公で知られる紀州徳川家の屋敷があり、明治時代は北白川宮の邸宅があった。

弁慶掘りの橋のたもとにある「紀伊和歌山藩徳川家屋敷跡の碑」

そしてプリンスホテル旧館は、西武グループの創設者である堤康次郎氏(18891964)が昭和29年に買取、後にホテルにしたものである。

この堤康次郎氏も隣のニューオータニの創業者大谷米太郎と同じく立志伝中の人物である。滋賀県愛知郡秦荘町の農家の長男として生まれ(いわゆる近江商人ですね)、早稲田大学政治学科在学中から株を手がけ、その後、数々の事業に挑戦。29歳の時、軽井沢千ケ滝や箱根を開発し、近江鉄道・西武鉄道などの鉄道事集に進出し一代で西武コンチェルンを築く。36歳で衆議院議員(改進党)となり、以後13回当選し、昭和28年(1953年)5月から昭和2912月の間、警察法改正の会期延長問題で辞任するまで衆議院議長を勤めている。

旧竹田宮邸である高輪プリンスホテル貴賓館、旧北白川宮邸跡地に建つ新高輪プリンスホテル(国際館パミール)や、旧朝香宮邸である白金台の東京都庭園美術館(地元の反対でホテル建設が出来ず東京都が昭和57年に約139億円で買い取った)など堤氏が皇族の屋敷を次々と買い取っていった経緯については、現在道路公団民営化で活躍している猪瀬直樹氏の「ミカドの肖像」に詳しく書かれている。

赤坂プリンスホテル旧舘(合成がうまくいっていませんがご容赦を!)ところで赤坂プリンスホテル旧館と呼ばれる建物は、「旧宮邸」とも呼ばれると紹介したが、この宮様とは北白川宮様ではなく朝鮮王朝最後の皇帝純宗の皇太子李垠(イ・ウン)殿下のことで、李垠殿下邸として宮内省匠寮により建てられたものである。

この経緯はいささか複雑で現在の日韓関係の根源に遡る話になる。

朝鮮半島は1392年に李成桂(イソンゲ)が朝鮮王朝を建国して 500年もの長い間李王朝が続いた。明治43年(1910年)第27代皇帝純宗は日韓併合により退位させられた。その3年前の1907年、満九歳の皇太子・李垠殿下は留学という名目で日本に連れて来られ伊藤博文の下で育てられた。母親の死に際しても帰ることは許されなかった。

そして、大正9(1920)年、皇族の梨本宮守正氏の長女方子様(なしもとのみやまさこ)と六本木鳥居坂にあった李王東京邸で 結婚式が執り行われた。日本の植民地支配を確固とするための「政略結婚」だった。

結婚して2年後に長男王子晉(チン)が産まれ、一家は初めて朝鮮に帰る。初めての里帰りでは歓待を受けるも、帰国の前夜、晉は青緑色のものを吐いて急死する。毒殺だったのではないかといわれている。

戦前は日本の皇室と同等の扱いを受け、李垠殿下は帝国軍人としてその人柄から尊敬を集めたという。しかし、戦後は皇籍を剥奪され財産の大部分を失い、同族である李承晩大統領政権下では帰国することが出来なかった。昭和35(1960)年、李承晩は不正選挙に端を発した学生革命により失脚し、翌年軍事クーデターに成功した朴正煕が政権をとり昭和38(1963)年、垠殿下と方子妃は大韓民国に帰国を果たす。11歳で故国を後にしてから実に56年ぶりの帰国は、ベッドに寝たままの帰国であった。

当時の韓国では、反日感情が激しく、方子様はかなり苦労をされたという。そんな中で、方子様は精神薄弱児の教育を始め、「慈恵学校」を作り、後に「韓国障害児の母」と呼ばれ、尊敬を集め、平成元年(1989年)87歳で亡くなられた。

2002年サッカーワールドカップの時に日韓交流の礎となった方子様の特別番組を放送していたことを記憶している。

若者にも人気のある赤プリの旧館は、高輪の貴賓館等と共に「プリンスホテル」の名称の由来となると共に、日本と韓国との間で人生を翻弄されたラスト・プリンス・プリンセスの壮絶な歴史を持った場所だったのである。

プリンスホテル創業時に使われていた竹田宮家の家紋といわれるものが赤坂プリンスホテル別館の入り口に残っている別館の入り口のガラス扉には、昭和43年に亀倉雄策デザインによるプリンスホテルのトレードマークが出来る前まで使われていた「菊の紋」が残っている。

プリンスホテルと都道府県会館との間の坂は諏訪坂(達磨坂)と呼ばれるが、坂に面した木立の中に赤坂プリンスホテルの手作りパンやケーキが楽しめるBakery Shop「ブーランジュリー アカサカ」がある。「ブーランジュリー(Boulangerie)」はフランス語で“パンを焼いて売るお店”の意味だそうです。このあたりを散歩する際には美味しいケーキとお茶を楽しむために立ち寄りたいポイントの一つである。

【2011年1月 加筆】
赤坂プリンスホテルは2007年4月1日に「グランドプリンスホテル赤坂」に改称し、2011年3月をもって閉館の予定である。

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さて、文末に出てくる赤プリ前の諏訪坂(達磨坂)。

まだ若かりし頃、私が上京して初めて超ミニスカートを観た場所です。とにかく田舎者の私には鮮烈な光景で、赤プリがインプットされました。

 

全国の歴史ある建物のHPです。赤プリ旧館や文中の東京都庭園美術館の掲載されています。

http://maskweb.s22.xrea.com/architecture/area.html

 

H氏のホームページです。是非、訪問ください。

http://homer.pro.tok2.com/index.htm

 

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(大)


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