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===========麹町ウぉーカー(麹町遊歩人)NO48===========

梅雨の中休み。久々晴天の週末を過ごすことができました。

真夏の予行演習みたいな、30度を超える猛暑到来でした。

そんな暑さを忘れさせてくれる、H氏からチョッと首筋が寒くなるレポートです。

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平河天満宮に向かう貝坂を大通りから2本目の筋を左折した辺り平川一丁目(平河天満宮付近)が「山田浅右衛門」の屋敷があった場所といわれている。

番町出張所地区連合会・地域コミュニティー活性化事業実行委員会の発行する「祭江戸サンさん千代田2003現代江戸東京切絵図」などでも「山田浅右衛門旧居跡」と紹介されている。

「山田浅右衛門」といっても山田風太郎等の時代小説のファンでない限りピンとくる人は少ないかもしれないが、江戸の中期徳川吉宗の時代に浪人山田貞武が「浅右衛門」を称し、七代目の山田浅右衛門吉利まで「将軍家御試(おためし)御用役」を世襲した家である(但し、山田吉富が八代目の襲名したという記録もある)。

「将軍家御試(おためし)御用役」とは、将軍家の刀剣の切れ味を試す「様(ためし)斬り」を勤めとするものであるが、刀を血で汚すある意味で不浄の役目であるところから幕府の役職ではなく浪人の身分で請け負っていた職である。

ただこの山田浅右衛門は、俗に「首切り浅右衛門」とも呼ばれこちらのほうが知られていた(小説等ではこちらの名前のほうがとおりがいい)。

この「様(ためし)斬り」は処刑者の死体で行ったため、しだいに斬首そのものを山田浅右衛門が担当するようになったという。というのは、罪人の処刑は奉行所や火付け盗賊改めの「首斬り同心」と呼ばれる役人が行っていたが、江戸も中期になると人を斬ったことのある武士はほとんどおらず、日本刀で人のスパッと斬るという技術を持っていた者は限られていたからであろう。

そこで山田浅右衛門一門が1881年(明治14年)に斬首が廃止されるまで、処刑の執刀役を勤めていたのである。

「様(ためし)斬り」は奉行所の処刑場(土壇場)で首を切られた死体の払い下げを受けでおこなっていたとう。

「様(ためし)斬り」というのは早い話、刀の切れ味の鑑定である。将軍家だけの試し斬りの数は少ないが「将軍家御試(おためし)御用」という大きな看板があるところから、大名や旗本からも刀の鑑定を依頼されていたという。

江戸時代の死刑制度は重い順に、鋸挽<のこぎりびき=地中に埋めた箱に首かせをつけて罪人を入れた後、竹鋸で誰にでも首を挽かせ、三日後に磔にした>、磔<はりつけ=角材に縛り付け槍で突く>、獄門<ごくもん=牢内で首を切り、その首を二日三夜公衆にさらす>、火罪<かざい=引廻しの上、火あぶり>、死罪<しざい=牢内で首を切り、様(ためし)斬りが付加>、下手人<げしゅにん=牢内で首を切るが、様(ためし)斬り・引廻しはない>の六種類に分かれていた。その中で「死罪」の場合には斬首のほかに胴体の様(ためし)斬りが付加刑として科されていた。

この制度があるため山田家のような家業が成り立つ所以があったのである。

ところでこの山田家に関してはこれ以外にもいくつか話が残っている。

その一つは首切りの代役と試し斬りを行っていたところから、奉行所から死体の臓器を譲り受けて薬として販売して莫大な財を成し、浪人とは思えない家臣を抱え、屋敷に住んでいたという。特に肝臓は肺病薬として人気があったのだという。 これについては平凡社新書からでている『大江戸死体考「人斬り浅右衛門の時代」(氏家幹人著)』に詳しく書かれている。

勝興寺にある七代目山田浅右衛門の墓

家業とはいえ人を切るということは大変なことだったようで「人を斬るとどういうものか顔がボーッとのぼせて大変な疲れを覚える。一口に血に酔う、とでもいうのでしょうか・・そこで夜を明かして飲んで騒いでいた。」と伝えられている。

このように夜通し飲んで騒いだことが世間からよく思われず、山田の家は悪霊にたたられて眠れないから、あんなに騒いでいるのだと噂されたという。

 

山田浅右衛門の碑や代々の墓は、東京都豊島区の「祥雲寺」(池袋3−1−6)と新宿区左門町の勝興寺に残っている。

麹町の近くの勝興寺は、新宿通りの四谷2丁目を文化放送JOQRの通りに入り、宇賀神社の階段を登ったところにある。七代目の山田浅右衛門吉利の墓は本堂左側の墓地の入り口にある。七代目の山田浅右衛門は安政の大獄の吉田松蔭や、明治11年に紀尾井町の清水谷で大久保利通を暗殺した人達も処刑したといわれている。

墓の裏には「7代目山田浅右衛門」とあるが墓の左面には「山田朝右衛門」と彫られている。「あさえもん」の字が「浅」ではなく「朝」になっている。墓の脇に書かれている銘は「山田朝右衛門」と「浅」が「朝」の字になっている

この「浅」と「朝」の字が異なるということについては、幕末の7代目や8代目を、幕府が「将軍家御試(おためし)御用」と認めていなかったため、代わりに「朝右衛門」と称し将軍家御用の「浅右衛門」という名前は用いなかったとわかった。

 

最後に、来年のNHKの大河ドラマはSMAPの香取慎吾が主演する「新撰組」である。新撰組の副長で戊辰戦争を鳥羽伏見から会津戦争そして函館まで戦って戦死した土方歳三の愛刀の一つが、会津中将松平容保(かたもり)公から賜ったといわれる「以南蛮鉄於武州江戸越前康継(葵康継あおいやすつぐ)」である。
この刀には表銘として上記のように彫られているが、裏銘には「安政六年六月十一日 於伝馬町雁金土壇払山田在吉試之」と「同年十一月二十三日於千住太々土壇払 山田吉豊試之」と二行刻んであるのだという。

「安政六年六月十一日馬喰町の土壇場(刑場)で山田在吉(8代目を襲名した)がこれを試し、同年十一月二十三日に千住の土壇場でも山田吉豊(在吉の弟)がこれを試した」と彫られているこの刀は、試し斬りが明らかな貴重なものだという。

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五代目落語家柳家小さんの噺に「試し切り」というのがあります。

《白井権八と言う名人は遊興費ほしさに辻斬りをしたという。あまりにも腕が上手いので切られた方も分からずに三丁ばかり鼻歌を歌いながら帰り、家の近所に来たので曲がろうと体をひねった瞬間に真っ二つに割れた。そのぐらい上手い人に切られると分からないと言う。

新身(あらみ)が入るとその切れ味を試したくなるのはごく自然なこと。わらの束を切るのでは物足りないし、動物では刀が汚れてまずい。そこで、夜、覆面をして伺っていると、年寄りが近づいてくるが、老人は先が短く不憫だからと見逃す。若いのがくると先があるのだからと見逃し、女が来るともったいないと見逃し、あきらめて、橋のたもとまで来るとコモをかぶった乞食が寝ていた。こ奴なら良いだろうと腰をひねって気合いもろとも切り捨てた。刃こぼれもせず良い刀であった。 翌日その事を同僚に自慢すると、同僚も出かけていった。今夜も同じ所に乞食が寝ていたので、同じように気合いもろとも刀を振り下ろし、ツツツと2〜3間後ずさりをすると、乞食がコモを跳ね上げて、「誰だ、毎晩来て叩くのは!」 》

 

剣豪「小さん師匠」の迫力ある高座だったそうです。

本物を聴いてみたかったなあ!

 

H氏のホームページは薔薇の写真で一杯です。

http://homer.pro.tok2.com/index.htm

 

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(大)


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