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麹町ウぉーカー132号
(四谷の桜の話題)

今年も桜の季節がやってきた。331日東京の桜が咲いた。平年より5日遅い開花であるという。そこで、久しぶりに麹町界隈の桜について2つの話題を紹介する。

一つは上智大学正門の右側に植えられた桜であり、まだ小さな桜の枝が一本植えられているだけである。

その案内版には以下の通りあるのでそのまま紹介しよう。

 

「永井千本桜」2世

この桜(ソメイヨシノ)永井隆博士が1948年(昭和23年)に、原爆で焼け野原となった長崎・浦上の地に、資材を投じて植えられた1200本の桜(永井千本桜)から枝取りをして育てた「永井千本桜」の2世です。

上智大学は恒久平和を訴え続けた永井隆博士の思いを後世に伝えるべく長崎如己の会より贈られた2本の苗をこの地に植樹しました。

2011年(平成23年)3月29日

上智大学

永井隆(医学博士、洗礼名:パウロ)

1908年(明治41年)島根県松江市生まれ

長崎医科大学校卒業、同大物理療法科で放射線医学を専攻

1945年(昭和20年)9月9日、勤務中に原爆被爆

重傷を負うもその後約2か月にわたり被災者の救護活動に尽力する。

1946年(昭和21年)11月以降、病床に臥してからは「長崎の鐘」や「この子を残して」などの著書を通じて、広く恒久平和を訴えた。

1951年(昭和26年)5月1日帰天

 

ところで永井隆氏(博士)は明治41年2月3日 島根県松江市の医師の家庭に5人兄弟の長男として生まれた。
昭和
3年の松江高校を卒業して長崎医大に進む。学生時代のニックネームは「(西郷)隆盛」だったらしい。
大学卒業後、長崎医大助手 物理的療法科勤務 放射線医学を専攻する。そして日中戦争において軍医として従軍後、帰還し長崎医大助教授 物理的療法科部長となる。そして終戦直前の昭和
20年白血病と診断され、その夏89日に長崎医科大学付属病院で被爆する。

原爆で妻を亡くし自らも右側頭動脈切断という重い傷を負ったその直後から、負傷者の救護や原爆障害の研究に献身的に取り組んだ。昭和21年に教授となったが、長崎駅のそばで倒れ病床に伏することになる。そして病床についてからも、長崎の町と文化の復興、そして平和の願い執筆活動を通してその実践した。そして「九州タイムズ」の文化賞受賞した賞金の5万円を使って原爆で荒野となった長崎を『花咲く丘』にしようと私財を投じて浦上天主堂をはじめ山里小学校、純心女子学園、病院、道路各所に桜を植えた。発症から6年後の昭和2651日に亡くなっている。

 

次に昨年末のNHKのブラタモリで真田掘とその上の上智大学脇の桜並木を紹介していた。

その中で桜並木について紀尾井町福田屋のご主人が出演していて、昭和39年3月福田屋が100本寄贈し植樹したのだと紹介していた。

紀尾井町福田屋の前の土手には「櫻並木 百本 記念植樹 昭和三十九年三月 福田屋 福田彰」と掘られた碑が立っている。

その時の放送で福田屋のご主人は現在では上智大学のグランドになっている真田堀は戦前は水をたたえた白い花の咲くきれいな濠であったと語っていた。

しかし、空襲で出た大量の瓦礫を埋め立ててできた場所であるという。現在、東日本大震災の瓦礫処理が問題となっているが、きれいな四谷の土手の桜の下には悲しい歴史が埋まっているのである。

平成24年3月31日


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