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甲府勤番風流日誌(第三巻)(山梨の名物編)(アワビの煮貝)

今回は今まで紹介していなかった山梨の名物に関して紹介しよう。

諸国に名物があるように山梨にも数多くの名物がある。当然、勝沼を中心とするブドウやワイン、一宮町の桃、ホウトウは直ぐに連想されるであろう。

その中でも何故山国の山梨にと思案してしまう名物の一つが「アワビ(鮑)の煮貝」である。

私が初めて煮貝に出会ったのは結婚した年である。仲人である山梨市出身の大学の恩師から頂いたのが「煮貝」であった。夫婦で「なぜ山梨にあわびが?」といいながら薄く切った煮貝を口に運び「美味しい!」と驚きの声をあげた。その後この煮貝がとても高価なものであることを知って二度驚いたことを記憶している。

このアワビの煮貝はアワビが薄い醤油のような液に漬けられて5,000円程度から販売されており、なかなか高価なものであるが、それを薄く切って酒のつまみとしていただく。これがなかなか美味で、磯で鮑の生を刺身にして食べる時のコリコリした硬さと歯ごたえを楽しむのに対して、アワビ独特の歯ごたえはないが独特のタレに漬け込まれ、芳醇な風合いと甘辛さその後の余韻は稚拙な私の表現力をもってしては表現できないが、間違いなく大人の賞味に絶え得る逸品である。

山梨の高級な料亭やホテル、旅館の料理には必ず一品添えられる山梨を代表する名物の一つである。そしてそれは名物の名に恥じない美味しいものである

そもそも最初の疑問に戻るが「何故に海のない山国山梨に鮑の名物か?」ということであるが、アワビの煮貝は江戸時代、甲州商人が、駿河湾で採れたアワビを醤油漬けにして、馬の背に乗せて運び、樽の中のアワビが、約1週間かかつて甲府に運ばれてくる間に比較的体温の高い馬の体温で熱され、甲府に到着するころにはちょうどいい味に染みていたという説が有力であるという。それが後の甲斐の国の先人たちによって改良され現在の味になったのである。ただ武田信玄が陣中食としていたという説もあるという。

ところで駿河湾から甲府へ運ばれてきた道であるが現在の主要道路である富士川沿いの国道52号線ではなく静岡県富士市から富士河口湖町、大月市、小菅村から奥多摩湖の深山橋まで至る国道139号を精進湖で左折する。そして国道359号線に入りすぐに山道になり現在の左右口隋道の前の旧上九一色村役場(合併により~15年11月15日から富士河口湖町になった)を少し過ぎた辺りから山中に入り左右口峠(「うばぐち」読む山梨でも難読地名の一つ)を越えて中道町の左右口交差点の脇辺りに出る「中道往還」と呼ばれた険しい古道であった。

駿河湾を出たアワビが天下の名峰(霊峰)富士山に見守られながら駒に揺られたて歩を進め、さらにこの険しい峠に揺られて、風雅の極みともいえる甲斐の国のアワビの煮貝を生み出したのである。

ところでアワビの煮貝の嗜み方であるが、これだけの味わいのある高価なものであるが故に軽く味わって欲しくない。お気に入りの酒、お気に入りの器で、居住まいを正していただきたい。ビールに限らず日本酒にもワインにもとてもあう。大人向けの趣味の雑誌「バサラ」で紹介されているような芳醇な大人の時間を楽しむ大人の食べ物である。

 

ここで「アワビの煮貝」から少し話がそれるが、煮貝が生まれる契機となった「中道往還」について、旧上九一色村の温泉で聞いた面白い話しを紹介しよう。

芦川村の新道峠に登り、河口湖の真上から雄大な富士山を楽しんだ帰りに、上九一色村役場のそばの温泉で余韻に浸っている時のことである。

たまたま湯船の中で地元の方と「昔はこのあたりの道は大変だったでしょう」という話しになり、そこで「甲府に至る昔の道は左右口峠を超えて中道の出ていた。当時峠にはコワシミズと呼ばれていて、湧水が湧き出ていたが、自衛隊が左右口随道を掘ってからその清水は枯れてしまった。」という話しをきいた。

そこで私は「コワシミズ」という地名がどのような漢字か聞くと「強い清水」すなわち「強清水」であるという。

由来を聞くと昔ここを甲府の町に商売で往来していた人がいた。ある日、商売があまりうまくいかずに何も持たずに帰った。しかしそれでは家の年老いた父親に悪いので途中で清水を汲んで帰った。そして悪く思いながらも父親に差し出すと、「これはうまい酒だ」ととても喜んで呑んだという。もちろん酒など入っていない、おかしいと思い飲んでみると、間違いなくただの清水だった。だが父親が飲むと美味しい酒で、子供が飲むと清水。これが「子は清水」となり「強清水」となったという言い伝えがあるという。

なんとこの話しを聞いて私の前任地である会津の猪苗代湖のそばにある「親は諸白、子は清水」という話しとあまりに似ているので話しをしたら喜んでいただき長風呂をしてしまった。 *諸白 精白した米でつくった上等の酒

国道49号線を猪苗代湖から会津若松市方面に下り始めるところは旧二本松街道との分岐点であり、「強清水(こわしみず)」と呼ばれる場所である。ここには清水が湧いておりどんな干ばつでも水かがれることはなく、「親は諸白、子は清水」という伝承が残っている。

寛喜3年木こりの与曽一、与曽二という親子がいた。父は大変まじめであったが息子は大酒を飲み、あげくに追いはぎまでしていた。息子の悪さ三昧で米も買えない有様だったが、与曽一なぜか仕事の帰りには、酒に酔って帰ってきた。不思議に思った与曽二が後をつけると岩から湧き出る水を飲んで酔った振りをしていた。与曽二は清水を酒にたとえて飲む父親の姿に親不孝を悔やみ以後、親孝行に勤めたという。

会津の強清水の伝承も山梨の左右口峠の「親父が飲むと諸白(上等な酒)であるが、子(こ)が飲むと清水」という伝承とのまった全く同じ話であることに驚いた。(会津見て歩記第2編に紹介している)

2004.5.15掲載

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