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磐梯町 河東町 

磐梯町
磐梯町は会津仏教文化の発祥の地といっていいであろう。

平安時代の初期、磐梯山が噴火した直後に法相宗の僧徳一上人により恵日寺が開かれ数百人の僧と数千人の僧兵を擁する勢力を誇っていた。明治初期の廃仏棄却により荒れてしまったが、現在の恵日寺の奥にある磐梯神社の脇の小道を数分歩くと開祖徳一の墓と伝えられる五重の石塔が残されている。最盛期は東西12キロ、南北8キロの壮大な伽藍をなしていたという。

現在は恵日寺の脇にある「磐梯山恵日寺資料館」に1200年の歴史が紹介されている。この資料館に行くと空のペットボトルやポリタンクを抱えた人達を見かける。資料館に入る人達よりこちらのほうが明らかに多い。何故かというと資料館の中庭に日本100名水の水汲み場があるのである。恵日寺の裏山に100名水のひとつ「龍ヶ沢湧水」がある。

この湧水は空海が雨乞いの法を修行した場所であるとか会津藩の雨乞いの行われた場所であるといわれている。

私は近所の人からこの湧水を汲みに行く話を聞いていたため、秋も押し迫った11月の終わりごろ、一人でこの湧水を探しに出かけた。車で話に聞いた場所に行くもそれらしい入り口は見当たらなかった。やっとのことで湧水への入り口を見つけ、歩き始めると晩秋の夕暮れは早く、鬱蒼とした杉の林を一人で歩くのは薄気味悪いものである。この日の私の出で立ちはジーンズにフリースのジャケット、トレッキングシューズそれに東京から買ってきたお気に入りの皮製のブッシュハット(カーボーイハット)というものだった。この薄暗い山歩きを楽しむための格好だと一人言い聞かせながらひたすら歩きつづけた。20分間は思ったより長い山道であった。磐梯山の山腹のいたるところから水が涌き出ているがそのなかでも大きな岩の池のある龍ヶ沢湧水はその水量において格別である。

私は大きな岩の間から涌き出てくる水を手ですくいとり口に含み、持ってきたペットボトルに水を汲んで帰った。

その翌週、妻を連れて、その翌々週二人の子供達を連れて同じ道をたどりその湧水を訪れた。子供達を連れてきた日は朝も早かったこともあり、途中でカモシカと会うことができた。この出会いは子供達も大喜びであった。

ところがもうひとつビックリすることがあった。子供達とこの湧水の荘厳な雰囲気に浸っていると、突然、ポリタンクを抱えた人が湧水の上から現れたのである。この湧水の真上に林道が走っていてここを知る人はそこまで車で来るものらしい。私が悦に入って歩いてきた山道を歩く人は少ないという。帰りはその人の車に乗せてもらい、この水の話、十年以上会津に単身赴任でいることなど話を聞きながら私達の車の場所まで送ってもらった。

ここでひとつ不思議な体験(いや出会い)を紹介しておく。

滝夜叉姫の墓この湧水を初めて訪れたその日、車で家路についた私が、恵日寺の前の道を左折して国道に出るところを右折した。何故か400メートル程先の森が気になったのである。まるで吸い込まれるように薄暗い森の中に車を進めた。森に入りすぐ、車の左側にあった小さな石が気になり車を止めてその場所までバックした。車を降りてライトの明かりを頼りにその石を見ると小さな墓であった。その傍らには「如蔵尼の墓」と書いてあった。如蔵尼とは平将門の三女「滝夜叉姫」である。平将門については知っていたがその娘については知らなかったので、図書館で調べてみると、父将門が乱を起こして敗れた後に日立の国に引きこもり妖術を使って抵抗したとあった。「今昔物語」の中には彼女が若い頃美しかったと書かれている。まるでギリシャ神話のコルキスに黄金の羊の毛皮を取りに行く「アルゴ船の物語」に出てくる妖女メディアのような女性なのである。(後に歌川国芳の「相馬の古内裏」という浮世絵に大きな骸骨を操る滝夜叉姫が描かれていることを知った)。

私は間違いなく何かに導かれてここにやって来たような気がする。不思議な体験であった。もうひとつの不思議な体験は第1篇の「天寧寺の郡長正」のところで書いている。

旧河東町(平成17年11月1日合併により会津若松市に編入となった。)

この町は猪苗代から会津若松への入口にある町であり、まず「会津村」の大きな白い観音様が見えてくる。その胸には約11メートルもある赤ちゃんが抱かれている57メートルの慈母観音である。園内には三重の塔や奥会津の民家等がありその中の池には錦鯉の優雅さなど微塵もなく気持ち悪いほど群がって餌を求める大きな鯉が飼われて、今ひとつコンセプトが理解できない。

会津藩校日新館

藩校日新館は家老田中玄宰が鶴ヶ城の西出丸に開いた会津武士の文武の中核となる藩校である。あの白虎隊もここで学びそこでの教えが、彼らの純真さゆえ悲劇へと導いたものともいえる。現在の建物はそれが観光施設として再現されており、中央には孔子が祀られている。ただこの建物は観光施設でありそれ以上のものではない。

河東町「皆鶴姫の墓」私はこの町で紹介すべき場所として「皆鶴姫の碑」をあげたい。源義経と皆鶴姫の悲恋物語である。義経は平泉で過ごしたのち再度京に登り平氏の動向を探っていると、鬼一法眼と言う文武の達人の事を聞き彼の持つ兵法書を手に入れようとしたがどうしても見せてもらえなかった。そこで法眼の娘皆鶴姫と懇ろになり密かに書き写すことに成功した。ところが義経の動向を平清盛に察知され平泉に走った。それを知った皆鶴姫は安元元年(1175年)8月義経の後を追いここ河東の藤倉までやってきたが疲労困ぱいのあまり病に倒れてしまった。村人達の手厚い看護により快方に向かったが翌年の春、難波池に映った自分のやつれた姿に驚きそして悲しみ、池に身を投じたという。それが弥生12日、18歳の若さであった。その時義経は河東の隣の磐梯町にいた。姫の死を知り駆けつけこの地に墓を建てたという。法名を安至尼という。そののちこの場所を訪れると良縁を授かるとして参拝が絶えなかったと言う。現在は正面には飯豊連峰、右手正面には会津磐梯山がきれいに見える田んぼの中に東屋と言うには不釣合いな洋風な造りの屋根に覆われて保存されている。

ちなみに義経に関しては第1篇会津若松編の「五郎兵衛飴」の個所で800年前に源義経がこの飴を食べたという伝承があることを書いた。このときの義経は兄頼朝に追われて平泉を目指す途中であり、この皆鶴姫の伝承はそれよりも前ということになり、義経は会津を二度は訪れていることになる。

今皆鶴姫の碑の前でノートパソコンのキーをたたいている。私にとって磐梯町の滝夜叉姫とこの皆鶴姫は会津で気になる女性だった。皆鶴姫だけはどうしてもここで書きたかった。滝夜叉姫に比べて皆鶴姫を自分のものにしきれていなかったからである。甲府に転勤した翌年の12年3月17日に家族で会津にスキーできたにもかかわらず家族をアルツ磐梯スキー場において磐梯町の墓とここを訪ねている。滝夜叉姫の墓の前では妖艶な姫が微笑んでくれたが、この墓の前では姫は私に姿を現してはくれなかった。まだ姫への想いが浅いようである。いずれにしても一人の男性を思いつづける女性の一念は心を打つものがある。私がなぜにここまで拘るのかは訳があるがそれはまたの機会にする。

強清水(コワシミズ)の揚げ饅頭と天ぷら

ここは河東町というより猪苗代湖をあとにして会津若松に向かう道のくだりにかかったところにある場所である。ここはその名の通り泉が湧いており、昔からどんな干ばつのときでもここの泉は枯れなかったという。その昔、老いた父親が毎日赤い顔をして帰ってくるのを見た放蕩者の息子が、あるとき父親がどこで毎日飲んでいるのだろうと思いついて行くとこの泉の水を飲み酔った振りをして家に帰っていた。以後親不孝を悔やみ孝行に励んだという。

寛喜3年木こりの与曽一、与曽二という親子がいた。父は大変まじめであったが息子は大酒を飲み、あげくに追いはぎまでしていた。息子の悪さ三昧で米も買えない有様だったが、与曽一なぜか仕事の帰りには、酒に酔って帰ってきた。不思議に思った与曽二が後をつけると岩から湧き出る水を飲んで酔った振りをしていた。与曽二は清水を酒にたとえて飲む父親の姿に親不孝を悔やみ以後、親孝行に勤めたという。

ここでは饅頭の天ぷらニシンとスルメの天ぷらが有名である。

特に後者は山国の民の北海の幸の絶妙の食べ方である。乾物のニシンとスルメをここの美味しい水で戻しそれを天ぷらにして食するのである。会津を訪れたらぜひ食べてほしい。因みに強清水にはいくつかお茶屋があるが我が家の子供たちは清水の前にある「清水屋」が美味しいといっている。


後に山梨県甲府市に転勤してオウム事件で有名になった上九一色村(現ざい甲府市に編入)にも同じ強清水という地名と親孝行伝説があるのを知った。甲府勤番風流日誌(第三巻)(山梨の名物編)(アワビの煮貝)


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