戻る  甲府勤番風流日誌(第三巻)(山梨の名物編)

甲府勤番風流日誌(第三巻)

今回は今まで紹介していなかった山梨の名物に関して紹介しよう。

諸国に名物があるように山梨にも数多くの名物がある。当然、勝沼を中心とするブドウやワイン、一宮町の桃、ホウトウは直ぐに連想されるであろう。

その中でも何故山国の山梨にと思案してしまう名物の一つが「アワビ(鮑)の煮貝」がある。

私が初めて煮貝に出会ったのは結婚した年である。仲人である山梨市出身の大学の恩師から頂いたのが「煮貝」であった。夫婦で「なぜ山梨にあわびが?」といいながら薄く切った煮貝を口に運び「美味しい!」と驚きの声をあげた。その後この煮貝がとても高価なものであることを知って二度驚いたことを記憶している。

このアワビの煮貝はアワビが薄い醤油のような液に漬けられて5,000円程度から販売されており、なかなか高価なものであるが、それを薄く切って酒のつまみとしていただく。これがなかなか美味で、磯で鮑の生を刺身にして食べる時のコリコリした硬さと歯ごたえを楽しむのに対して、アワビ独特の歯ごたえはないが独特のタレに漬け込まれ、芳醇な風合いと甘辛さその後の余韻は稚拙な私の表現力をもってしては表現できないが、間違いなく大人の賞味に絶え得る逸品である。

山梨の高級な料亭やホテル、旅館の料理には必ず一品添えられる山梨を代表する名物の一つである。そしてそれは名物の名に恥じない美味しいものである

そもそも最初の疑問に戻るが「何故に海のない山国山梨に鮑の名物か?」ということであるが、アワビの煮貝は江戸時代、甲州商人が、駿河湾で採れたアワビを醤油漬けにして、馬の背に乗せて運び、樽の中のアワビが、約1週間かかつて甲府に運ばれてくる間に比較的体温の高い馬の体温で熱され、甲府に到着するころにはちょうどいい味に染みていたという説が有力であるという。それが後の甲斐の国の先人たちによって改良され現在の味になったのである。ただ武田信玄が陣中食としていたという説もあるという。

ところで駿河湾から甲府へ運ばれてきた道であるが現在の主要道路である富士川沿いの国道52号線ではなく静岡県富士市から富士河口湖町、大月市、小菅村から奥多摩湖の深山橋まで至る国道139号を精進湖で左折する。そして国道359号線に入りすぐに山道になり現在の左右口隋道の前の旧上九一色村役場(合併により~15年11月15日から富士河口湖町になった)を少し過ぎた辺りから山中に入り左右口峠(「うばぐち」読む山梨でも難読地名の一つ)を越えて中道町の左右口交差点の脇辺りに出る「中道往還」と呼ばれた険しい古道であった。

駿河湾を出たアワビが天下の名峰(霊峰)富士山に見守られながら駒に揺られたて歩を進め、さらにこの険しい峠に揺られて、風雅の極みともいえる甲斐の国のアワビの煮貝を生み出したのである。

ところでアワビの煮貝の嗜み方であるが、これだけの味わいのある高価なものであるが故に軽く味わって欲しくない。お気に入りの酒、お気に入りの器で、居住まいを正していただきたい。ビールに限らず日本酒にもワインにもとてもあう。大人向けの趣味の雑誌「バサラ」で紹介されているような芳醇な大人の時間を楽しむ大人の食べ物である。

 

ここで「アワビの煮貝」から少し話がそれるが、煮貝が生まれる契機となった「中道往還」について、旧上九一色村の温泉で聞いた面白い話しを紹介しよう。

芦川村の新道峠に登り、河口湖の真上から雄大な富士山を楽しんだ帰りに、上九一色村役場のそばの温泉で余韻に浸っている時のことである。

たまたま湯船の中で地元の方と「昔はこのあたりの道は大変だったでしょう」という話しになり、そこで「甲府に至る昔の道は左右口峠を超えて中道の出ていた。当時峠にはコワシミズと呼ばれていて、湧水が湧き出ていたが、自衛隊が左右口随道を掘ってからその清水は枯れてしまった。」という話しをきいた。

そこで私は「コワシミズ」という地名がどのような漢字か聞くと「強い清水」すなわち「強清水」であるという。

由来を聞くと昔ここを甲府の町に商売で往来していた人がいた。ある日、商売があまりうまくいかずに何も持たずに帰った。しかしそれでは家の年老いた父親に悪いので途中で清水を汲んで帰った。そして悪く思いながらも父親に差し出すと、「これはうまい酒だ」ととても喜んで呑んだという。もちろん酒など入っていない、おかしいと思い飲んでみると、間違いなくただの清水だった。だが父親が飲むと美味しい酒で、子供が飲むと清水。これが「子は清水」となり「強清水」となったという言い伝えがあるという。

なんとこの話しを聞いて私の前任地である会津の猪苗代湖のそばにある「親は諸白、子は清水」という話しとあまりに似ているので話しをしたら喜んでいただき長風呂をしてしまった。 *諸白 精白した米でつくった上等の酒

国道49号線を猪苗代湖から会津若松市方面に下り始めるところは旧二本松街道との分岐点であり、「強清水(こわしみず)」と呼ばれる場所である。ここには清水が湧いておりどんな干ばつでも水かがれることはなく、「親は諸白、子は清水」という伝承が残っている。

寛喜3年木こりの与曽一、与曽二という親子がいた。父は大変まじめであったが息子は大酒を飲み、あげくに追いはぎまでしていた。息子の悪さ三昧で米も買えない有様だったが、与曽一なぜか仕事の帰りには、酒に酔って帰ってきた。不思議に思った与曽二が後をつけると岩から湧き出る水を飲んで酔った振りをしていた。与曽二は清水を酒にたとえて飲む父親の姿に親不孝を悔やみ以後、親孝行に勤めたという。

会津の強清水の伝承も山梨の左右口峠の「親父が飲むと諸白(上等な酒)であるが、子(こ)が飲むと清水」という伝承とのまった全く同じ話であることに驚いた。(会津見て歩記第2編に紹介している)

 

山梨の宝石

山梨に観光に来ると河口湖や甲府市内などいたるところに宝石や貴金属に関するショップや博物館を目にする。さらに新作の発表会や宝石フエアーが盛大に開かれている。

ここ山梨は昔から「甲斐の水晶」といわれ、現在では全国の宝石(ジュエリー)の三分の一を産する一台生産地である。正確には研磨宝飾産業というべきであろう。

その起こりは名勝御岳昇仙峡の最奥金峰山で1575年に水晶が発見され、水晶を買いに来た京都の玉屋の番頭弥助から金桜神社の神官が研磨技術を学んだのが始まりであるといわれる。やがて、水晶細工の中心は、御岳から甲府に移り、甲斐の国は、加工工芸の中心として発達した。明治期には宝石と貴金属加工の技術が結びついて指輪が登場し、現在のようなジュエリー山梨の基礎を作った。

戦前・戦中はその技術を生かした軍事用の無線機のクリスタル発信機を作っていたともいう話も聞いた。

現在では昇仙峡の水晶も枯渇して甲州水晶を産する事はなくなったが、永い歴史に裏付けられた技術産業を背景にブラジル、タイなどから原石を輸入し加工、研磨して日本中の三分の一のジュエリーを生産する産地になったのである。

甲府市川田町の工業団地「アリア(正式名称:協同組合ファッションシティ甲府(アリア・ディ・フィレンツェ))には山梨を代表する叶ホ友、白金工房などのジュエリーメーカーの工場やその他異業種の山梨県を代表する企業の立派な展示スペースがあり、県外からの観光客のバスで賑わっている。

このような歴史ある地場産業である宝飾産業を背景に山梨県には全国で唯一の「県立宝石美術専門学校」が甲府市の正面、富士が正面に見える愛宕山の山腹にある。この学校は、山梨県の伝統的な地場産業であるジュエリー産業の振興を図るため、高等教育に準じた教育課程により宝石学、宝飾美術を習得する日本で唯一の公立専門学校として昭和56年4月に開校したもので、宝石の山梨県を象徴する施設である。

過去水晶を掘っていた乙女高原などにはマニアの訪れては、坑道の近くのズリ(水晶を採掘する為に坑道を掘った跡の残りの土)の中から小さな水晶原石を拾って楽しんでいる。私の友人も埼玉から乙女高原に水晶を掘りに行っており掘ってきて磨いた水晶を頂いたことがある。泥まみれになるが、宝探しのようで、綺麗な水晶が出たときなどはとても嬉しく、とても楽しいとのことである。

 

 

 

印鑑

山梨県の名産としてあげるべきものとして印鑑を上げることに異論はないであろう。

特に狭南と呼ばれる富士川沿いの人口4000人ほどの小さな六郷町は「はんこのふるさと六郷町」を標榜し、山梨県内の印章生産の70%、全国生産の50%を生産するという全国的にも有名なはんこ(印鑑)の町である。

 

この町では印章彫刻をはじめ、印材の製造、印材卸売、印章ケース、ケース用金枠、印袋製造、メッキ加工、ゴム印、表札、通信・外交販売など、材料、加工、販売までまるで町全体が一貫生産工場として成立している。

山梨が昇仙峡の水晶研磨加工技術を背景にして印章産業が発展したのは想像に難くない。しかし、この六郷町が水晶から直接印鑑産業に結びついたのではない。この六郷町は江戸時代には旧岩間村を中心に、農家が足袋(たび)の製造を副業とし「足袋の岩間」といわれる程の盛業を示し、行商の手によって市場をのばしていた。しかし明治に入ってから機械化による大量生産の製品が多く、また安く出回るようになると、地方の小規模企業は圧迫され、同時に足袋製造に欠かせないこの地方特産の藍の栽培が減少して、次第に「岩間足袋」は姿を消していった。もともと足袋産業で営業力を付けていた人達は、それを生かし、印鑑の注文を営業先で取るようになり、六郷町の印章業が地場産業として定着する基礎となったのだという。

甲州商人の原点である行商による営業力がこの町の再興のビジネスチャンスを与えたのである。

甲府に赴任して仕事柄、印章生産の現場から販売にいたる全ての過程を見聞するチャンスに恵まれたので、一般にはあまり知られていない印鑑生産の話題を紹介しよう(ただし、3年前の話であまり正確でないことは最初に申し添えておく)。

印鑑の代表的な材料というと象牙であるが、現在ではワシントン条約で輸入が規制されており自由に使える素材ではない。そこでこの印材は例外的に輸入を許された後も厳重に管理されている。

象牙の国際取引(輸入)は、1989年(平成元年)10月より、ワシントン条約により輸入が禁止されたが、1999年(平成11年)3月18日より、約10年ぶりに、象牙の国際取引(輸入)が再開したときにたまたま甲府勤番とし山梨の経済界に身を置いていたため輸入第1号の現物を目にする機会に恵まれた。

輸入象牙を扱う事業者は、「種の保存法」に基づき、経済産業省に象牙取り扱い事業者登録が義務図けられている。輸入された象牙は1本ずつ番号が付けられ、さらにそれが印材に切断されるときもその象牙番号の下にサブ番号が付け、さらのその切り分けた象牙から我々が手にする印章の形に切り出したときのその下の番号が付けられ、その全ての細分化された印材が国に登録されるシステムになっているという。そして象牙印章を購入した人はそれがちゃんとしてルートで輸入され加工された象牙であることの証明書の発行を求めることができるという。

さらに、印鑑の頭の部分の丸い形は全国で6種類ほどしかないのだという。このあたりの経緯、趣旨はあまりはっきりしないのであるが、通産省(現在の経済産業省)の規制により象牙の印材を切り出す金型が定められており、印鑑のプロの世界では印鑑の頭の丸さを見ただけでそれがどこで作られた物かが分かるのだという。正確ではないが確か6種類ほどしかないのだという。

 

車で国道52号線を富士川沿いに走ると川の対岸に「印鑑の町六郷町」という看板が轄b伸堂という国内でも最大規模の印鑑メーカーの社屋に架かっている。

富士川にかかる橋を渡り六郷町の街中入ると「地場産業会館」という印章の資料館がある。展示室には、印章彫刻製作の工程を解説するパネルや、製造用具、象牙、メノウなど、あらゆる印材が展示されている。なかでも、中国の銅印1万376種もの印影を191冊に集めた『十鐘山房印挙』は、一見の価値がある。また建物の脇には、印面が2m四方の間違いなく世界一の巨大ハンコが鎮座している。そこに彫られた文字は当然甲斐守護武田信玄の旗印「不動如山」と書かれている。

ところでこの「不動如山」は「風林火山」の最後の一句であり山梨に勤めると酒席などでは必ず話題になる。しかし、この四節がすらすら素読することは難しい。とくに「其疾如風」が出てこない。またそれが酒の肴になる。ところがこの孫氏の言葉は6節あるのらしい。「其疾如風、其徐如林、侵掠如火、知難如陰、不動如山、動如雷霆(疾きこと風の如く、その徐か(静か)なること林の如く、侵掠すること火の如く、動かざること山の如く、知り難きこと陰の如く、動くこと雷霆(らいてい)の如し。)」である。このことは取引先の社長さんから教えていただいた話である。メモ用紙に万年筆ですらすらと書いてもらったもので、当時の手帳をめくっていて出てきた。

*霆は「いかづき」雷のこと。

私はサラリーマンになって会社の社内販売で象牙の印鑑のセットを購入した。そして子供たちが生まれたときも同じように子供たちの印鑑を作った。そしてそれから15年経って甲府勤めになり、着任の挨拶のためにある印鑑製造の会社に訪ねたときその会社の印鑑ケースのデザインが私の持っている印鑑のケースによく似ていることに気付いた。その話をすると、私が印鑑を購入した経緯から間違いなくその会社の印鑑であることがわかった。そして後日訪問したときに現物を持っていったところ、その会社で作られたものであることを確認した。なんという偶然であろうか。

この印鑑を買った15年前、私は鹿児島市にいたのである。私と山梨との縁を実感した出来事であった。

 

甲州印傳

この「印傳」は通常「甲州印傳」と称されるが日本のほかの地方では見たことがない山梨だけの名産である。

鹿の皮に漆で図案を描くもので、柔らかい革にトンボ、小桜、青海波等の伝統的なデザインが描かれハンドバックや財布、名刺入れなど大人の小物にふさわしい逸品である。江戸小紋にも見られるような細緻なデザインが整然と或いはランダムでありながら安定感のある不思議な模様には驚かされる。小さな柄の中に「瓢箪(ひょうたん)」の柄を見つけたときにはびっくりした。

印傳とは印度(インド)伝来のものといわれるもので、戦国時代から武将の甲冑等の技術として発達し、江戸時代には巾着( きんちゃく ) や、胴巻き、煙草入れなどの身の回りの品に応用されて人気を博した。現在ではハンドバック等の装飾品として山梨の名産としての地位を築いている。「インディア」が転じたものとの説もあるようであるが、山梨では印度伝来説が採用されているという。

山梨ではある程度社会的地位のある方と名刺交換をするときに印傳の札入れを使っている人と出会う。これを見ると、郷土の伝統のいいものをさりげなく使う大人だなと内心拍手を贈りたくなる。

山梨を離れて江戸城詰になった私こと甲府勤番(要するに本社勤務になったのである)は、出張先で印傳のペンケースを見かけた。

仕事で大阪簡易裁判所に行ったとき担当の調停委員の先生がこの紺地にトンボ柄のペンケースを使っておられた。これは難しい事案だったのであるがこのペンケースを見て「先生、これは山梨の印傳ですね。」というと「印傳を知っているかね。」ということでこの話しをきっかけに本音をフランクに話せるようになり、数回通う内に素晴らしい調停努力で円満な解決することができた。

この調停委員は元高松地裁の裁判官であったが、裁判官時代に友人の勧めで印傳を使うようになり長く使い込むうちに風合いと使い心地がまし、今では手放せなくなったと話しておられた。この印傳を作った方が聞かれたら涙を流されるような話しであろう。まさにこれが印傳のよさなのである。

JR甲府駅前の平和通にある甲府市役所と甲府警察署との間の通りを左折して、岡島デパートの少し先にある、甲州印傳の老舗「株式会社印傳屋上原勇七」の二階には印傳博物館がある。印傳の歴史や作り方はもとより、何より伝統の粋と繊細な美を体感できるお勧めのスポットである。

因みに東京港区青山の国道246号線沿の神宮外苑秩父宮ラグビー場そばにも印傳の老舗の店舗があることを紹介する。

私も甲府を離れるときにいつも昼食をお世話になった県庁そばの喫茶店「バリアンテ」のお母さんから私と妻に印傳の印ケースをいただいた。これは使い込むほどによさが出るため、そして甲府の人情と思い出をかみ締めながら日々使っている。

「甲州印傳」山梨を訪れたら買って帰りたいお土産であり、使いこなせば一生物となることは請け合いである。

 

 

山梨の花々

山梨に住んでみて嬉しいことの一つに四季がはっきりしていることであり、四季折々に一斉に花が咲き乱れることであった。

春になると、日本一の桃の出荷量を誇る一宮町を中心として、桃の花が甲府盆地を桃源郷に変える。中央高速道路の笹子トンネルを抜けて甲府盆地に入ったときに山頂に残雪をいただいた鳳凰三山、南アルプス、甲斐駒ケ岳等を屏風(背景)にして盆地一面のピンクを目のあたりにすると桃源郷とはこのようなものかとうなずきたくなる。

そして勝沼から一宮町、御坂町、八代町にいたる間の御坂山脈の山懐から盆地を下り、山梨市、塩山市や春日井町に至る一面のピンクの絨毯は壮観である。笛吹川フルーツパークの高台から見るのがまたいい。韮崎市の新府城の桃は南アルプスの真っ白な残雪とのコントラストが見事で言葉を失う。

それに山梨の桃は本当に美味しい。9月の初旬に会社の同僚たちと現在の南アルプス市(旧芦安村)でデイキャンプをしたときに春日井町に住む女性社員が実家で作っている桃を持ってきてくれた。その日の朝採ったばかりのとても大きな桃で、水で洗ってかぶりついたら手ごろな硬さとそのみずみずしい甘さに驚いた。

桃は作るのにもとても手間がかかり、鳥や害虫にもとても弱い。そして熟してからは足が速くすぐに傷むため、高価なことが理解できる。

この日、家族を持つ男性社員たちは1個食べたら残りは家族に対するお土産として大事に貰って帰った。桃がとても美味しくて、皆、山梨の桃の素晴らしさに魅入られ、桃を家族に食べさせたくなったようである。このように、山梨の桃の甘さは人をとても優しくするようである。

桃の花と前後して桜が咲く。山梨にも有名なそして見事な桜が多い。

前任地が福島県会津若松市で、日本3大桜の一つ「三春の滝桜」や「会津五桜」をこよなく愛してきた者として、岐阜県根尾村の「薄墨桜」とともに日本3大桜の一つである武川村の「神代桜」を見ることを一番の楽しみとしていた。

北巨摩郡武川村高山地区の日蓮宗の古刹「実相寺」の境内にある神代桜は幹回りが13.5メートル(日本一である)、樹齢2000年の日本最古のエドヒガン桜で、樹木に対する天然記念物指定第1号である。現在では幹が朽ちて幹の部分は屋根で覆われているがそれから横に伸びたえ枝は支柱に支えられてはいるが見事な花を咲かせている。特に桜の時期、実相寺境内に咲く黄色い水仙の花とのコラボレーションは他では見ることができないすばらしい景観である。

この神代桜は山梨の各所にある日本武尊東征伝説のひとつとしてヤマトタケルノミコトが植えたと伝えられており、この木が枯れそうになったとき日蓮上人が祈祷したところ樹勢が回復したとも伝えられる。日蓮上人は山梨の南部身延町に日蓮宗の総本山として身延山久遠寺を創建するのだからつじつまは合うのだが・・。

ところが山梨の桜はそれだけではい。実相寺を後にして、少し山に入いった真原という地区に見事な桜並木があると聞き訪ねてみた。ソメイヨシノが道路の両脇に植えられ一直線に700メートルほどもあり、桜並木は見事な桜のトンネルとなっている。

ここの素晴らしさは桜の並木の長さもさることながら早春の雪を頂いた甲斐駒ケ岳を背景に咲き乱れる桜の見事さである。

次に訪れたのは小渕沢町松向地区のJR中央線沿いにある田んぼに中に一本だけぽつんと立つ「神田の大糸桜(オオイトザクラ)」である。神代桜、真原の桜並木を見て、そのついでに行った時には標高の高い小淵沢ではまだこの桜は咲いておらず、ゴールデンウイーク頃に再度行くことになった。

「大糸桜」は樹齢は約400年、幹周り約8m程もある。幹はまっすぐに伸びておらず太い幹が斜めに伸びそれから大きくて長い枝が縦横に伸びている。それぞれの枝が自らの力では支えきれないと見えて、数十本の太い柱で支えられている。花が咲くとそのピンクの枝垂桜の枝が地面まで伸びている。休みに行った時にはあまりの人の多さで桜をゆっくり愛でる状態ではなかったため、数日後、仕事に出る前に愛車を飛ばして訪ねてみた。甲府市荒川沿いにある社宅を朝4時半頃に出て、甲府昭和インターから中央高速に乗り、小淵沢インターでおり、5時半頃にはこの桜の前に立った。だれもいないかと思ったら同好の士数名が大きなカメラを構えていた。この日は天候を慎重に予測しただけに最高の日和であった。真っ白な雪を頂いた甲斐駒ケ岳と早朝の青空のスカイラインを背景に悠然とピンクの枝を広げる大イト桜が見事であった。その荘厳な光景の前でバナーでお湯を沸かし、コーヒーを入れて一人出社前の時間を楽しんだ。それでも中央高速長坂インターで高速に乗り車を飛ばして8時半に甲府市内の会社に何事もなかったように出社できるのだから山梨の単身赴任はたまらない。

この小淵沢神田の大糸桜はすぐ脇をJR中央線が走っており、車内からもよく見え、時期になると車内アナウンスが流れるといわれている。

また、夜になるとライトアップされて見事であるというが夜は訪ねたことがない。

しだれ桜はその他にも塩山市の中萩原にある慈雲寺、身延山久遠寺の枝垂桜も見事である。

山梨の桜を紹介していてはきりがないのであるが、あと二つは紹介しておきたい。

その一つは甲府市の昇仙峡の奥にある金桜神社の桜である。社殿には数多くの桜があるがその中でも「ウコンのサクラ」とよばれる1本の桜である。ゴールデンウイークごろにさきはじめる黄金色をした桜である。1度しか行ったことがないのだがグッドタイミングに行ったとみえて宮司さんから「今が咲き始めの一番いいときで、満開になると白い桜になる。」ときかされた。桜の花は本当に縁がないとめぐり合えないものであると実感させられた1本である。

最後に韮崎市の市内から釜無川を渡り武田八幡神社に向かう途中にある「わに塚の桜」である。

この桜はこの田園地帯のあぜ道に1本忽然と植わっている。八ヶ岳を遠望しながらまことに贅沢なロケーションである。

ここは日本武尊の王子の墓すなわち古墳であると伝えられているが、いずれにせよこの地を治めていた古代の豪族の墓であろう。この桜を見ると武田信玄などの武田一族の前の時代にもこの地を拠り所として富士山をそして甲斐駒ケ岳を朝に夕に見上げそしてあがめた先人達がいたことの証と思えてならない。

それにしても忽然と咲く「一本桜」は桜並木の桜と異なる素晴らしさ、感動がある。

山梨は山国、それゆえに低地と高山で桜の咲く時期が異なり長い間、桜を楽しむことができる。

 

山梨は、甲府盆地の標高が約約260m、河口湖が約700m、山中湖が約900m、清里は約1000m程のほどあり、同じ県内でも花の咲き始める時期が異なるため花の季節が長く楽しめるのが一番の特徴である。

その他、甲府市の不老園の「梅」、甘利山や乙女高原の「つつじ」、玉穂町の「レンゲ」、櫛形山の「アヤメ」、増穂町妙法寺の「アジサイ」、明野村のフラワーセンターの「ひまわり」、芦川村の「すずらん」、河口湖北岸大石の「ラベンダー」、山中湖村の「花の都公園」の花々など山梨の花の名所を楽しんでいただきたい。

 

藤村式校舎

平成11年9月末、私は前任地の会津若松市から転勤の引継ぎのために初めて甲府市を訪れ、その翌日の早朝に武田神社を訪ねた。これからお世話になる場所であり、それではまず土地の守り神のご挨拶をということで、宿泊していたワシントンホテルから地図を頼りに歩いて武田神社に出かけた。甲府駅北口を過ぎてからまっすぐに一直線に坂を登だけなのであるが山梨大学を過ぎてからかなり時間がかかったように思えた。

武田神社は武田信玄公がこの地を支配ていた時代、躑躅ヶ崎館が置かれていた場所に大正8年に創建されたのだという。そして武田信玄公の命日である4月12日には例大祭が行われるという。

ひととき武田家盛衰の歴史に浸り、境内を散策していると本殿左側奥の林の中に薄青いパステルカラーの2階建ての洋館が目を引いた。これは「甲府市藤村記念館」と呼ばれるもので、山梨県では「藤村式校舎」と呼ばれるものの一つであると案内に書いてあったが、早朝であり中に入ることはできなかった。そして正式に着任した日の午後、武田神社にお参りしてこれからの山梨での「生活の安全」と仕事が上手くいくよう「商売の繁盛」を祈願してお札を頂き、その帰りに「甲府市藤村記念館」を見学させていただいた。この日は快晴で神社の深い林の中に差し込む日差しが記念館のパステルカラーが際立って見えた。

この建物は明治8年、中巨摩郡敷島町亀沢(旧睦沢村)に睦沢学校校舎として建築され、昭和32年から5年間は睦沢公民館として使用されてきた。ところが老朽化により撤去寸前のところを同校舎保存委員会により昭和41年、現在地に移築復元され、現在では館内には大正から昭和初期に使われていた教材、寺子屋時代の文机、藤村紫朗の時計などが展示されている。

この建物は当時の県令(知事)藤村紫朗が勧奨して建築たことから藤村式と呼ばれる擬洋風建築である。擬洋風とは、外観は洋風に見えるのに、中は和風建築の技術を用いて建てられた和洋折衷の建物で明治時代の大工が洋風の建物を見よう見まねで作ったもので決して洋風ではないのである。

漆喰塗りの外壁、ベランダまたはバルコニー・両開きの窓・鎧戸式雨戸・屋根上の塔・ペンキ塗りの壁、そしてガラス窓などの特徴を持った手の込んだ建物である。この建物は昭和42年には国の重要文化財に指定されている。

屋根上の塔は太鼓楼と呼ばれる櫓(やぐら)で、昔は太鼓を叩いて授業の始まりや終わりを知らせたという。

この建物に出会ってから、県内の同じような建物を訪ねてみた。藤村式建物は県内に須玉町、増穂町、都留市にもある。

須玉町津金地区にある建物は「津金三代校舎」と呼ばれている三棟ある校舎の「明治校舎」で明治8年にできた「旧津金学校」である。

ここの建物は2階の手すりが青色で塗られており、バルコニーの上の屋根が他の建物と異なり唐破風の丸みを帯びたものである。

ここには明治校舎のほかに大正時代と昭和に建てられた校舎が並んで建っている。そこで三代校舎と言われている。大正校舎は外観はそのまま農業体験施設『大正館』として使われており、昭和校舎は建て替えられてイタリアンレストラン、パン工房、宿泊施設、ハーブ湯を備えた『おいしい学校』となっている。建替え前の昭和校舎は、東宝映画「学校の怪談2」のロケにも使われたといわれる。大正校舎には野口英世の銅像が建っているのにはびっくりした。さらに昭和校舎の前にはTDKが寄贈したバラ園がある。

この近くに石仏の寺として知られる海岸寺があるので、清里に来られたらぜひ訪れて欲しい場所である。

さらに増穂町にある「増穂町民俗資料館」は、「旧舂米(つきよね)学校校舎」として明治9年に完成したものである。建物は昭和49年まで役場として利用されたという。

建物の形式はほぼ武田神社にある「甲府市藤村記念館」とほぼ同じであるが最上部の塔が甲府市のものが四角形なのに対してこちらは六角形であり優雅な作りとなっている。

最後に都留市にあるリニアモーターカー実験センターそばにある「尾県(おがた)郷土資料館」は「旧尾県小学校」として明治10年(1877)に建てられたものである。

昭和48年に廃校となっていた校舎の復元工事が行われ、「尾県郷土資料館」として開館し昭和50年には県の文化財の指定を受けている。

ここは探して行った場所ではなくリニアモーター実験センターに行った帰り近道をしようとして迷い込んだところに突然表れたものである。

ここの特徴は2階のバルコニーが他の建物が4角形であるのに対して円形のバルコニーであるのが特徴的で優雅である。

もう一つ牧丘町にも藤村式の建物が残っていると聞いたが訪ねることはできなかった。

 

ところで藤村式校舎の名前の由来となっている藤村紫郎は肥後熊本藩に生まれ、明治6年(1873)〜明治20年(1887)の14年間、山梨県の県令(知事)をつとめた。

任期中に産業・土木・教育政策をおし進め、山梨の近代化に貢献した。藤村が押し進めた土木事業や学校の建設事業は当時の明治政府には地方の公共事業に対する補助金を出すだけの財源が十分になかったため、藤村の事業は地元町村費や寄付金に頼らざるを得なかった。その徴収方法が多少強引であったため、次第に藤村県令に対する不満や批判が出るようになり明治20年に愛媛県への転任命令に従って山梨を去ったといわれる。

 

身延町の「お葉つき銀杏」

山梨県の南部、富士川沿いにある身延町は日蓮宗の総本山身延山久遠寺があることで全国的に知られている。山梨に赴任して数週間たって最初に訪れたのがこの身延山久遠寺であった。参拝した帰りみちいたるところに「銀杏」の案内の看板があるのが気になった。

平成12年10月思い立って甲府市から身延町まで歩いて旅することを企てた(約40kmある)。このとき途中の鰍沢町が落語の名人三遊亭円歌の落語「鰍沢」(鰍沢町がこの落語の発祥の地であることは甲府勤番第1篇に紹介している)の舞台であり、この落語に出てくる「アジサイ寺」として知られる「小室山」が身延町の上澤寺の縁起となっている「白犬と毒消し銀杏」の伝承に出てくる寺の一つであることを知った。

そこでその銀杏の見頃の季節に身延町の銀杏を訪ねてみることにした。

まず甲府市を出て鰍沢町から国道52号線を富士川沿いに走り、南アルプスから川流れ下る早川が富士川と合流する新早川橋を渡って最初の信号機を過ぎたすぐ右側にある日蓮宗の「法喜山上澤寺(ほうきざんじょうたくじ)」である。

この境内右脇にある樹高37m、幹周6.8m樹齢推定700年といわれる大きな銀杏は「お葉付き銀杏(オハツキイチョウ)」と呼ばれるもので、葉の上に種子が出来る銀杏の変種で、1891年ここ上沢寺で始めて発見され、国の天然記念物に指定された。それにしても聞きしに勝る巨樹である。

さらにこの銀杏の木は枝がみな下に向って垂れさがっているところから昔から「逆さ銀杏」とも呼ばれている。

この「お葉付き銀杏」は別名「毒消し銀杏」と呼ばれているがこれにはこの寺の縁起と深い関係がある。

この上澤寺は日蓮聖人が初めて身延山へ入山せられた当時、真言宗の寺であった。又、鰍沢に真言宗の小室山があって僧恵朝が威勢を振っていた。小室山の恵朝は、日蓮聖人に法論を挑んだが敗れ、一応、聖人に降伏したが、内心では聖人を怨みひそかに亡き者にしようと考えていた。恵朝はあるとき上澤寺において、住職法喜と謀り、毒入りの萩餅を作って聖人にこれを献上した。聖人は何気なくそばに現れた白い犬にこの餅を与えた。白犬はこれを口にしたが直ちに青いものを吐いて、死んでしまった。恵朝と法喜の両名は、このありさまを見て、聖人の威徳と法華経の利生を悟り、自分の邪心を深く懺悔謝罪し、お許しを得て、改めて聖人の弟子に加えさせて頂き、恵朝は「日伝」の名を授けられ小室山の開祖となり、また法喜は「日受」の名を授けられ上澤寺の開祖となった。小室山妙法寺はアジサイ寺としても知られている。

そこで上澤寺の日受はこの死んだ白い犬が「法華経の行者たる日蓮聖人」を守護するために、諸天善神が白犬に化身して聖人の身代りとなったのであることを悟り、上澤寺の境内に懇ろに葬った。

また日蓮上人は白犬を哀れみ、使っていた銀杏の杖をその塚の上に墓標として挿すと、不思議にもその杖はいつしか根が生え、大樹となったという。

そこからこの銀杏の葉は消毒の秘妙符として尊とばれ、『毒消いちょう』とも称されている。更に不思議なことにこの銀杏の実が、すべて犬の牙の形をしている点でも不思議な銀杏の木であり昭和4年に天然記念物として指定された。

 

次に上澤寺から数百メートルほど身延方面に進んだところにある身延北小学校の裏にある本国寺の山門左脇にある大きな巨木で幹周り5.3m、樹高25m、樹齢700年と伝えられる、ここの銀杏も葉の上に種子が出来るいわゆるお葉つき銀杏で国の天然記念物に指定されている。ここの木はとても勢いがよい銀杏の木である。

その他、身延町には多くの銀杏木があるがもう一本、身延町上八木沢の「お葉つき銀杏」である。JR身延線の波高島駅から富士川沿いに歩いて5分ほどの場所にある。上澤寺や本国寺などとは富士川の対岸の位置関係になる。

ここの銀杏は幹周3.0m、樹高25m、樹齢約200年と他の2本から比べると見劣りする。この銀杏は特に有名な銀杏で海外に知られており、上澤寺の銀杏よある意味有名である。というのはこの銀杏は大変珍しい雄のお葉つき銀杏で、明治29年4月17日、東京帝国大学の遺伝学者藤井健次郎博士により発見され、広く欧米の植物学会に紹介された木で昭和15年7月に国指定の天然記念物として指定された。

山梨県の身延の富士川流域にお葉つき銀杏が集中している原因として、この木の花粉が富士川を渡り、対岸の上澤寺や本国寺等の銀杏と受精し、お葉つき銀杏として成長させているのではないだろうかとも言われており、この木が身延町におけるお葉つき銀杏の存在に多大な影響を与えているのではないかと考えられている。

それにしても全国で7本しかないと言われる国の天然記念物のお葉つき銀杏の内3本が身延町にあるというのだから驚きである。そのほかにも身延町には多くの立派な銀杏があるが、さすが日蓮上人が霊場と定めるだけ地霊があるように思えてならないならない。

 

中央高速道路釈迦堂パーキングエリア(釈迦堂遺跡群

中央高速道路を首都圏方面から甲府盆地に入り、まず勝沼インターを過ぎると、甲府盆地を一望できる釈迦堂パーキングエリアがある。4月上旬には、眼下の甲府盆地に桃畑が一面絨毯のように広がり、桃源郷の気分を満喫できる。

山梨に住んでいた当時このPAを使ったことはなく、山梨を離れて年に数回を訪ねるようになってこのPAの素晴らしさを発見した場所である。

それはここの景色の素晴らしさではなくこのパーキングエリアの地下にある遺跡である。実はこの釈迦堂パーキングエリアの下にはわが国最大規模の縄文時代を代表する釈迦堂遺跡がある場所なのである。

釈迦堂遺跡群は昭和55年2月8日から翌56年11月15日まで、中央自動車道建設に先立って、発掘調査された。その結果先土器時代、縄文時代、古墳時代、奈良時代、平安時代の住居や墓、及び多量の土器、石器などが発見された。

特に縄文時代のものは豊富で、1,116個体の土偶が出土している。これは全国のほぼ1割を占める数である。このうち前期(6,100〜4,800年前)のものが7体、後期(3,800年前)のものが1体、他はすべて中期(4,800〜4,050年前)の物である。釈迦堂辺りでは、約2500年前に255軒の竪穴住居跡があったという。発掘時の写真を見ると住居が密集しており、その集落の規模の大きさに驚かされる。

この中央高速道路「釈迦堂下り線PA」から北側へ石段を登っていくと、2分程で「釈迦堂遺跡博物館」に入ることができる。このパーキングエリアの辺りは勝沼町と一宮町が複雑に入り組んだ境界をしており場所で勝沼町と一宮両町は共同で「釈迦堂遺跡博物館組合」を作ったもので、博物館の脇には庭園が造られ、裏手には縄文時代の復元住宅も建てられている。

館内に入って驚かされることはその遺跡の規模の大きさとともに縄文人が土、石、骨、魚、貝などを使って作った土器、狩猟具の弓矢、土掘り道具の打製石斧、伐採加工具の磨製石斧など精緻さには驚かされる。更に土器のデザインの美しさは言葉を失うほどである。

そして何より土偶の多さと表情の豊かさにびっくりさせられる。国内に出土した土偶の一割がここから出たといわれる。どれも丸い顔に丸い口、そして丸い目まるで小さな子供のように見えてくる。よく見るとお母さんお顔であったり、太い眉が垂れ下がった翁だったり、兜をかぶった兵士であったりする。

そのお顔を見ただけで何故か心が洗われ、優しくなれるような気がする。甲府勤番風流日誌第1巻「木喰上人」で紹介している下部町にある「木喰の里微笑館」を訪れて、木喰上人が自らを彫ったとされる仏像がまん丸の顔に太い丸い眉毛、細い垂れ下がった目の、微笑み念仏の仏像の像を見たときと同じ気持ちになった。

甲斐国の先人たちは豊かなこの土地で豊かな自然とともに、豊かな笑顔にあふれた心豊かな生活を送っていたことが想像される。

この場所からは富士山は背後にある御坂の山越で見えないが、正面には金峰山に瑞牆山、そして、南アルプス、鳳凰三山、甲斐駒ケ岳、八ヶ岳など甲斐の山々を見ることができる。古代の人々もこれらの山々を見ながら四季の移り変わりの中で生きたのだと思うと何故か嬉しくなる。

この「釈迦堂遺跡博物館」は桃の季節やぶどう狩りやワイナリー巡り等で山梨に来たらぜひ訪ねていただきたい場所のひとつである。中央高速道路のパーキングエリアからは下り線でしか利用できないが、国道20号線勝沼町下岩崎の交差点を山側に5分も走るとそこにある。

勝沼町岩崎地区は山梨名物のぶどう園やワイナリーの多いところでありは、山梨を観光で訪れたら殆どの方がこの遺跡の近くまで来ているのである。

ぜひブドウや桃、そしてワインをお土産として買ったあとは、ここを訪れて先人たちの微笑みに巡り合い、豊かな気持ちになって山梨の思い出として欲しい。

 

甲府勤番風流日誌第三巻は転勤族が見た「山梨の名物」を紹介した。    第11代甲府勤番 HOMER

2004.5.15日掲載

HOMER’S玉手箱 麹町ウぉーカー(麹町遊歩人) 会津見て歩記 甲府勤番風流日誌 伊奈町見聞記 鹿児島県坊津町