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清里の恩人

現在では軽井沢と並び称せられる観光地清里はポール・ラッシュ博士という一人のアメリカ人を語らずして話を進めることはできない。ポール・ラッシュの像

大正12年(1923年)関東大震災で崩壊した東京と、横浜のYMCAを再建する目的で来日したポール・ラッシュ氏は再建が終わった大正15年から立教大学商学部において教鞭をとることになった。

そして昭和9年国内の大学に初めてアメリカンフットボールを紹介し、東京学生米式蹴玉連盟の初代理事長に就任している。昭和13年に日本聖徒アンデレ同胞会の指導者キャンプ場として清泉寮を建設する。太平洋戦争の勃発により昭和17年に横浜港から浅間丸により強制送還される。

そして終戦とともに昭和20年9月マッカーサー司令部のスタッフ(陸軍中佐)として来日し、司令部勤務中に清里農村センター構想を策定し、昭和23年にセンター構想の拠点となる清里聖アンデル教会を建設する。昭和24年から高冷地実験農場を開設する。

25年には僻地の農村保健の為の診療所を開設し、翌26年には地域住民の教養娯楽のための清里聖ヨハネ農村図書館を開設、それに続いて大型トラクターや寒冷地に強いジャージー種乳牛の導入を図り、現在の清里の基礎を作ったのである。

昭和31年に日本聖徒アンデル同胞会より農村センターを分離して文部省認可の財団法人キープ協会として独立して活動をはじめる。その目的は「キリスト教の精神に基づき、「食糧」、「保健」、「青年への希望」を三大目標として、その改善、育成に資するためそれに必要な施設を設置運営するとともに、指導、訓練の活動を行い、もって奉仕の涵養を通じて、社会文化の向上と世界平和に記することを目的とする。」とある。

清里はポール・ラッシュ博士が日本人が不毛の地としてきた山間高冷地に、日本人の生きる術として酪農や高原野菜を紹介し、アメリカ人の持つフロンティア精神を実践したことによりより形づくられたといっていいのである。この地の最大の恩人である。

清里駅前の賑わいは東京の原宿と変るところがないが、そこから少し山に入った牧場がキープ協会の運営する牧場でありアイスクリームで有名な清泉寮である。

清泉寮の前の牧場から八ヶ岳を見上げると後ろの山々が屏風のようにそびえ立ち、その大きさを実感させられる。日本にいることを忘れさせてくれる場所である。

このアイスクリームはその舌ざわりの滑らかさは他のどれとも違う繊細なものである。ジャージー種の牛乳によるこの味わいとのこくは他で経験したことのない感激である。

清泉寮の奥にポール・ラッシュ記念センターがありアメリカンフットボール記念館がある。それは博士がそれを日本に紹介したからである。また東京の築地にある聖路加病院の設立者でもある。

それ以外のことについては観光案内に詳しいのであえて書く必要もあるまい。ただ一つ、清里の地名の由来について聞いた話を紹介する。

この村は明治の初め二つの村が合併して大門村となる予定だったらしい。ところが区長が申請にあったってどういう経緯かは明らかではないが、清里村として申請したという。その昔この地には清次という男が住んで、開拓し大いに繁栄したという。この伝承にちなんで「清次の里」から清里になったという。

山の中の「海岸寺」

清里に向かう途中に「海岸寺」という標識がある。「何故この山の中に「海岸」なる寺があるのか。」これが私がこの寺を訪れた動機であった。

明治・大正・昭和三代の校舎で有名な津金の桑原地区にある臨済宗のお寺で観音堂は江戸時代の名工、立川和四郎の建物とされる。この寺に並んでいる百体観音は高遠の石仏師守屋貞治が刻んだものといわれ、これを目当てに多くの人が訪れている。山奥ではあるが清里からの帰りに立ち寄る価値はある場所である。海岸寺西国33観音

ちなみに最初の疑問であるが、この寺から見る雲海の光景がまるで海岸のように見えるということらしい。それではあまりに情緒的すぎ、私には別の思いがあった。

清里から国道141号線の峠を越えると、そこは南佐久郡南牧村に入る。千曲川上流の南牧町役場のあたりは「海ノ口」といい、少し進むとJR小海線の「海尻」という駅があり、さらに進むと「小海町」を通り佐久市に至る。

1992年に家族でキャンプのために隣の川上村を訪ねた帰りにここを通り、「このような山の中になぜ海の地名が多くあるのか?」と疑問をもち帰ってからここの町役場に電話をかけて聞いたことがあった。電話で答えてくれた方が良くぞ聞いてくれたといわんばかりに「昔、大地震があり大地が裂けて、日本海側に住んでいた人々が流されてきてここに住み着いたという伝説がある。その裂け目が千曲川であり、帰れなくなった人たちが海を懐かしんで海にちなむ地名をつけた。」というのである。この話を子供達にしたら楽しそうにうなずいたのを覚えている。

この話の延長として清里と隣接している須玉町の山奥が「海岸」というのは辻褄が合うと思うのだがいかがなものだろうか。

海岸寺の写真は2004年1月1日アップ

ここを訪れたことは後に面白い展開となった。

私の勤める会社は土曜日も休日も業務を行っているため、休日のみのパート社員を雇っている。単身赴任の私にとって埼玉の自宅に帰らない土日は仕事でもない限り、ほとんど山や街中を歩き回っていた。ついでに会社に立ち寄るときはほとんどトレッキングシューズにリュックを背負った格好で、訪ねた先のお土産を持って現れていた(休日のスタッフは私の背広姿は仮の姿で、リュック姿が本来の姿であるといっている。これが実にうれしい!)。

あるときHさんという休日スタッフに海岸寺に行ったこと、そしてその由来について私なりの解釈を話してあげたところ、「実は私の祖先はそこの海ノ口の出なんです。信玄に滅ぼされた城主の末裔です。」という話になった。これを聞いた瞬間にピンとくるものがあった。武田信玄公の初陣は佐久の海の口城を攻めて城主平賀源心(元信という説もある。)を討ったとある。この初陣については諸説あって真偽の程は疑わしいとされているが、この末裔であるというのである。自分達の故郷に海の地名が多いのは知っていた。ただそれが私が話したような伝説によるものだとはまったく知らなかったというのである。


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