戻る  甲府勤番風流日誌(第三巻)(山梨の名物編)

藤村式校舎

平成11年9月末、私は前任地の会津若松市から転勤の引継ぎのために初めて甲府市を訪れ、その翌日の早朝に武田神社を武田神社の藤村式校舎訪ねた。これからお世話になる場所であり、それではまず土地の守り神のご挨拶をということで、宿泊していたワシントンホテルから地図を頼りに歩いて武田神社に出かけた。甲府駅北口を過ぎてからまっすぐに一直線に坂を登だけなのであるが山梨大学を過ぎてからかなり時間がかかったように思えた。

武田神社は武田信玄公がこの地を支配ていた時代、躑躅ヶ崎館が置かれていた場所に大正8年に創建されたのだという。そして武田信玄公の命日である4月12日には例大祭が行われるという。

ひととき武田家盛衰の歴史に浸り、境内を散策していると本殿左側奥の林の中に薄青いパステルカラーの2階建ての洋館が目を引いた。これは「甲府市藤村記念館」と呼ばれるもので、山梨県では「藤村式校舎」と呼ばれるものの一つであると案内に書いてあったが、早朝であり中に入ることはできなかった。そして正式に着任した日の午後、武田神社にお参りしてこれからの山梨での「生活の安全」と仕事が上手くいくよう「商売の繁盛」を祈願してお札を頂き、その帰りに「甲府市藤村記念館」を見学させていただいた。この日は快晴で神社の深い林の中に差し込む日差しが記念館のパステルカラーが際立って見えた。

この建物は明治8年、中巨摩郡敷島町亀沢(旧睦沢村)に睦沢学校校舎として建築され、昭和32年から5年間は睦沢公民館として使用されてきた。ところが老朽化により撤去寸前のところを同校舎保存委員会により昭和41年、現在地に移築復元され、現在では館内には大正から昭和初期に使われていた教材、寺子屋時代の文机、藤村紫朗の時計などが展示されている。

この建物は当時の県令(知事)藤村紫朗が勧奨して建築たことから藤村式と呼ばれる擬洋風建築である。擬洋風とは、外観は洋風に見えるのに、中は和風建築の技術を用いて建てられた和洋折衷の建物で明治時代の大工が洋風の建物を見よう見まねで作ったもので決して洋風ではないのである。

漆喰塗りの外壁、ベランダまたはバルコニー・両開きの窓・鎧戸式雨戸・屋根上の塔・ペンキ塗りの壁、そしてガラス窓などの特徴を持った手の込んだ建物である。この建物は昭和42年には国の重要文化財に指定されている。

屋根上の塔は太鼓楼と呼ばれる櫓(やぐら)で、昔は太鼓を叩いて授業の始まりや終わりを知らせたという。

この建物に出会ってから、県内の同じような建物を訪ねてみた。藤村式建物は県内に須玉町、増穂町、都留市にもある。

須玉町津金地区にある建物は「津金三代校舎」と呼ばれている三棟ある校津金 三代校舎舎の「明治校舎」で明治8年にできた「旧津金学校」である。

ここの建物は2階の手すりが青色で塗られており、バルコニーの上の屋根が他の建物と異なり唐破風の丸みを帯びたものである。

ここには明治校舎のほかに大正時代と昭和に建てられた校舎が並んで建っている。そこで三代校舎と言われている。大正校舎は外観はそのまま農業体験施設『大正館』として使われており、昭和校舎は建て替えられてイタリアンレストラン、パン工房、宿泊施設、ハーブ湯を備えた『おいしい学校』となっている。建替え前の昭和校舎は、東宝映画「学校の怪談2」のロケにも使われたといわれる。大正校舎には野口英世の銅像が建っているのにはびっくりした。さらに昭和校舎の前にはTDKが寄贈したバラ園がある。

この近くに石仏の寺として知られる海岸寺があるので、清里に来られたらぜひ訪れて欲しい場所である。

さらに増穂町にある「増穂町民俗資料館」は、「旧舂米(つきよね)学校校舎」として明治9年に完成したものである。建物は昭和49年まで役場として利用されたという。

建物の形式はほぼ武田神社にある「甲府市藤村記念館」とほぼ同じであるが最上部の塔が甲府市のものが四角形なのに対してこちらは六角形であり優雅な作りとなっている。

最後に都留市にあるリニアモーターカー実験センターそばにある「尾県(おがた)郷土資料館」は「旧尾県小学校」として明治10年(1877)に建てられたものである。

昭和48年に廃校となっていた校舎の復元工事が行われ、「尾県郷土資料館」として開館し昭和50年には県の文化財の指定を受けている。

ここは探して行った場所ではなくリニアモーター実験センターに行った帰り近道をしようとして迷い込んだところに突然表れたものである。

ここの特徴は2階のバルコニーが他の建物が4角形であるのに対して円形のバルコニーであるのが特徴的で優雅である。

もう一つ牧丘町にも藤村式の建物が残っていると聞いたが訪ねることはできなかった。

 

ところで藤村式校舎の名前の由来となっている藤村紫郎は肥後熊本藩に生まれ、明治6年(1873)〜明治20年(1887)の14年間、山梨県の県令(知事)をつとめた。

任期中に産業・土木・教育政策をおし進め、山梨の近代化に貢献した。藤村が押し進めた土木事業や学校の建設事業は当時の明治政府には地方の公共事業に対する補助金を出すだけの財源が十分になかったため、藤村の事業は地元町村費や寄付金に頼らざるを得なかった。その徴収方法が多少強引であったため、次第に藤村県令に対する不満や批判が出るようになり明治20年に愛媛県への転任命令に従って山梨を去ったといわれる。

2004.5.15掲載

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