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会津見て歩記Photo版
(2003年夏会津レポート)
8月2日3日

82

515分埼玉の自宅を出て、8時半ほどに裏磐梯桧原湖西岸細野のママキャンプ場に着いた。早速、管理人さんに挨拶して、鹿児島から今回の会津訪問用に取り寄せた漬物のお土産を渡し、お茶を頂き、キャンプサイトに出て裏磐梯一の景観を楽しんだ。

このキャンプ場は今流行りのオートキャンプ場ではなく昭和20年に出来た、トイレも水洗でなく、水場も一つだけの桧原湖畔の静かな自然しかない、昔ながらのキャンプ場である。自然の中でゆったりとした自分らしい時間を過ごすことに目覚めた、上級のキャンパーにはうってつけの場所である。ここを開いたヤエばあちゃんと現在の管理人である娘さんの細やかな気配りと人情が一度訪れたキャンパーがリピーターとなって世代を超えて利用している。この日も「子供のころ親に連れられてきたけど今度は自分が親になって子供を連れてやってきた。」というキャンパーがおられた。

事務所の中には皇太子殿下ご夫妻が裏磐梯を訪問された時に管理人さんが撮ったショットや、「亜麻色の髪の乙女」がヒットした島谷ひとみさんが、ここでシャンプーのコマーシャルを撮影したとき様子を撮ったプライベートショットが数多くあった。このキャンプ場は多くのコマーシャル、テレビ番組等で使われている。一昨年のJRフルムーンのコマーシャル写真は磐梯山を背景に朝の桧原湖にボートで漕ぎ出す夫婦の様子が写された素晴らしい写真であったがそれもここで撮られた写真である。

広々した桧原湖畔の美しいキャンプサイトには紫色のミソハギの花が咲いていた。

キャンプ場を後にしてこのキャンプ場のオーナーであるヤエばあちゃんの自宅を訪ねる。お孫さんの経営する「オートキャンプフリー」に車を入れると私たちのことに気づき出てきて、隣にある自宅に招いてくれた。

久しぶりの再会を喜び、仏壇に焼香させていただき、この日はご主人が亡くなった時のことを涙ながらに話してくれた。さらにおばあちゃんが上杉米沢藩士の流れをくむことなど、興味ある話を聞かせていただいた。

1時間程があっという間に過ぎてしまった。

ママキャンプ場を出て、喜多方方面に向かうと「道の駅」があり、峠を越えるとプールやスライダー等も備えた「ラビスパ」という温泉設備が見えてくる。ここはもともと牧場だった場所であるが、一面に桜の木が植えられていた。2001年に皇太子ご夫妻に愛子様が誕生したのを記念して2001本の桜の木が植えられたのだという。

スキーの合宿でいつもお世話になった大塩温泉「大観」の脇を通り途中から抜け道を使って眼下に喜多方や塩川など盆地の中の町を見ながら会津若松に向かった。

11時ごろに第一目標の会津若松市の会津大学短期大学部の正門の前にある「ベーカリーコビヤマ」に着いた。

ここはご主人が亡くなったあと奥様がその味を守るために一人でパン屋さんを引き継いでこられたものであるが、昨年来た時よりかなりパンの種類が増えていることに驚いた。努力家で、研究熱心な奥様で、また何よりリーズナブルなうえに美味しく、やさしい人柄から評判を呼んでおり、この日もクーラーボックスを持って買にきた家族連れが数組おられた。

久しぶりの再会を喜び、奥様が頑張ってパンの種類が増えたことに敬意を表しながら、新しいパンの話を聞き、息子さんが東京のパン屋さんに修行に行っていることなど楽しい一時を過ごしてきた。そして私たちはこの店の全部の種類のパンを持て帰れないことを残念に思いつつ彼女の作った美味しいパンを選ぶ喜びを楽しんだ。そして私達が選んだパンに加えて何種類か奥様の作った拘りのパンと共にドライトマトなどを頂き、再会を約して「ベーカリーコビヤマ」を後にした。

 

次に白虎隊の墓のある飯盛山のセブン・イレブンのそばにある「オークビレッジ」というお洒落な雑貨屋さんに立ち寄る。この店は本来家具屋なのであるが今では奥様の食器やホーロー等の小物がメインになっている。ご主人は「俺は店の裏で商売している」と笑いながら話しておられた。

店内に大人の嗜好に耐えるイマンのホーロー・陶器・ファブリックなどお洒落な小物が所狭しと並べられている。妻の会津訪問の目的の一つであった。

とはいえここのオーナーご夫婦は我々が会津に住んでいたとき東山スキースポーツ少年団というスキーレーシングチームのメンバーでシーズン中は土日といわず殆ど毎日顔を会わせ、子供達のレースの練習や試合を支え、そして競技スキーを楽しんだ間柄である。従って、普通の客ではないわけで店の奥のスタッフルームでコーヒーを頂きながらの会話となる。

久しぶりの再会も何の違和感もなく、スキーチームのもう一人のメンバーも訪ねてきてお互いの近況や子供達の成長など、あっという間に楽しい時間が過ぎた。

私のホームページに2003年の猫魔スキー合宿の際私が撮った集合写真を掲載しているが、今年のスポ少の団員募集にはこの写真を利用してポスターを作り、市内の小学校に配り公共施設に掲示しているという話があった。

このスキーチームとの出会いは我家にとって最も重要な出会いになったことは事実である。会津にさりげなく来れるのはこのメンバーがいるからといっていい。そして会津を離れても毎年のように最初の合宿だけには参加させてもらい、急斜面に立てられたポールに自分の勇気と限界にチャレンジする為に飛び出していく競技スキーに取り組む子供達と一緒に過ごすのを楽しみにしている。

つぎに蕎麦で有名な「徳一」の近くある妻の友人(子供達の同級生の)の家に向かう。

友人達とそこで落ち合うことになっていた。

私はここで妻と別れ、磐梯町を目指した。「いにしえ夢街道」という名前の付けられた飯盛通りを通り観光客で賑わう、白虎隊の墓のある飯盛山の前を過ぎ、会津五桜の筆頭「石部桜」脇を過ぎた辺りから右折して裏道を抜けて磐梯河東ICに出た。ICから少し進むと恵日寺に入る小道を左折して滝夜叉姫の墓に向かった。

ここはこの正面の山中に湧く日本百名水の一つ「龍が沢湧水」を汲みに行った帰りに見つけた場所で、そのときの様子を「会津見て歩記」に以下のように書いている。

この湧水を初めて訪れたその日、車で家路についた私が、恵日寺の前の道を左折して国道に出るところを右折した。何故か400メートル程先の森が気になったのである。まるで吸い込まれるように薄暗い森の中に車を進めた。森に入りすぐ、車の左側にあった小さな石が気になり車を止めてその場所までバックした。車を降りてライトの明かりを頼りにその石を見ると小さな墓であった。その傍らには「如蔵尼の墓」と書いてあった。如蔵尼とは平将門の三女「滝夜叉姫」である。平将門については知っていたがその娘については知らなかったので、図書館で調べてみると、父将門が乱を起こして敗れた後に日立の国に引きこもり妖術を使って抵抗したとあった。「今昔物語」の中には彼女が若い頃美しかったと書かれている。まるでギリシャ神話のコルキスに黄金の羊の毛皮を取りに行く「アルゴ船の物語」に出てくる妖女メディアのような女性なのである。(後に歌川国芳の「相馬の古内裏」という浮世絵に大きな骸骨を操る滝夜叉姫が描かれていることを知った)

久しぶりに訪れた彼女の墓は鬱蒼とした杉木立の中であるが夏の明るい日差しが差し込んで明るく輝いていた。

「お久しぶりです。帰ってきました。」と声を出して挨拶をし、写真を取らせて頂いた。

滝夜叉姫のことを私は「彼女」と呼んでいるが、この会津にもう一人気にかかる女性がいる。それはこの磐梯町の隣の河東町に眠る「皆鶴姫」である。こちらは源義経を追ってきてこの地で亡くなったと伝えられる薄幸の姫君の物語であるが、こちらは「会津見て歩記(磐梯町・河東町)」でお楽しみいただきたい。

ここを後にして恵日寺資料館に行き写真を撮り、その近くにある会津仏教の開祖とも言うべき「徳一上人」の墓を詣でた。

資料館には日本100名水の一つ瀧が沢湧水が引かれているため、取水口には多くの人が訪れていた。今回は館内には入らなかったが、1200年といわれる会津仏教の歴史が詳しく紹介されており、会津の歴史に浸り、静かな時間を過ごすには最適の場所である。

庭の周りにはアジサイが咲き、池にはハスの花が咲き乱れていた。

徳一上人のお墓は磐梯神社跡の遺構脇の杉木立を抜けた集落の墓地の奥にある。以前は墓が放置されて荒れていたらしいが、今では組みなおされ廟に収められている。磐梯山の深い緑と青空を背景に廟が浮き上がるように見える不思議な空間である。

徳一廟を出てこの奥にある龍が沢湧水に向かう。新しい磐梯神社の前を通り、数分で猪苗代町と河東を結ぶ林道に出る。それを左折すると5分ほどで駐車スペースのある場所に出る。

杉木立の中を1分も歩くと龍が沢湧水がある。大きな岩の間からこんこんと清水が湧き出し、岩の前が小さな池になっている。清水の湧き出る岩の間に竹の樋が差し込まれて水を誘導し水を汲みやすいようにしてある。

水の湧き出る岩の上には祠があり、碑がある。さらに池の右脇に漢文で書かれた碑がある。どうも空海がここで雨乞いをしたというようなことが書かれている。

この清水に一礼をした後、置いてある柄杓で水を汲み口をすすいだ後、一口頂いた。体に染み入るような水の美味しさが体中に広がって嬉しくなった。

そして持ってきた10Lのポリタンクに水を汲み、お昼用に会津若松市の「ベーカリーコビヤマ」で買ってきたパンを洗い清めた池の脇の岩に置き、今度は近くにあった蕗の葉を採ってきて、それを柄杓にして水をすくい、美味しいパンを頂いた。湧き出る岩清水の音だけが聞こえる静かな一時を楽しむことが出来た。

そして20メートルほど上の林道までポリタンクを持ち上げる段になって現実に戻された。キャンプ用のポリタンクに入ったたかが10Lの水であるがこれがかなり重たい。私はこの数ヶ月で10キロほど減量したがこれほどの重いものを体に付けていたのかと今更ながら実感した。

林道を下り再度徳一の墓のあった場所に戻り、仁王門や本堂、それに源平合戦のおりに恵日寺の僧兵を率いて平家方について挙兵し木曽義仲と戦うも敗れ、恵日寺に衰運をまねくことになった衆徒頭の乗丹坊の墓を訪ねて猪苗代湖に向かった。        

5分も走ると国道49号線に出でる。それを左折して10分も走ると猪苗代湖である。

猪苗代湖の直前に埼玉県朝霞市施設がある。それを過ぎるとすぐに銀橋を渡る。これが猪苗代湖の水が自然に外へ出る唯一の「日橋川」である。橋を渡ってすぐに左折すると突き当たりが「十六橋」である。この橋は弘法大師が16の塚と西岸の材木岩からとった石で作ったところから「十六橋」という名前がついたという。

ここは戊辰戦争の激戦地でありこの橋が石でできていたためこれを守る会津兵は橋を落とすのに手間取り、西軍の侵攻を阻止できなかった。白虎隊もこの少し西側で西軍と戦い、隊長とはぐれて飯盛山に敗走した。飯盛山の白虎隊記念館に行くとこの激戦の様子の絵がある。そこには弾を受けながらこの川を泳いでわたる薩摩藩士(後の陸軍大将)大岩巌が描かれている。

猪苗代湖から唯一自然に水の出る日橋川を堰き止めることにより、安積疎水ができ郡山の灌漑が整備され、郡山の原野の開拓が進んだ。その建設の功労者フランドール先生の銅像が立っている。その脇に建つ水門の管理事務所が優雅である。

十六橋を出て国道49号線を会津若松方面に直進すると最初の信号機のある場所が強清水と呼ばれる場所である。右が河東ゴルフクラブという名門コースである。

信号機を左折したところに蕎麦屋があるがその奥にある清水は「親は諸白、子は清水」と歌われる場所であるといわれる。

この物語は「寛喜3年木こりの与曽一、与曽二という親子がいた。父は大変まじめであったが息子は大酒を飲み、あげくに追いはぎまでしていた。息子の悪さ三昧で米も買えない有様だったが、与曽一なぜか仕事の帰りには、酒に酔って帰ってきた。不思議に思った与曽二が後をつけると岩から湧き出る水を飲んで酔った振りをしていた。与曽二は清水を酒にたとえて飲む父親の姿に親不孝を悔やみ以後、親孝行に勤めたという。これがこの清水である。」という物語である。

この清水はどんな旱魃でも水かがれることはなく、この清水で戻したニシンとスルメの天ぷらは名物である。さらにここの蕎麦は手打ちではないがなかなか美味しい。

ニシン、するめ、饅頭のてんぷらを注文した後清水に行き水を一口頂いた。

そして店に戻り、揚げたてのてんぷらを美味しく頂き、次に訪問する先へのお土産用に注文しておいた「饅頭のてんぷら」を手にして会津若松に向かった。

国道49号線はこれから会津若松市までひたすら下りになる。会津若松を高速道路を使って郡山方面から訪れるときには会津若松のインターで降りることが多いと思うが、どちらかというと一つ前の磐梯河東インターで降りたほうが便利である。途中で大きな白い観音さまの会津村が見えてくる。会津に入る際の大きなシンボルである。

そして高速道路をくぐったところで右側に大きな恐竜が見えてくる(これが見えると会津若松市に入った証拠でありその先のスバルの交差点を左折すると鶴ヶ城や飯盛山に向かうことが出来る。)。ここは福島県でも指折りのまた会津では一番大きな中古車ディーラー「ホクシンオート」である。会津若松支店勤務時代に一番大きな取引先であった。

久しぶりに挨拶に入ると店長さんや従業員の皆さんが迎えてくれた。以前とは会社の建物が大きく明るい店舗になっていた。

社長は外出中であったが私が久しぶりにきたということで社員が電話を入れてくれすぐに帰ってくるということであった。

一時して社長の鈴木氏が以前と変わらない笑顔で戻ってこられた。

鈴木氏は国内ではこれほど大きな中古車ディーラーとして成功を収めておられるが、フィ入りピンオロンガポシティー(以前スービック米海軍基地のあった場所)にリゾートホテルを経営しておられる。

鈴木氏が世界中を旅行して一番気に入ったオロンガポに自分で土地の買収から建設までしたものでプライベートビーチを持つ小さなホテルである。日本人による運営であり清潔なホテルとして人気がある。

我家は会津にいる1998年にフィリピンに行きこのリゾートホテルで楽しみ、家族ぐるみでお世話になった。

一度訪れたオロンガポでの1週間は我家にとって貴重な体験となった。そして私たちのフィリピンという国とフィリピンの人々に対する見方が180度変わった。

鈴木氏よりオロンガポのホテルの紹介にスービックを紹介するレポートを載せたいので書いてほしい依頼があり、光栄なことであり快諾する。

1998年のフィリッピンレポートは鈴木社長のお許しが出たので近日中にホームページそのときの様子をアップさせていただく。

殆ど日本とフィ入りピンを行き来されてなかなか会えない方なのにお互い必要とするときにめぐり合えたことは何かの縁なのであろう。本来の仕事を離れた付き合いでプライベートなレポートの作成の依頼は大事にしたいと思いつつホクシンオートを後にした。

下はホームページに紹介されているスズキビーチホテルの案内である。

海外リゾートホテル「SUZUKI BEACH HOTEL INC.」は南の島 オロンガポ市の静かな海に面したところに1996年に完成いたしました。格安で社員ご旅行等に最適かと存じます。
 当地は、通称名スービック、近くに今世紀最大の噴火といわれる有名なピナツボ火山があり、セスナ機で上空から一周観光ができます。また近くにゴルフ場があり、海ではフィッシング・ダイビング・海水浴もできます。治安においても、南国特有の情緒豊かな住民のなごやかさが、あたたかく歓迎してくれます。
 遊ぶことにはことかかないアメリカンライフスタイルの休日を過ごすことができるかと思います。

 

SUZUKI BEACH HOTEL INC.
No.1 Samar Street Barretto
  Olongapo City,Philippines

国内からダイレクト:47-223-4155
JAPAN
ダイレクト :001-63-47-223-4155
お電話頂けれエアポートまでお迎えにまいります。
日本でのお問い合せ先
株式会社 ホクシンオート
965 福島県会津若松市一箕町大字鶴賀字下居合31-1
0242-25-3189()

 

会津若松市東山小学校の近くで妻と合流し、小学校の体育館を通る時に長男が会津若松市の陸上競技大会の走り高跳びで優勝したときのプレートが掛かっているかなと確認しながら走り抜けた。これから会津高田町を目指すことになる。

会津若松市の南、門田地区を過ぎて、会津ドームや体育館がある地区を過ぎた会津鉄道の線路と交差する辺りが一ノ堰地区である。ここで左折して「六地蔵」を訪ねる。

「六地蔵尊」は2メートルほどの高さがあり、祠の中に収められているが誰でも自由に入って参拝できる。六体の木製の地藏尊は会津の厳しい風土の中で庶民に信仰されてきた為か、黒光りする中にどの顔もやさしく微笑んでいる。いつも季節の供え物が供えられ、薄暗い中に蝋燭の明かりが厳かな気持ちにさせてくれる。あまり知られてはいないが会津の文化に触れるには静かでいい場所である。

会津の名物で「棒たら煮」というのがあるが会津に数ある棒たらの中でもこの六地蔵の前の「梅屋」のおばあちゃんの作るものが最高の味である。水で戻された硬い棒たらが、秘伝の味付けとばあちゃんの拘りでじっくり時間をかけまきで煮こまれる。少し甘めの口の中でとろける絶妙の味である。怪我をした妻の父に贈ったところ、これで食欲が出て元気になったといっていた。秘伝の味はこのばあちゃんがなくなると作る者がいなくなると嘆いておられた。

今回も買おうと思ったが店が閉まっており、今でもやっておられるのか確認が出来なかった。残念である。

六地蔵を出て会津高田町の「岩国一の社 会津総鎮守伊佐須美神社」を詣でた。ここは古(いにしえ)からの深い木々に囲まれた荘厳な神社である。鳥居前にある駐車場の前には大きなアヤメ園があり全国のアヤメの名所と連帯したアヤメサミットなるものも行なわれている。

参道を入り本殿の前の参門は例大祭のためか閉鎖されており、脇の門から入った。

この神社は格式においてもその知名度においても会津のどの神社をも圧倒するものであるのだが、本殿の前に立つとその思いが崩れるのを避けられない。

この神社は本殿の正面に立っても本殿の右脇にある御神酒の振舞所の庇が本殿の前に出ていて全体を見ることが出来ないのである。確かに、この神社には全国の酒蔵からの寄進が多く御神酒として祭られ振舞われてはいるのだが、本殿を見渡せなくなるような付帯施設とはいかなる意味があるのだろうと気にさせられる。

はっきりいって神社のありがたみが薄れるような気がする。

本殿の左前には会津五桜の一つ薄墨桜がある。

本殿とお振舞所のある神楽殿との間の渡り廊下の下をくぐり本殿右に出ると、そこには大きなヒノキに巨大な藤の木が纏わりついた「飛竜の藤」や「天海僧正手植桧」、「縁結び紅葉」等がある。

伊佐須美神社を出て目的の「長福寺」を尋ねた。若い住職と奥様がこの寺を守っておられる。会津に住んでいた時から縁あってお付き合いするようになり、お互い行き来していた。そして久しぶりの再会を喜び、東京の青山から買ってきたキルフェボンのフルーツタルトを喜んでいただいた。

ここでこの寺の末寺が札所になっているが会津37番札所と異なるのかと尋ねると、こちらの札所は会津札所と異なり「お蔵入り札所」であるという。この寺のある長井野地区は藩政時代会津松平領ではなく天領だったらしい。天領は別名「お蔵入り」といって私領や大名領とは異なることを領民は「俺達はお蔵入りだ」といって誇っていたという。その名残でここの札所も会津のものとは異なり「お蔵入り札所」と称しているのだというのである。

そして再会を約して長福寺を後にした。

6時半に会津若松駅前のホテルにチェックインして、勝手知ったる会津の町の散策に出かけた。

そして神明通りから市役所前の「うなぎのえびや」を過ぎ、野口英世博士の「忍耐」と刻まれた銅像の前から路地に入り目的の「元祖輪箱飯の田季野」に着いた。

会津に住んだとき数回利用してその素晴らしさは知っていたのであるが妻と来たことがなく今回彼女の希望で予約を入れておいたものである。

歴史を感じさせる建物の暖簾をくぐると大きな柱に梁それに高い天井が圧倒される。それに広い土間の奥に帳場がありゆったりした空間を作っている。

混んでいたが予約を入れていたためすぐに、2階の個室に案内された。6畳ほどの狭い部屋であるが、太い柱が歴史を感じさせ、上座には掛け軸と一輪挿しのススキと気の利いた小物が置かれ、2人にしては大きめの席が設けらていた。それだけで他では経験できない贅沢な気分を味わえる。この建物は200年以上立つもので南会津の田島にあった陣屋を移築したものであるという話を仲居さんからきいた。

一時して仲居さんがやってきて前菜を運んできた。前菜は横長の器に甘酢のモズクに会津名物の「棒たら煮」、「ニシンの山椒漬」それに小鉢にわさびが載せられた「ごま豆腐」が出た。ビールと共に前菜を楽しんでいると幾分一呼吸置いて、次の「こづゆ」が出てきた。これは人参やサトイモ、キクラゲ、ホタテ、丸麩などを入れて作る具沢山の吸い物である。会津では宴席では必ず出されるもので、昔は何杯でもお代りが許されていたらしい。田季野の「こづゆ」もなかなか美味しかった。

続いて、「馬刺し」と強清水のところで紹介した会津名物の「饅頭、ニシン、スルメのてんぷら」が出てきた。ここで注文してあった「栄泉」の冷酒が出てきた。

次に「味のついた馬肉の焼き物」が出されコンロで焼きながら頂いた。

最後に香の物と輪箱飯(わっぱめし)それにフルーツのデザートが出された。

輪箱飯(わっぱめし)は鮭の切り身に山菜やキノコが絶妙の味付けをされ蒸し器で蒸し上げられている。田季野の輪箱飯を初めて食べた妻は、かなり満腹であったのだが「これは最後まで食べたい。」といって食べてしまった。

ほかの観光地ではなかなか経験できない贅沢な歴史の温かさに包まれた個室空間と、歴史を持った会津の風土ではぐくまれた美味しい郷土料理のを楽しむ大人の旅の贅沢さを演出してくれた。

食事を終えて狭い階段を下りるとそこが帳場の仕切りの中に座る女将さんがこの建物にマッチしてなんともいえない風情を醸し出していた。

広い土間の奥に2メートルほどの黒光りした男性のシンボルの形をした道祖神が置かれていた。店の案内によると田季野の輪箱飯(わっぱめし)に使っている「曲わっぱ」は檜枝岐村産で、「曲わっぱ」は女性を表すもので対をなすものであると書かれている。

 

ところでここで食事をしているときに私の携帯に電話がった。私たちが以前、飯盛山(正確には和田であるが)の住まいの借家の隣に住んでおられたご夫婦で、市内でプロパンガス業を経営されておられる方から電話があり「ぜひ寄っていくように。」ことであった。昼間、店に立ち寄ったときにポストに投函しておいた我家の無線のQSL(交信証明)カードのメッセージを見て電話してくれたのである。「明日本郷のせと市で早いから。」といってご辞退したのであるが、おば様に押し切られてしまい訪ねることになった。田季野から5分ほどの店のあった場所に越してきたとのことで、久しぶりの再会も何の違和感もなく、あっという間に楽しい時間が過ぎてしまった。

ホテルに帰って休もうとすると、もう一度、奥様から電話があり今度は「明日朝430分頃家に寄るように」とのこと。いくらお断りしても許してくれず、またまた押し切られてしまう。それを見ていた妻が「貴方でも簡単に押し切られるのね。」と笑っている。

そして充実の一日の疲れが我らのまぶたに深い眠りをもたらした。

 

そして83日の朝、4時、起床。

420分にチェックアウトして、神明通りをくだり、昨日お尋ねした家に着くとすでに明かりついていて、奥様がいつもの通りニコニコしながらすぐに出てきてくれた。

すると、「昨夜何も構えなかったから」といって、朝早起きして私たちのために車で中で食べる「ゆで卵」と何か習いたての物を作ってくれたらしい。あり難い事であり、言葉も無い。感謝の極みであった。

ここを後にして途中、一緒にせと市に行くことになっている妻の友人を迎えに行く。

会津若松市から20分ほどでせと市の会場に着いた。近場の駐車場はすでに満杯で、二人を下ろして1キロほど離れた本郷町役場の駐車場を目指す。朝5時ごろであったが役場の駐車場には入れずその隣のグランドに誘導された。

そこからシャトルバスで会場に向かうことになる。県外ナンバーの車が次から次へと駐車場に入ってきた。

この日はJARL(日本アマチュア無線連盟)のフィールドデイコンテストが行なわれていたため、車に積んでいる短波の無線機と車に立てた2メートルほどのアンテナを使って30分ほど北海道や広島、そして会津の局と交信した。

シャトルバスに乗り5分ほどで会場に着いた。妻達を下ろした交差点から宗像窯の前の廣瀬神社まで約1キロほどが会場になっている。

5時ごろであるがかなりの「かってがんしょ」という声が飛び交い、お目当ての器を探す人で賑わっている。早朝のため夏の厳しい日差しも無く心地よい散策とお気に入りの器探しが楽しめる。

このせと市は毎年8月第1日曜日に朝4時から正午まで開かれる。明治時代に商品にならない「はねもの」を職人がお小遣い稼ぎに売り始めたのが始まりと放送していた。2割から3割り引きは当然のこと。駆け引きも楽しく、今回はお目当てのお茶碗を見つけて交渉したら1350円が1250円になり5個で1250円を1000円にしてもらった。さらに、「会津に住んでいたときに買ったこのお茶碗を埼玉からわざわざ探しにきた。」といったら、さらに1個おまけにくれた。

さらに別の場所で、2人の女性が陶器で出来た剣山を値切り交渉をしていたが、「3個で500円ならどう。」というとそこに妻と一緒にきた友人が突然割り込み「私も入れて4個ならもっとどうなの。」ということになり結局見ず知らずのグループが一緒になって5個でまとめてかなりの割引で買ってしまった。このようなことが出来るのもせと市ならでは楽しみであり、会津の人情と伝統が飛び交うひと時である。

このせと市を楽しむためには、日が上がらない涼しい早朝に行くことと、臆することなく話し掛け値切りの交渉をする事が秘訣である。

ところでせと市には会津本郷の窯元だけでなく県外の多くの窯元も参加していた。

ここに参加していた地元の窯元を順に揚げると以下の通りであった。

富三窯、流紋焼、采樹窯、鳳山窯、かやの窯、力窯、玉山窯、酔月窯、開山窯、錦宝窯、岱玄窯、崋山窯、早春窯、宗像窯

廣瀬神社を入ると登り窯を持つ宗像窯があるが、そこの向かいに寺にここの冬季の歴史を作った人々の廟があった。

会津本郷焼の歴史を簡単に書くと。文禄2年(1593年)会津若松城主蒲生氏郷公が城郭修理のおり、播磨の国から瓦職人を呼んで屋根瓦を焼かせたのが始まりであると言う。陶器は正保2年(1645年)会津若松藩祖保科正之公が岩瀬群長沼町から尾張瀬戸出身の陶工を呼んで製陶を命じたという。これは東北地方最古の歴史をもとものである。

楽しい一時を過ごしてここを後にし友人を会津若松市の自宅に送り届けたときにはもう9時前になっていた。

これから以前住んだ飯盛山の団地に行く。飯盛団地の一番奥まった上にAさんといわれる大学の先生が住んでおられるが、お尋ねしたらお世話になった奥様が出てこられて、大変喜んで頂いた。帰り際、万古焼の夫婦の湯飲み茶碗をいただいた。それが何と妻の好きな南会津田島荒海にある勝三窯の蛙が付いた物だった。

そして私たちが住んだ家の向かいの家に挨拶に行くとまた歓待を受けてお茶や果物を頂き久しぶりに楽しい時間を過ごさせていただいた。

こちらのご主人には会津に住み始めた最初の年の暮れ誘いを受けて長男と二人この家で10割蕎麦の打ち方を教わった。見事な出来栄えの蕎麦で後にも先にも私が打った蕎麦で最高の出来であった。その話をするとそば粉が採れた場所、挽き方、湿度などすべてにおいて異なり、難しいものであることなど、久しぶりに「師匠」と呼びながら談義にふけった。その際、妻から蕎麦がきの作り方について「どうしても徳一の蕎麦がきのようにふんわりした物にならない。徳一では何か混ぜているのではないか。」というとその作り方を教えていただいた。妻にとっては一番の収穫であった。

飯盛山の団地を後にして会津東山温泉に向かった。まず、東山温泉の一番の名物「松本屋」の水羊羹を買うためである。車をとめて店に入ろうとすると次男の同級生の母親と出会った。久々の再会を驚くと共に、ひととき生長した子供達の近況を語り別れた。まったく狭い町である。

ところでこの女性はこの松本屋の上にある「卯の屋」さんという食堂の奥様である。卯の屋の「味噌タンメン」は絶品であるというのが東山通の常識なのであるが旅行案内には無い情報として紹介しておく。

松本屋で水羊羹を買うも、日持ちがしないということでやむなく会社と友人へのお土産としては断念する。

松本屋を出てすぐ川(湯川という)向かいにある「旅館不動滝」を訪ねる。不動滝やその隣の向滝の前の湯川の上には東山夏祭りのやぐらが組まれて華やかに飾られていた。この祭りは伝統のある東山温泉ならではの素晴らしいものである。

不動滝訪問は私たちが会津に住んだときの恩人であり友人である専務さんを訪ねるためであった。

玄関を入り従業員に「専務はいますか?」というと外出中であるという。そこで持ってきたお土産に訪問した旨のカードを添えて渡そうとすると奥から「お久しぶりです。どうされたの。」とこの旅館の女将さんが出てこられた。

専務の奥様でこの大きな旅館を取り仕切っておられる方である。ご主人の専務さんは釣りに出かけられたとのこと、お客さんが出てまだお湯を落としていないので入っていくようにといわれるも残念ながら辞退する。

この旅館の専務さんは息子達のスキーチームの副会長さんでありまたコーチであったため3シーズンをゲレンデの雪の中で共に過ごした。またチームの打ち上げや東山スキースポーツ少年団の監督のお嬢さんで、現在全日本レベルでも活躍している福島県の誇る三星佳代選手のインターハイGSL優勝の祝勝会はここで開いていた。さらに私たちが会津を離れるときのスキーチームの開いてくれた送別会はこの不動滝だった。このような経緯から女将さんもよく知っており、さらに専務は私たち夫婦と同い年ということもありファーストネームで呼んでいた。

不動滝を出て駐車場まで歩くとき女将さんが見送ってくれたが、50メートルほど離れた橋を渡るときに振り返ったら、まだ手を振ってくれた。大きな旅館女将とはこのようなものなのであろう。この日もキリットしたスーツ姿で現れ、やわらかい物腰、笑顔どれ一つとってもプロそのものであった。

このように玄関を出てふと振り返った後、自分の背中に向けて手をふってくれる優しさ、気配りに気づいたときのお客の喜び、満足は計り知れないものがあるだろう。私たちは「○○○さん(女将のファーストネーム)はさすがにプロだね。女将はああなくてはいけないのだね。」と口にした。「それに比べ旦那の○○さんは遊び歩いて仕方ないね・・・」等と笑いながら話していたが、きっと彼は会津下郷の川で鮎を釣りながらクシャミをしていたことであろう。

東山の郵便局に寄るも休みのため局長に会えず、最後の目的地であるお土産を買いにJR会津若松駅と飯盛山の中間ほどにある「太郎庵」というお菓子屋さんいく。会津を代表する菓子屋であり、美味しいお菓子とサービスを提供している会社である。次男からここの代表的なお菓子「会津の天神様」を買ってきてほしいという希望があったのである。中に入ると以前とは異なりバームクーヘンの作る場所ができていた。相変わらず多くのお客で賑わっていたが、今回意外なものを発見した。

「クレメ・ダンジェCremet d‘Anjou」という白い器に泡立てた生クリームをガーゼ状のものに包んで入れたもので、クリームの中に木苺のジャムのようなものが入っているケーキである。意外なといったのは外でもない、フワフワのクリームチーズケーキは銀のぶどうの「しらら」など今流行であるが、この種類のチーズケーキは今私が勤務している千代田区麹町にある「パテェシエ・シマ」の「クレーム・アンジェ」が元祖とされており、近いうちにこの「クレーム・アンジェ」を紹介する予定だったからである。

この話を私とともにメルマガ「麹町ウぉーカー(麹町遊歩人)」を配信している編集長(大)にしたら、彼もこの夏、実家の北海道に帰った折、旭川で同じものを見かけたという。このタイプのケーキは全国に流行っているらしい。

私たちは当然このケーキを買い店の中にあるテーブルでサービスのコーヒーとともにこの「クレメ・ダンジェ Cremet d‘Anjou」を頂いた。生クリームが美味しいケーキに仕上がっている。

そして我々は太郎庵を楽しみ会津を後にして国道を南下して芦ノ牧温泉から下郷、田島で田島陣屋跡と南会津郡役所を見学し会津高原を抜け、藤原から鬼怒川に抜け日光で温泉に入り日光街道の杉並木を楽しんでから宇都宮から高速に乗り帰ってきた。

この会津田島の南会津郡役所跡の裏で「麹町ウぉーカー」と関係する話題を見つけた。

途中、鬼怒川温泉の山中で早起きのため眠たくなり木陰に車をとめて一休みしたが、目が醒めて今朝一番に頂いたゆで卵とベーカリーコビヤマのパンでお昼にした。このときゆで卵を食べながら妻が「まるで実家に帰ったように迎えられ、とてもリラックスした。」と口にしたが、まったくその通りであった。

会津で過ごした29ヶ月が我家の人生にとって大きな重みを持っていることを再認識した2日間であった。

200384日 会津でお世話になった方々に感謝の意を込めて

2003年8月10日


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