戻る    outdoor

富士山(標高3776m

日本百名山(72
2004.8.2728 家族4名のパーティー

2004年8月27日 2004年8月28日

6時00分:埼玉県伊奈町発
9時50分:河口湖五合目到着
11時05分:登山開始
11時23分:登山口
11時43分:六合目到着
12時00分:六合目出発
12時55分:七合目花小屋到着
13時15分:鎌岩館
14時15分:東洋館
14時50分:太子館
15時35分:白雲荘
16時20分:本八合目トモエ館到着

3時40分:本八合目トモエ館出発
5時00分:吉田口頂上
5時55分:お鉢巡り出発
7時00分:剣が峰(3776m)
7時20分:剣が峰発
8時20分:下山開始
8時57分:本八合目分岐
(この間激しい雨のためタイムとれず)

11時10分:吉田口登山口到着
写真をクリックすると詳細写真がご覧になれます

午前6時に埼玉の家を出て、圏央道、中央高速を経て富士スバルラインを通り午前10時前に河口湖五合目駐車場に着き、運良く一番登山口に近い駐車場に駐車できた。

河口湖五合目五合目は2305mあり、富士山大社小御岳神社を中心として大きな観光施設が並んでおり観光バスでここまでやってきた観光客と富士山に登る登山者でごった返している。

ここで高度順化のために昼食をとりながらしばらく休むことにし、レストランに入り、山小屋での質素な食事に備えて最後の腹ごしらえをする。ところがラーメン、スパゲティ、カツ丼とどれも値段は高いがとても食べられる代物ではなかった。それに接客態度が・・・。

小御岳神社で登山成功の祈願をして、売店で「富士山五合目」という焼印が押された金剛杖を1000円で買い、11時05分に河口湖五合目を出発した。20分ほどり車道を幾分下りながら歩くと、大きな岩のある登山口(泉ヶ滝)に着き、ここから本格的な登山道になる。泉が滝登山口

樹林帯のなだらかな砂の登山道を登り、いっときすると視界が開けて落石防止のシェルターを過ぎると約20分程で六合目にある富士登山安全指導センターに出る。

ここで登山、下山のルートと途中の山小屋の名前、大まかなルートタイム、標高と登山上の注意事項が書かれたパンフレットをもらった(これはかなり役に立つ)。富士山のトイレはいずれも環境保護のためのチップ式になっている。ここのトイレは汚物をすぐに焼却するするドライトイレであった。

ここから見上げる富士山は砂止めや落石防止の巨大工事が行われており富士山の現状を見る思いがする。六合目から七合目までは砂止め六合目からの登山道の工事の施されたジグザグの砂礫の道を登る。

それにしても数百、数千の土嚢を金網に詰めて作った大きなビルのような落石防止の工事が延々と続きまるで工事現場の中を歩いていると思えなくもない。

所々に「都留建設事務所」というプレートを見かけた。甲府市に勤務していたときに県庁の職員から、富士山の登山道は本八合目までは山梨県管轄の「県道」で本八合目から上は静岡県の県道であると聞いたことがある。

約1時間ほどで砂礫が切れて岩場になるとそこが七合目の最初の山小屋「花小屋」(標高2700m)である。ここで200円を出して最初の焼印を押してもらう。これから山頂までの山小屋のオリジナルの焼印をもらうのが楽しみになる。七合目花小屋

ここから次の八合目(3020m)の太子館まで標高差約300mを約1時間40分の予定時間である。

次に「日出館」、「七合目トモエ館」、「鎌岩館」、「富士一館」、「鳥居荘」、海抜一万尺の「東洋館」、少し間隔を置いて急な岩場を登りきると八合目の「太子館」に着く。ここには救護所があるが8月22日で閉鎖されていた。七合目から八合目までは各山小屋を目安に登ることによりそれほど苦にならない。

イワヒバリ東洋館を過ぎた辺りから、スズメを一回り大きくしたようなイワヒバリが私たちのことを怖がる様子も無く、まとわりつくように歩き回る。時には私たちの登山を先導するようにすら思える。なかなか可愛い鳥である。

これらの山小屋は急な斜面に這うように建てられており山小屋の前の1〜2m程スペースが登山道になっている。

見下ろすと登ってきた6合目からの登山道が真下に見える。また右側は久須志ヶ岳(薬師ヶ岳:3740m)山頂直下から五合目のスバルラインを超えて山麓まで崩壊している吉田大沢の奥が大きな崖になっており、その斜面があまりに急峻なのに驚く。

七合目から望む

太子館から次の目的地本八合目(3360m)までは標高差340mで斜度もますます急な岩場が続くが安全指導センターのパンフレットのルートタイムは約1時間20分とある。

太子館を出で少し登り鳥居をくぐると「蓬莱館(海抜3150m)」がある。この山小屋の脇には「亀岩八大竜王」という碑がたっている。ここからしばらく岩場を登ると「白雲荘」に出る。ここはかなり大きな山小屋で小屋の前も広いスペースがある。ところが「焼印は終了しました。」の悲しい張り紙。

八合目太子館(3020m)白雲荘の上を見上げると「元祖室」とその遥かな高みに「本八合目」の看板が見える。

ここから再び雨が激しくなり、最後の急な岩場を登りきると本八合目の「富士山ホテル」に着く。山小屋のスタッフが「今日の目的地はどこまで」などと話しかけてくる。「トモエ館です」と答えると「すぐ上です。気をつけて。」と励ましてくれる。

富士山の山小屋に関してはいろいろとネガティブな風評がある。確かに宿泊する山小屋を決めていない登山者の客寄せであるのであろうが、思ったより気持ちのよいやり取りであった。

富士山ホテルの脇を登り裏に出るとそこが「八合目トモエ館」である。その隣に「八合目江戸屋」がある。

本八合目には三つの山小屋があり、パンフレットではそれぞれ標高差があるように書かれているが、これらは同じ場所に集まって建っており標高差は殆ど無い。

トモエ館には4時半に着いた。

山小屋に入り一泊夕食つきで申し込み(7350円)、濡れたレインウエアーや靴をビニール袋に入れ一休みする。そして奥の二段ベッドの隅に4名分のスペースを指定された。食事の呼び出しを受けて広間に行くと予想通り発砲スチロールの器に入れられたレトルトのカレーであった。

富士山の山小屋は寝る場所と食事だけである。水が無いため顔を洗ったり歯を磨いたりする場所が無い。それでもピークシーズンには布団一枚に2人が寝るようなことが普通なのだという。ある本で読んだがこの光景を「オイルサーディンのような光景」という外国人の表現がぴったりである。汚い布団に包まれて寝た。(一月前の尾瀬の山小屋とは大きな違いであるが郷に入っては郷に従えである)。女性の登山者この汚い布団で寝るためにはタオルを持って行き枕や襟元をかける様な工夫とともに割りきりが必要である。

朝2時ごろになる小屋の前が騒がしくなって目が覚めた。御来光を仰ぐため夜登ってくる登山者のために山小屋が24時間営業をしている。9合目辺りの夜の登山者

私たちも3時に目を覚まして外に出ると、山小屋の前は多くに登山者でごった返していた。下を見ると登山者のヘッドランプの明かりが下から延々と続き、上を見上げると山頂まで明かりが延々と続いている。

身支度を整えて3時40分に登山を開始した。登山口は山手線のターミナル駅の乗換え階段ほどの混みようである。

ガレ場と岩場をジグザグに30分ほど登ると最後の山小屋「御来光館」に出る。ここで最後の焼印をもらったが、そこには「県境8.5合目御来光館」とあった。本八合目から山頂までの間は、真っ暗な登山道であるが、多くの登山者の列とそのヘッドランプの明かりで何とか歩いていくことができる。しかし、酸素が薄いため続けて長く歩くことができない。少し歩いては休憩し、持ってきた酸素を吸うと幾分呼吸が楽になり頭の痛みが治るような気がする。

更に関西からバスで来て夜中に歩き始めた御来光ツアーの集団の中に入ってしまい、自分たちのペースで歩くことができない。

山頂からの日の出九合目(3600m)あたりで振り返ると東の空が薄く明らんできた。そして、登り始めて1時間30分ほどたった、日の出時刻の5時丁度に山頂に着いた。

すぐに浅間大社奥宮の末社「久須志神社(東北奥宮)」に参拝して金剛杖に300円を出して「富士山頂富士奥宮」という刻印を押してもらう。山小屋では焼印で押すが山頂の神社では御影石の上に金剛杖を置いて朱肉を付けた金属の刻印を打ってくれる。これで金剛杖の焼印の完成すし、富士山の登拝が完了する。そして「六根清浄」と書かれた木の御札を頂いた。因みに「六根清浄」とは目、口、耳、鼻、身、心に不浄なものがないことを願う祓詞である。

そもそも富士山の八合目以上は富士山本宮浅間大社の奥宮境内、つまり浅間大社の所有地である。江戸時代に徳川家康公が、浅間大社に富士山の所有を認めたことに由来している。神社の中には山頂に湧く御霊水「金明水」が1本500円で販売されていた。

すっきりとした御来光は拝めなかったものの、東の空には朝の明かりが差していた。

神社脇は山小屋が並んでおり「富士銀座」といわれるほど賑わっている。それにしても売っている物がどれも高い。ペットボトルのソフトドリンクが1本500円である。他の有名な山の山小屋のようにヘリコプターなど使わずに、ブルトーザーで運んで来るのにである・・。他の山の山小屋の事情を知る者にとって全ての物資をブルで運んでいる富士山の物価高は納得がいかない。

私たちは山小屋の前で日の出を見ながら朝食をとるものの、高度障害の影響で食欲がない。しかし、体力維持のため持ってきたおにぎりとパンを何とか口に入れた富士山頂の賑わい

この高度障害(高山病)であるが、個人差が大きいと思われるが我が家の場合六合目を過ぎ七合目辺りから普通とは違う感覚に見舞われ、それは八合目の山小屋に着いたとときにはっきりした。私の場合、少し頭痛がして気分が悪く、フラフラしてすぐに横になりたくなった。妻は息苦しさのほかは頭痛がしたという。

あまり運動をしていない長男が一番に影響が出て、頭痛とともに吐き気がした。そして現役の高校生で運動部に所属して、直前まで合宿をしていた次男も山頂アタック時には頭痛と腹痛に悩まされた。

山頂に来ると酸素の薄いことを紛れも無い事実として実感できる。まず激しく動くことができない。すぐに息が切れ、歩こうとしても歩けないのである。

ただこれは慣れと個人差が大きいようで毎年登っている同僚の女性はそれほど高度障害は出ないと話していた。

御来光を仰ぐために関西からバスツアーでやってきたメンバーは添乗員の「ご来光は見られませんから、あきらめて下山しましょう。」と促されてすぐに下山していった。

これが富士登山なのであろうか。それにしても富士山には外国人が多い。日本人より比較的ラフな格好で登っている。そして女性の登山者が多い。

我々は山小屋のある場所を出て、富士山噴火口(お鉢)廻りに出かける。

山小屋を時計回りに歩き始めると、小屋のはずれに公衆トイレがある。その先に須走口下山口と書かれた石柱があるが、それを左に下ると下山道である。

富士山の火口

お鉢の淵に立つとその大きさに驚かされる。富士山の噴火口跡は直径600m、深さ200mほどあり、「大内院」とも呼ばれ、切り立った火口はとても迫力がある。正面に富士山の最高峰「剣ヶ峰」にドームが取り払われた富士山測候所が見える。

山小屋を出て最初の山は朝日岳(大日岳:3750m)の上には小さな鳥居があり、そこに金剛杖に付けられていた鈴がびっしりと結び付けられている。

息子たちは朝日岳の南側の数メートルの壁を下りていったが、私たちはいったん戻り、斜面に付けられた幅一mほどのまき道を歩いて通過した。ところが私たちが崖の脇を通過したときに壁が少し「ガサ」と崩れた。そして10mほど後を歩いてきた2人の若い男性の一人が通過し途端に1立方メートルほどの崖が大きな音とともに突然崩れ落ちた。後ろの男性が大声を上げて後ろに回避した。その声に驚いた崖の上にいた女性が覗こうとしたため私が「壁が崩壊した。近寄るな!」と叫ぶと女性が驚いて立ち去った。富士山は崩壊しやすい危険な山であることを実感した瞬間であった。ガレ地の尾根を歩くと、その突き当りが急な岩の崖で数メートル程直登すると伊豆ヶ岳(阿弥陀岳:3749m)である。岩の尾根を下ると今度は左は麓へ右は火口へ鋭く切れおちた細い岩尾根になる。とくに下りの細い岩尾根はとても恐怖心をあおる。富士山の山頂にこのような危険な場所があるのに驚く。この場所の地名は正確ではないが「勢至ヶ窪」といわれるものではないかと思われる。

それから平坦な成就岳(勢至ガ岳:3733m)を過ぎると、御殿場口登山道の山頂で、もう一つの御霊水「銀名水」がでる場所である。「銀名水」は柵に囲まれていた。

浅間神社奥社そして駒ケ岳と浅間ヶ岳の間の丘を越えると「浅間大社奥宮」があり、その前に鳥居がある。ここが富士宮登山道の山頂で、山小屋もある広い場所である。浅間大社奥宮が富士山の本来の奥宮で、「銀名水」はここで販売されていた。因みに浅間大社奥宮の御祭神は「コノハナサクヤヒメ(木花之佐久夜比売命)」である。

ここには例年7月10日から8月20日まで士山頂郵便局が置かれているが、すでに閉鎖されていた。

一休みして三島岳(文殊ガ岳:3740m)火口側の道を剣ヶ峰に向かって登り始める。

最初はなだらかであるが剣が峰の直下の「馬の背」と呼ばれる急な長い登りはとてもこたえる。登山者の足取りがとても重く少し歩いては立ち止まりながら登っている。この馬の背は狭い砂の尾根で、火口側は切り立った絶壁で、山麓側は麓まで果てしなく落ちていくように思える。金属製の柵が付けられて入るが、風の強い日はとても危険な場所であろう。

馬の背を登りきり富士山測候所の入り口に着くと一気に階段を登る者はいない。そこで一息入れてから気を取り直して階段を登る。そこには、「日本最高峰富士山剣ヶ峰3776米」という御影石の碑と二等三角点がある。

我が家のメンバーは日本の最高峰に到達したという達成感よりも、高度障害(高山病)をおしてやっとたどり着いたという安堵感、虚脱感であった。富士山山頂剣が峰(3776m)

「日本最高峰富士山剣ヶ峰3776米」の碑の前で写真をとったがとても笑顔どころではなかった。

山頂にいる殆どの登山者が横になっている。私達だけでなく殆どの登山者がこの高度はかなりこたえているようである。

ひと休みしてお鉢巡りの後半に向かって下り始める。 

NHKのプロジェクトXでも紹介された測候所のシンボルであったレーダードームは、オリンピックの年(昭和39年)に設置されたが、その役目を終え2001年に取り壊され、富士吉田市に設置されている。

なだらかな坂を下ったのち白いドームのある建物を過ぎ、雷岩に向って一度登り返すと丁度、富士山の西側、「大沢崩れ」と呼ばれる場所の真上に尾根に出る。西富士の田貫湖あたりが望めた。3000メートルの高みから富士の裾野が一望できる幸運に恵まれた。

そしてもう一度「釈迦の割れ石」、の前の「小内院」と呼ばれる窪地を左手に見て下り、「白山岳」(釈迦ヶ岳:3757m)の前を通り久須志岳(薬師ヶ岳:3740m)に向って登り返すとそこが「金名水」のある「安西ヶ河原」である。ここから剣ヶ峰の遠望が見事である。その前の丘に登山者が白い石を並べて名前を刻んでいる。そして久須志岳を登ると吉田、須走登山道登口の久須志神社に戻ってくる。

思ったよりきついお鉢廻りで、少し歩いて休むたびに座り込んで皆頭を下にして呼吸を整えていた。

金名水上から剣が峰を望むところで「お鉢廻り」の途中で登った山々は二つの名前がついている。これは明治の初年に行なわれた、明治新政府の神道国教化政策・神仏分離政策によってひきおこされた仏教排斥運動で全国各地の仏堂・仏像・経文などが破棄された「廃仏毀釈」の名残であるという。それによって仏教的な名前が現在の呼び名に変更されたのである。

そして売店の前で一休みして、そして今度は下山専用道から下り始める。下山に要する予定時間は約3時間である。

広い砂の道をジグザグに降りていく。裾野は雲で見えなかったが、見上げた山頂は青空の中に輝いていた。ところが天気がよかったものの下山を始めて15分ほどで少し細かい霧になりそして細かい雨が降り始め、八合目江戸屋におりた辺りで本格的な雨になった。

そして下山開始から約1時間で須走口との分岐点須走口江戸屋に出た。ここからあと2時間の道程である。標高3000m辺りの気温は約8度ほどであったが、雨、風が強く体感温度は更に寒くとても冷たく感じた。

登山道は雨のため一つ下の折り返した登山道すら見えない。無線の資格を持つ息子達には「もし何かあったらリュックに付けてある無線で呼ぶように」にと指示してあった。高度障害で元気の無かった息子たちも高度が下がってきて見違えるように元気になり、「空気が濃い」と言って、跳ねるようにけむる下山道を駆け下りていった。富士山下山道

この下山道は砂地をジグザグに降りていくのであるが須走口江戸屋を出てから途中の標識には「落石注意」はあるがその場所(高度)や距離を示す表示が殆どない(正確には2箇所しかない)。快晴の日の下山であれば下が確認できるからいいであろうが、雨や霧の中では今自分がどの位置にいて、どの程度歩けば目的地に到達することができるのか目安となる標識がほしい。山岳標識の問題は富士山だけの問題ではないが・・。

途中で落石を避けるための緊急避難所を過ぎ、七合目にトイレがある。それからしばらく下りると落石防止のトンネルを通り途中からダケカンバの林を下りると平坦な道になり六合目の安全指導センターの下に出る。そしてもと来た道を戻り、雨の中これから登ろうとする多くのツアーの団体やパーティーを見送りながら泉が滝の登山口を経て、観光客で賑わう五合目の駐車場に着いた。

六合目を過ぎたあたりから雨が小降りになった。私たちは3000mあたりから雨雲の中を下山してきたもののようである。

そして山中湖村の「紅富士の湯」に入り、富士山の汚れを落として、次の目的地伊豆高原に向かった。
2004年8月27日28日撮影

HOMER’S玉手箱 麹町ウぉーカー(麹町遊歩人) 会津見て歩記 甲府勤番風流日誌 伊奈町見聞記 鹿児島県坊津町