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==========麹町ウぉーカー(麹町遊歩人)66========== 昭和11年2月26日午前5時。 まさに68年前の今日この時に、二・二六事件が起こったのです。 今回、麹町ウぉーカー66号は、前号に引き続きH氏による二・二六事件の特集をお届けします。 ====================================== ~15年10月13日の麹町小学校同窓会「麹町界隈今昔物語(二・二六事件)」の催しに参加して以来、この麹町近辺で発生した二・二六事件につい調べているうち面白い事実を知った。それは決起軍として参加した約1500名の将兵のうちほぼ半数以上が埼玉県出身者であるということである。 これは当時の徴兵区が決起軍の主力を成した第一師団歩兵第一連隊が川越市、入間郡、比企郡、秩父郡、歩兵第三連隊が浦和市、川口市、北足立郡その他とされていたためである。そのような経緯から埼玉県は県の重要な歴史として昭和56年2月に「埼玉県史 別冊二・二六事件と郷土兵」として出版した。564ページもあるかなり分厚いものであるが埼玉県立図書館から借りて来ていっきに読み上げた。 これは、くしくもこの事件に命令のもとに参加し(させられ)、その後太平洋戦争へとひた走るそのターニングポイントとなる歴史的4日間を過ごし、そして命令に従ったばかりに反乱軍の汚名を着せられ、戦中戦後を過ごした、将校、下士官そして昭和11年1月10日に入隊したばかりの初年兵まで70人の真実の叫びであるとともに二・二六事件研究の貴重な資料でもある。 事件の起きる当時の陸軍の内部には大きく2つの流れがあった。一つは真崎甚三郎、荒木貞夫両大将を中心とする各連隊の一部青年将校の「皇道派」と呼ばれる一派と、永田鉄山(少将)軍務局長を中心とする一部高級将校(幕僚派)の「統制派」の二つである。 当時の統制派は重臣や財閥と結託して国政を歪めていると考えられていた。そのような状況で、昭和10年8月12日統制派の永田軍務局長が相沢三郎中佐に惨殺されるという事件が起こった。この事件をきっかけにして統制派は陸軍の重要ポストを自派で固めていった。そのような矢先、昭和11年1月20日、二・二六事件の主力部隊となる第一師団に満州派兵の決定がされる。 事件の中心となる埼玉県出身の初年兵は昭和11年1月10日に入隊し、代々木の錬兵場で通常の初年兵より早い訓練を受けていた。入隊して1ヶ月もたたないうちから実弾射撃や2年兵になってから行う手投げ弾の投てき訓練も行っていたという。 その頃から連隊の青年将校たちは憲兵の目を盗んで第一連隊の向かいにあった仏蘭西料理竜土軒(現在は西麻布に移っている)で会合を進めて決起の日を待っていた。 そして決起の日の深夜下士官により兵に対して非常呼集がかけられ、実弾が配布され、都心で起こった暴動鎮圧に出動するとの命令を受けて一斉決起の午前5時に間に合うように出動していく。合言葉は「尊皇−討奸」、「大内山に光さす−暗雲なし」であり、また「靴の内側に三銭切手を貼った者以外は通してはならない。」という命令があったという。 そして各部隊、午前5時を期して一斉に決起した。 まず、赤坂のTBSの敷地にあった近衛歩兵第三連隊第七中隊の中橋基明中尉、今泉義道少尉に率いられた138名の将兵は連隊のすぐそばにあった高橋是清蔵相の私邸に向かった(現高橋是清翁記念公園)。「天誅!」と叫びながら高橋蔵相を射殺し、その日の午後には連隊に戻っている。 以前東大生産技術研究所があり現在、国立「ナショナルギャラリー」が建設されている青山墓地向かいの六本木トンネルと乃木トンネルの間辺りにあった第一師団歩兵第三連隊第1中隊と2中隊の173名は、坂井直中尉、高橋太郎少尉、麦屋清済少尉に率いられて新宿区四谷の斉藤實内大臣の私邸を急襲し大臣を射殺してその後、杉並区上荻窪の渡辺錠太郎陸軍教育総監の私邸を急襲し射殺している。斉藤内大臣の夫人は撃たれた大臣の体の上にまたがりかばったという。 斉藤實内大臣の私邸は学習院初等科の裏手にあり、以前は日本たばこ中央研究所があったが現在は三菱地所のマンション(パークサイド四谷)が建築中である。有名なレストラン「オテル・ドウ・ミクニ」の前の坂を下りた所にある広大な敷地である(新宿区若葉1-21-4)。
歩兵第三連隊第3中隊の清原康平中尉以下152名と第7中隊の野中四郎大尉、常盤稔少尉の156名、第10中隊、鈴木金次郎中尉以下142名並びに機関銃隊を加えて450名ほどで警視庁を急襲し、まったく抵抗を受けることなく武装解除し占拠した。「新撰組」といわれた警視庁の武装部隊を恐れて一番多くの重武装の兵が配置されたという。 尚、昭和56年2月に「埼玉県史別冊二・二六事件と郷土兵」が出された当時の埼玉県畑和知事も歩兵第三連隊機関銃隊二等兵として警視庁の占拠に参加していた。 ![]() 六本木の旧防衛庁舎と同じ場所あった第一歩兵連隊の栗原安秀中尉、林八郎少尉は、機関銃隊291名で首相官邸を急襲し警護の警察官と激しい撃ち合いになり警察官4名を射殺する。岡田啓介首相の義理の弟で秘書官松尾伝蔵大佐を、総理と間違って射殺しそのまま官邸を占拠した。女中部屋の押入れに隠れていた岡田首相は弔問のどさくさに紛れて救出されるが、決起兵の中にも官邸にあった首相の写真との照合の際、死体は別人だという意見が出ていたという。 さらに歩兵第一連隊11中隊の丹生誠忠中尉は170名を率いて国会議事堂の前にある現在の憲政記念館の敷地にあった陸軍省、参謀本部、陸軍大臣官邸を占拠した。 さらに河野寿大尉に率いられた別働隊は伊豆の湯河原伊東旅館別館で静養中の牧野伸顕前内大臣を襲うが警護の警官に河野大尉が銃で胸を撃たれ、将校が戦闘不能になったことにより襲撃は失敗し機関銃掃射の後、旅館に火を放った。 以上が昭和11年2月26日午前5時に起こったことである。これから4日間約1500名弱の決起軍が首相官邸や陸軍省、そして首相官邸の斜め向かいに建設中の国会議事堂に「尊皇討奸」の旗を立てて旧麹町区永田町一帯を占拠することになる。 建設中の国会議事堂に決起軍が立てた旗印「尊皇討奸」の意味は、陸軍歩兵大尉野中四郎の署名のある決起趣意書を要約することにより概ね理解する事ができる。 すなわち「わが国は天皇陛下の統帥権のもと、神武の建国から明治維新を経て発展をとげてきた。ところが近頃、不逞凶悪の輩がいて政治や経済をほしいままにし、国民に塗炭の苦しみを味あわせている。これは元老、重臣、軍閥、財閥、官僚である。このような情勢でロシアや中国、英米と一触即発したら国は滅びる。この国体の危機を救うためには不義不臣を抹殺して天皇陛下の御威光を遮っている奸賊(悪人)を取り除いておかなければならず、それが天皇の忠実な家来の勤めである。」ということであろうか。 当時の我国の政治は腐敗し貧富の格差が激しくなり農村では若い労働力が徴兵で取られ生産性が落ち、さらに恐慌と飢餓で農村は疲弊し、東北の農村では娘の身売りが日常化する厳しい情勢であった。特に徴兵された貧しい農村出身の兵を預かる純真な現場の青年将校にとっては統制派と呼ばれる上級軍人は重臣や財閥と結託して国政を歪めていると考えられていた。 ![]() 26日午後3時30分東京警備司令部から陸軍大臣告示が出される。これにより一時は決起軍の行動が軍により認容されたかに見えた。 さらに27日午前8時戒厳令が発令され、決起部隊は地区警備隊として戒厳司令官の配下に編入される。戒厳司令部は当時「軍人会館」と呼ばれた現在の「九段会館」に置かれた。 この頃までは民間人も決起兵の占拠する国会議事堂や山王ホテル(現在の「山王パークタワー」)、料亭「幸楽」(後に大火災になった「ホテルニュージャパン」、現在の「プレデンシャルビル」である)まで差し入れを行ったり、「よくやった。万歳」などという声援をおくっていたという。 この民衆の声援が後に、将兵達の心の支えになったという証言も多くみられた。 ところが翌28日午前6時30分に「戒厳司令官ハ三宅坂付近を占拠シタル将校以下ヲ以テ速ニ現姿勢ヲ撤シ各所属部隊長ノ隷下ニ復帰セシムベシ」という奉勅命令が出される。しかしながら、この命令は正式に決起部隊には伝達されていない。にも関わらず、これを決起部隊が拒否したとして鎮圧軍約24000名が戦車を先頭に決起部隊を包囲し始めるのである。山王ホテルの屋上から東京湾に停泊している海軍の艦艇の大砲が全て決起軍に向けられているのが見えたという。この時点から決起軍が反乱軍と看做され始め、民間人の立ち入りが禁止されたという。 ![]() 29日、鎮圧軍は朝からラジオや飛行機からまくビラ等で決起部隊に原隊復帰を勧告し、その日の午後には決起部隊は武装を解除して原隊に復帰し、将校は逮捕されこの決起事件は終結する。 その際、野中大尉は陸軍省で自決し、湯河原の旅館を襲った別働隊の河野大尉は病院で自刃する。さらに山王ホテルで最後まで抵抗した安藤大尉も下士官兵に原隊復帰を命じた後、自決を図るも一命を取りとめる。 将校士官は逮捕され代々木の刑務所に収監された後、取調を受け裁判を受ける。参加した兵隊も各連隊で各自が自らの意思で参加したのかどうか、危険な思想的背景がないのか等憲兵の厳しい尋問を受けたという。 ほとんどの兵隊は無罪放免となったが各連隊では粛清人事が行われ幹部のほとんどは転属或いは予備役に編入させられた。 第三連隊は新たに湯浅政雄大佐を連隊長に迎えて、同年5月22日から満州に渡り始める。裁判にかけられなかった兵隊たちに対しても憲兵の目がひかり、大陸に渡る前の実家への帰省も監視付きであったという。 ところが第三連隊隊長湯浅政雄大佐は大の2.26嫌いで、満州に渡った兵たちには汚名挽回のためと猛訓練をやらせ「汚名挽回」に次ぐ言葉は「死ね、死ね」であったという。さらに「汚名挽回のために貴様らは白骨になって帰れ。」という言葉にいたっては返す言葉もない。リーダーの資質そのものに問題がある。 しかし事態は収拾されていたにも係わらず戒厳令は一部解除されず代々木錬兵場に東京陸軍特別軍法会議(一審制、非公開、弁護人なし)が設置された。 123名が起訴され、昭和11年4月28日に公判が開始、7月5日に死刑17名、無期禁固5名、有期禁固54名(内執行猶予30名)、無罪47名の判決が下された。 ところが本件事件の実質的首謀者といわれた真崎甚三郎大将は「知らぬぞんぜぬ」を通し無罪となっている。しかし、陸軍省にいた決起軍兵士は、2月26日の朝、真崎大将が「よくやった」、「とうとうやったか、お前たちの心はよお、わかっとる。」と言いながら朝一番に訪ねて来たと証言している。 決起将校たちは上官たちの自決の薦めに(強要といったほうがいい)対して、それではこの決起の意味が無意味になるとの思いから、裁判で主張を明らかにしようと自決を思いとどまった。しかし、陸軍の統制派は相沢事件の裁判闘争にへきへきしていたため、皇道派をこの際一掃しようとしたらしく通常の軍法会議でなく戒厳令下ということを利用して一審制、非公開、弁護人なしという暗黒裁判が行われるのである。そして指導した青年将校たちの事件の背景となる事実関係の主張は一切許されず、ひたすら事件の事実関係の審理に終始した。 また下士官、兵は命令に従ったのみで裁判にかけられるのは納得いかないと主張していたが、多くの下士官が有罪となり、又免官となり服役している。下士官に関しては「上官の命令は朕の命令」という「命令と服従」という大きな問題に直面していた。 ある曹長の裁判における勇気ある上申にその趣旨がよく表れている。 「・・まず事件発生の原因を考えてみますと、国政を預かる為政者及び陸軍大臣をはじめとする軍上層部がだらしなかったことによると思っています。よって今後心を引き締めて国政を改めるよう切望します。つぎに、今回の首謀者の中には思想的に要注意人物がいたと考えられますが、なぜ放置し大事に至らしめたか、これは明らかに軍部の怠慢であり事件発生の要因を醸成した当局も責任を負うべきであります。首謀者には悪いが命令によって軍隊を動かしたのはよくありません。我々にとって命令は天皇の命令しかありません。よって今回もそのつもりで服従しました。なぜなら命令の善悪をその都度判断していたら戦闘はできないからです。然るに私たちは命令に忠実に実行したばかりに刑罰を受け、連隊長からは免官降格等という懲罰もこうむり、あたら将来を棒に振りました。いうなれば私たちは命令に従ったための犠牲者です。この命令が完全な命令でないにしても、事件発生当時の環境、周囲の状況、隊長と部下との関係上参加せざるを得なかった点をお汲み取りください。以上の点からして二度とこのような事件が起こらないよう、そして犠牲者が出ぬよう、国家や陸軍は謙虚に反省し堅実な国づくりを進めていただきたく切にお願いします。」と述べている。 しかし、その後のわが国は陸軍が政治介入して太平洋戦争へ破滅的道をたどる。これはこの事件に参加した将兵全ての心の叫びだったのであろう。 そして7月12日、村中、磯部を除く15人の死刑がNHK向かいにある渋谷税務署の脇の「二・二事件慰霊観音」が建っている場所で、銃殺により執行された。 無期禁固の判決を受け、代々木刑務所に収監されていた柳下良二中尉の証言によると、死刑執行の日、隣の代々木錬兵場では偽装のために早朝から演習が行われパンパンという空包の合間を縫って7時ごろから3回にわたって、「ブスッ、ブスッ」、という実包の発射音が聞こえた。まさに処刑する小銃の発射音だったという。 最後に記しておくのは、埼玉県史に書かれている兵士たちが、事件を指揮した青年将校たちの人間性に関して悪く言うものが誰もいないという点である。 生き残った彼らは事件に参加したというだけで反乱兵の汚名を着せられ、又軍務においては、後任指揮官の非常識な指揮により厳しい戦闘、軍役を強いられた。免官となって軍籍を離れた者たちも特高による監視を受け、不愉快な人生を送っていた。そして、なんという運命のいたずらだろうか、裁判にかけられ免官となった下士官は戦争に参加せず生き残った方が多いとのことである。一番の被害者は、事件後すぐに原隊に返され満州に渡った昭和11年1月10日に入隊した初年兵だったと、前述の元埼玉県知事畑和氏の記述にある。 しかし、「埼玉県史 別冊二・二六事件と郷土兵」の中で多くの下士官と兵が、中隊長の安藤輝三陸軍歩兵大尉に対し、人間としてまた上官としての心からの尊敬の念を口にしていることに驚かされる。 旧帝国陸軍おいて上官による鉄拳制裁は、普通に行われていたといわれるが、彼の隊においては鉄拳制裁を一切禁止していた。彼の部下想いは有名で、下士官兵に対して常に温かく接することで、安藤中隊の団結は他の中隊の及ぶところではなかった。 古参兵のみでなく、事件勃発の年の1月10日に入隊した初年兵の口からも異口同音に語られるのには驚きである。 31歳の青年将校安藤輝三大尉の指揮官としてまた人間としての資質、人間性は特筆すべきものがある。特に安藤大尉の当番兵として事件の前後、終始行動をともにした上尾市出身の前島清上等兵の記述は歴史的にも貴重である。安藤大尉が前島上等兵宛に処刑の前日にしたためた遺書は、世話をしてくれた部下に対する心からの感謝の気持と温かい大尉の人柄が良く現れており、涙を誘う。 『投獄に憂き目のその惨めは二度と体験するものではない。・・しかし、2・26事件に連座したことについて私個人としては決して後悔してはいない。なぜなら「小節の信義を重んじて大綱の順逆を誤った。」といわばいえ、日頃心服していた安藤大尉の憂国の至情に殉じ、今生最後の命令を忠実に実行したことに密かに喜びを感じるからである。但し私の命令で出動した部下の下士官兵の中にはその後数奇な運命にもて遊ばれたものも少なくないので、思い起こせば心中暗然たるものがあり、「もしもあの時・・」という悔いが決してないわけではない。』という柳下中尉(無機禁固判決)の一文を、このレポートの締めとして紹介する。 これが「埼玉県史別冊二・二六事件と郷土兵」の一部である。兵士たちの目線で見た真実の2・26事件がそこにあり、歴史書や下手な小説より迫力がある。 ある本では2・26事件を「軍部の独裁をもくらんだ青年将校の反乱」と評しているものもあるが、「埼玉県史別冊二・二六事件と郷土兵」の70名の将兵の証言やその他の2・26事件に関する本を読むとそのようには思えない。 むしろ、この事件に際して昭和天皇が「朕が最も信頼せる老臣をことごとく倒すは、真綿にて、朕が首を締むるに等しき行為なり」と述べ、事態の収拾に手間取る陸軍首脳に対ししびれを切らし、「朕自ら近衛師団を率い、これが鎮定に当たらん、馬を引け」とまで言い切った政治的発言が、決起部隊を反乱軍に決定してしまい統制派と呼ばれる陸軍独走をもくろむ集団にうまく使われたようでならない。むしろ昭和天皇の発言に統制派も皇道派もいずれもびびったというべきであろう。 この事件をきっかけに統制派が力をつけた陸軍は広田首相の組閣に公然と介入し太平洋戦争へと突き進む。奇しくもこのときの広田首相は東京裁判において文民で唯一死刑になったことは35号の「防衛庁市ケ谷ツアー」で紹介した。その意味から太平洋戦争の原因であり責任の根源はこの辺りに見えてくる。 従って、麹町ウぉーカーでは彼らのことをあえて反乱軍という表現は使っていない。歴史に「もしも」は禁句であるが、この事件は太平洋戦争への大きな転換点となったこの麹町で起こった我々日本国民が忘れてはならない大事件である。そして、憂国の念に突き動かされて決起した安藤大尉等の青年将校に思いをはせながら68年前の事件を自ら辿ってみることをお勧めする。 彼らは今、六本木ヒルズが見える麻布の「賢崇寺」に静かに眠っている。 ====================================== この時代を生きてこられた麹町小学校同窓会の方々のお話に触発され、事件のことを詳しく知ることができました。そして、麹町で起きた生臭い歴史の風を感じる事もできました。 二・二六事件については、様々な説があり又逸話もあります。 この特集を締めるにあたり、決起軍の「蹶起趣意書」から、順番に「陸軍大臣告示」「下士官兵ニ告グのビラ」 「復帰をうながすラジオ放送」を原本のまま並べてみました。H氏のレポートに出てくる若い兵士の気持が、わかるような気がするのは私たちだけでしょうか。 (大) 蹶起趣意書 2月26日 謹んで惟るに我が神洲たる所以は万世一系たる 天皇陛下御統帥の下に挙国一体生成化育を遂げ遂に八紘一宇を完うするの国体に存す。 昭和拾壱年弐月弐拾六日 陸軍歩兵大尉 野中四郎 陸軍大臣告示 2月26日午後3時30分 東京警備司令部 一、 蹶起ノ趣旨ニ就テハ天聴ニ達セラレアリ
「下士官兵ニ告グ」のビラ 2月29日 下士官兵ニ告グ
復帰をうながすラジオ放送 2月29日 兵に告ぐ、 戒厳司令官 香椎中将
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2004年2月26日午前5時配信