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============麹町ウぉーカーNO35================
今日12月8日は、1980(昭和55)年ビートルズの中心メンバーで平和主義者だったジョン・レノンがニューヨークの自宅アパート前で熱狂的なファン、マーク・チャプマンにピストルで撃たれて死亡した日です。 そして1941(昭和16)年の同じ日、日本軍がハワイ・オアフ島・真珠湾のアメリカ軍基地を奇襲攻撃し、3年6か月におよぶ大東亜戦争対米英戦(太平洋戦争)が勃発した日でもあるのです。 平和を求めたジョン・レノンの殺害された日と日米開戦の日が同月同日とは・・・。 「12月8日午前零時を期して戦闘行動を開始せよ」という意味の暗号電報「ニイタカヤマノボレ1208」が船橋海軍無線電信所から送信され、戦艦アリゾナ等戦艦11隻を撃沈、400機近くの航空機を破壊して、攻撃の成功をつげる「トラトラトラ」という暗号文が打電されました。元々は、ワシントンで交渉していた野村・来栖両大使がアメリカ側に最後通牒を手渡してから攻撃を開始することになっていましたが、最後通牒の文書の作成に時間がかかったため、事実上奇襲攻撃となってしまいました。 アメリカ軍は「リメンバー・パールハーバー」を戦争遂行の合言葉としました。 日本敗戦後、この戦争の終結として開かれたのが、連合軍による極東国際軍事裁判(東京裁判)です。そして前号で紹介した市ヶ谷記念館が裁判の行われた場所です。 前号に引き続きH氏に紹介してもらいます。 (大) ====================================== 『防衛庁市谷台ツアー』一番の目玉は「市ヶ谷記念館(旧1号館)」と呼ばれる建物である。この建物は、現在の防衛庁A棟の場所にあったもので、歴史的価値があるとして保護 玄関を入るとすぐに旧一号館の正面に付けられていた「大時計」と「桜の紋」が置かれている。正面が極東国際軍事裁判(東京裁判)が行われた大講堂がある。 しかし、大講堂自体は、もともと2階にあったそうであるが、現在は1階になっており、方向も南北が逆に再現されている。 広い講堂の入り口は少し下りのスロープになっている。これは「玉座」と呼ばれる正面の舞台から天皇陛下が前を見たときに正面の2階席が低く見えるよう遠近法を巧みに応用し、距離の割には遠くに感じられる工夫がしてしてあるのだという。 床はナラ材が組まれているが、建物を解体する際にすべて番号を付け、約7200枚中、そりやゆがみが出た399枚以外は復元時に、元の並びに組戻したという。 中に入ると東京裁判で唯一無罪の評決をしたパール判事の判決書がガラスのケースに収められている。さらに明治以来の軍服等が陳列されている。 大講堂の中では明治の初めから現在に至るまでのこの市ヶ谷台の変遷をまとめた広報用のビデオを見せられる。なかでも極東国際軍事裁判(東京裁判)のシーンではビデオを止めて、裁判の時の様子が説明された。 この後、この正面ステージに上がり先ほどの説明があった遠近感を実感して、右袖からステージを下りる一般用の階段の隣に天皇陛下専用の階段があった。この階段の下から数段は階段の板の中央部分が幾分盛り上がって作られている。陛下が足をかけたときに滑らないように足の形に合うように作れ、さらに上から数段は板の中央部が幾分削ってあり、足を置いたときに土踏まずから踵にかけて自然にフィットするように作られているのだという。スリッパを脱いで足を置いてみると普通の階段のように平らでなく足が板に妙にフィットすることが実感できた。 つぎに、2階に上り旧陸軍大臣室を見学した。ここは以前、陸上自衛隊東部方面総監の執務室として使われたところで、三島由紀夫が切腹した部屋でもある。 この部屋の奥の扉には、このとき総監の異変を聞きつけ中に入ろうとした自衛官に対して日本刀で斬りつけたときに付けられた傷が数箇所残っていた。 当時、三島由紀夫はこの部屋に「乱入」したとする新聞報道等があったらしいが、日本刀を総監にお見せするという目的で正規の手続きを経てこの部屋に入っているという話を担当の女性から聞いた。この部屋には陸軍士官学校や陸軍大本営部の大きな標識と共に陸軍大将等の任命状が陳列してある。 隣の部屋は「旧便殿の間」という天皇陛下が来られたときに休憩された部屋である。 部屋の正面には大きな鏡がはめ込まれ部屋が広く見える。この部屋の扉は外開きになっているのが他の部屋との違いであるという。普通の部屋は人を迎え入れるのに失礼がないようにという意味で扉は内開きとしているのだというが、天皇陛下の場合人を迎え入れるという立場にないためこのような作りになっているという。 この部屋には「御下賜の銀時計」と、昭和の初めに行われた「群馬県特別大演習」の大きな写真が掛けられてあった。この写真は階級順に並んでいるとのことで、当時中将であった山本五十六司令官が最前列右脇、少将になったばかりの東条英機が2列目中ほどであるという説明があった。 ところで2階席から講堂を見る光景が東京裁判の写真で我々が目にするアングルである。正面が連合国軍の関係者の傍聴席で、それに向って左側に裁判官席が作られ向って右側に被告席があった。 これについて案内の男性が二つエピソードを紹介してくれた。 一つは死刑判決を受けた七名のうちで唯一の文官、広田弘毅の話である。 広田は外相、首相として在任中は一貫して戦争回避の立場を取り続けたが、戦争を阻止できなかった責任があるとして裁判では一切の自己弁護を行わなかった。そして、判決は太平洋戦争に至る日本の侵略政策作成し、戦争の実行に対する罪で昭和23年12月23日絞首刑にされた。 広田は一度も自己弁護をしなかったが、法廷に入ってくると傍聴席にいるお嬢さんに顔を向け、微笑むと、そのあと着席したという。広田の妻は一度も傍聴に来なかったらしいが、広田が死刑判決を受けたあと自殺して先に死出の旅に出たという。それは「あの人(広田)にとって一番の心残りはこの私だから・・」ということであったという。なんという悲しい話であろうか・・そしてなんという夫婦愛であろうか。城山三郎の「落日燃ゆ」(新潮社)はこの話である。 もう一つは前外務大臣田中真紀子氏が防衛庁を訪れたときの話である。 真紀子氏は当時の防衛庁長官中谷元氏と議員の当選が同期で仲がよく、数回防衛庁を訪れていたらしく、この広田の話をして差し上げたという。 その後、再度訪れたとき、真紀子氏が講堂の東京裁判で広田の被告席があった辺りに来て「○○さん、この辺りよね!」と質問したらしい。周りにいた人は何のことか分からなかったということであるが、それは広田の話をロッキード事件で被告の身となった父田中角栄元総理大臣が、東京地裁の法廷に例の手を上げるポーズで現れたとき、傍聴席で目を合わせた真紀子氏本人の姿とダブらせていたのではないかと説明担当した男性が話しておられた。 「市ヶ谷記念館(旧1号館)」は昭和の歴史の詰まった建物であり、これ以外にも多くの話を聞いたが時間が瞬く間に過ぎてしまった。 政府機関による情報開示の流れの中で、国家予算の7%程を占める自衛隊の装備やPKO活動等の展示はなくこれで防衛庁の活動の理解を得らるものであるかどうか疑問ではあるが「市ヶ谷台ツアー」と銘打っている以上、これで致し方ないのではないかと思いつつここを後にした。 ======================================= 東京裁判は、終戦翌年の昭和21年(1946)5月3日から始まり、同23年(1948)11月12日の判決まで、2年と6ヶ月余の期間を費やしました。 そして、この裁判が提訴されたのは昭和21年4月29日、東條以下7戦犯が絞首刑に処せられたのは、昭和23年12月23日。 天皇家に縁のある日です。これは考えすぎでしょうか・・・・。 さてH氏のHPに「市ヶ谷記念館(旧1号館)」の写真が掲載されています。 アドレスが変更されています。お気に入りの登録はこのアドレスでお願いします。 メルマガのバックナンバーは次のアドレスへ |