Good Journey(よい旅を!)
八丈島
東京の南方海上287kmにある東山(三原山701m)と西山(八丈富士854m)の火山が繋がったまるでひょっこり尾ひょうたん島のような形をした島である。空港に降り立つとひょうたん島のメンバーが迎えてくれた。 時代劇では島流しの島として知られているが、確かに島流しであるが武家や破戒僧など知識人の島流しが多かったようで島の文化に大きな影響を与えているようである。1881年に全員放免になるまでの275年間に1900人もの人が八丈島に流されたという。 そして何より八丈島の公式な流人第一号は1606年の「宇喜多秀家公」の墓を訪ねて欲しい。秀家公の子孫は明治維新の1869年に赦免になるまで代々苦難の日々を過ごしたが、秀家公の妻壕姫の実家加賀藩前田家がその間支援を続けたという。 島の焼酎は薩摩の流人丹宗右衛門が島民の菊池秀右衛門が製造方法を伝えたといわれる。 島を楽しむためには島の中央の八丈島歴史民俗資料館は是非訪ねて八丈島の歴史と文化に触れて欲しい。 |
![]() |
大坂からの展望 パノラマ写真 案内板には「大坂は島一交通の難所で、ここを境に大賀郷、三根は坂下、樫立、中之郷、末吉は坂上と呼ばれている。隋道は日露戦争戦勝記念に掘られたが、その後莫大な費用を投入して隋道の拡幅や横間道路の皆朱をし、最近夢の逢坂橋が完成した。夕日の美観は八丈八景に選ばれている。そばだてる 巌に憂きを 隔てつつ夕日涼しく 越える大阪」とある。 八丈八景は「前崎晴風」、「大里晩鐘」、「尾端夜雨」、「神湊帰帆」、「名古秋月」、「藍ケ江落雁」、「大坂夕照」、「西山暮雪」の八景である。 因みに私の故郷鹿児島県南さつま市坊津町にも八景があり「中島晴嵐」、「深浦夜雨」、松山晩鐘」、「亀浦帰帆」、「鶴崎暮雪」、「網代夕照」、「御崎秋月」、「田代落雁」であるが、江戸時代の人々の美意識には一定のルールがあるようである。 |
服部屋敷 服部家の初代は下田の出身であるが、二代目から代々八丈島の官船のうち、小舟方のお舟預かりを勤めて莫大な資産を気づいた。 庭前の見事な蘇鉄は樹齢700年といわれている。当時の豪勢さがしのばれる堂々たる屋敷跡である。 屋敷の周りには八丈実記を書いた流人近藤富蔵の築いた玉石垣にかこまれている。近藤富蔵八丈島最後の流人で北方探検で知られる旗本近藤重蔵の嫡男である。1826年(文政9年)に殺人を犯して八丈島に遠島となり50年以上もの間、島で流人としての日々を送る。1880年(明治13年)にようやく明治政府により赦免。彼が流人生活の間に記した『八丈実記』は島の研究の資料として高く評価されている。 |
|
登龍峠 案内板には「八丈島一周道路農地、末吉と三根の間を登龍道路と呼びその際後部あたりが登龍峠で晴天には遠く三宅島や御蔵島が望まれ、眼前には八丈富士と八丈小島、眼下には底土港、神港港、空港や坂下市街地が一望の下に眺められ八丈随一の展望台である。 昔は三根から末吉に行くときは、天に登る龍のようなつづら折りの急な坂を越えたので越えたので登龍峠と呼ぶようになったという。」とある。 |
|
八丈島歴史民俗資料館 館内には流人文化を中心にした資料が数多く展示されており、八丈島の人々や流人の生活を雄弁に物語ってくれる生活用具や農耕具、漁具、機織具などのほか、先史時代の石器や土器、古文書、伊万里、古瀬戸などの陶器類、羅漢像、八丈の伝説を偲ばせてくれる為朝のよろいなどが展示されている。 八丈島を訪ねたらまず訪れて欲しい場所である。 |
|
宇喜多秀家公の墓 平安時代に伊豆大島へ流罪となった源為朝が渡来し、八丈小島で自害した伝説が残っているが、八丈島の公式な流人第一号は、慶長5年関が原の戦いに西軍石田三成方に属した宇喜多秀家である。 秀家の子孫は、秀家の正室であった豪姫の実家である加賀藩前田氏の援助を受けながら数家に分かれて存続し、明治維新後の1869年に至ってようやく赦免された。赦免と同時に直系の者は島を離れて板橋宿の加賀藩下屋敷跡に土地を与えられて移住したという。 |
|
ふれあい牧場 パノラマ写真 八丈富士の裾野に広がる牧場で、ホルスタイン牛とジャージー牛が放牧されています。 展望台からは空港や町の中心部、三原山など島の南部の風景が一望できる。 牧場の一番先には飛行機の発着の時刻表がある。 |
羽田からイルカの描かれた飛行機で1時間ほどで着いた。そして仕事の前に島寿司を食べ(亀の手の味噌汁があった)、仕事のあと島の周遊道を時計と反対周りを一周した。八丈八景の一つ大島夕照、服部屋敷、地熱発電所、登龍峠、八丈富士、八丈島歴史資料館、そして宇喜多秀家の墓、最後に八丈富士をめぐり、山の中腹にある牧場から八丈島の大展望を楽しみホテルに戻った。そして食事の後は八丈島の夜の街を梯子した。素晴らしい景色と歴史に大満足の仕事のついでの八丈旅行であった。 |