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Good Journey(よい旅を!)
川中島古戦場跡

川中島の戦い(かわなかじまのたたかい)は、日本の戦国時代に、甲斐国(現在の山梨県)の武田信玄(武田晴信)と越後国(現在の新潟県)の上杉謙信(長尾景虎)との間で、北信濃の支配権を巡って行われた数次の戦いをいう。4回あった戦のうち最大の激戦となった第四次の戦いが千曲川と犀川が合流する三角状の平坦地である川中島の地名から川中島の合戦という。
前半は上杉軍勝利、後半は武田軍勝利。武田方は武田信繁・諸角虎定・山本勘助など名立たる武将が討ち死にしているが、上杉方の主だった武将の犠牲はなかった。しかし北信濃の地は武田が制圧することになった。
八幡社
武田・上杉両雄一騎打ちの地
武田信玄と上杉謙信一騎打ちの像
 八幡社旧本殿
八幡社
御祭神は 誉田別尊(ほんだわけのみこと)、建御名方命(たけみなかたのみこと)が祀られている。
 武田信玄は八幡社様を中心として本陣を構え御祈願した為に命を免れたと言われる。
三太刀七太刀之跡
上杉謙信は疾風の如く長光の太刀を抜き放ち、馬上より信玄めがけて切付け信玄は軍配で受けたが、続く二の太刀で腕を、三の太刀で肩に傷を負った。軍配を調べたら、刀の跡が7カ所あったという。
執念の石

謙信を討ち損じた原大隅は、「無念なり」と傍らにあった石を槍で突いて開いた穴といわれる。
堤跡
武田信玄は1651年9月9日夜、ここ八幡原に本陣を構えるにつき、土塁を作り、土塁の名残です。
首塚
上杉軍が後退した後、信玄が海津城の城主である高坂弾上に命じ、敵・味方無く兵士の亡骸を埋葬した場所の一つ。 ちょうどその年は大変な塩飢饉に陥り、それを聞いた謙信は信玄と戦ったのは弓矢・刀であり、塩・魚ではないと大変感激をして、越後の塩を敵の大将信玄に送ったという有名な話。
川中島大合戦図

1561年(永禄4年)9月10日
佐久間象山像
1811−1864 江戸時代後期の武士,思想家。文化8年2月28日生まれ。信濃(しなの:長野県)松代藩士。江戸で佐藤一斎に師事し,神田で塾をひらく。天保13年老中真田幸貫に「海防八策」を提出。江川英竜に西洋砲術をまなび,勝海舟らにおしえた。嘉永7年吉田松陰の密航事件に連座。のち公武合体,開国を説き,元治元年7月11日京都で尊攘派に暗殺された。54歳。妻は勝海舟の妹。
【アクセス】
上信越道長野IC2.5km3分
JR長野駅→川中島バス古戦場経由松代行きで20分、バス停:川中島古戦場下車
2012年9月17日  撮影
 
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