Good Journey(よい旅を!)
西郷周終焉の地と南洲墓地・神社
幕末から維新の一番の英雄はと言われれば間違いなく西郷隆盛でしょう。 南洲墓地は鹿児島のシンボル桜島を前にして西郷を中心にして2023名の男達が眠っています。城山の洞窟を出て岩崎谷を300m下った場所で西郷は2発の銃弾に倒れた。そこで西郷は「晋ドン。ここらでもうよか。」といって東を向き皇居に伏し拝む西郷を別府晋介が介錯して果てた。それが下の満州翁終焉之地である。 そしてそこから少し離れた南洲神社には西郷とともに戦った薩摩と一緒に戦った諸藩の男達が6765名が祭られています。 |
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南洲翁終焉之地 鹿児島本線の線路の上にある。 鹿児島市城山12 |
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南洲墓地と右奥が南洲神社 鹿児島市下竜尾町15 |
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中央が西郷隆盛の墓 左側が桐野利明 永山盛弘 右が篠原国幹と村田新八 2023名が西郷を囲んで葬られている。 |
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西郷隆盛の墓 |
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南洲墓地の上部 |
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南洲墓地の下部 |
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南洲神社 御祭神 西郷隆盛命 配祀 桐野利明以下薩軍戦没者六千八百柱 沿革 明治13年1月1日参拝所建立 大正2年10月26日 南洲○堂建立 大正11年6月28日 南洲神社創建 例祭 9月24日 |
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西南戦薩摩軍戦没者名碑 ここには6765名が祭られている。 地区ごとにすべての戦死者の名前が書かれている。 ここで故郷南さつま市坊津町(西南方)の戦没者の名前を見つけた。 |
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岩村県令記念碑 土佐藩士岩村通俊 明治10年5月鹿児島県令になり城山の戦いが終わると旧浄光寺(現南洲墓地)に送られた西郷や桐野以下西郷軍の戦死者を丁寧に埋葬し、自ら墓碑を立てたという。 「西郷隆盛らの考えは、後の世に必ずわかってもらえる。」と信じていたという。 |
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庄内柿 庄内の偉人管臥牛翁(すげがきゅうおう)と西郷南洲翁との徳の交わりを機縁として山形県鶴岡市と鹿児島市が兄弟都市盟約を締結した昭和40年11月7日に鶴岡市から寄贈されたものです。 |
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勝海舟の歌碑 ぬれぎぬを 干そうともせず 子供らが なすがままに 果てし君かな 勝海舟 |
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南洲墓地前からの桜島 |
西郷終焉の地は城山の西郷洞窟から坂を下りて城山トンネルの前を横断してJR九州鹿児島本線沿いに100mほど入ったところにある。 案内板には「ズドン、ズドン!2発の銃弾が西郷隆盛の腰を大腿部を撃ち抜きました。城山洞窟を出てわずか300m、650歩でついに途は閉ざされたのです「晋どん、もうここらでよか」東を向き、皇居を伏し拝む西郷に、別府晋介の介錯の太刀が振り下ろされました。」とある。 |
【南洲墓地】 鹿児島市上竜尾町の南風病院の裏から入るとそこに大きな駐車場がある。 |
【北アルプスで見つけた西郷の書】 北アルプスの槍ヶ岳や穂高に上るために上高地から2時間程歩いた場所に徳澤園という山小屋があります。徳澤園は井上靖の「氷壁」の舞台として知られていますが、その山小屋の二階に上る階段に西郷が征韓論の後、鹿児島に帰った日に詠んだといわれる書がかかっていました。「山の話題徳澤園」 |