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Good Journey(よい旅を!)
関ヶ原石田三成陣地

関が原の合戦は安土桃山時代の慶長5年9月15日(グレゴリオ暦:太陽暦1600年10月21日)に、美濃国不破郡関ヶ原(岐阜県不破郡関ケ原町)を主戦場として行われた国を二分して行なわれた野戦。関ヶ原における決戦を中心に、日本全国で戦闘が行われた。徳川家康の覇権を決定付けた戦いである。
石田三成は豊臣政権の五奉行の一人。1560年近江国坂田郡石田村(現長浜市石田町)で生まれる。1574年は柴秀吉に見出される。1583年水口4万石城主となる。島左近を1万5千石で召抱える。1590年近江佐和山19万4千石の城主となる。武蔵忍城攻めの総大将として出陣するが、失敗する。1600年家康討伐のため出陣。関ヶ原の戦いに破れて七条河原で斬首される。(没年41歳)
笹尾山の石田三成の陣地
大一大万大吉(だいいちだいまんだいきち)、もしくは大吉大一大万と記された石田三成の紋。「万民が一人のため、一人が万民のために尽くせば太平の世が訪れる」という意味ともされるが、本来は「一」を「かつ」と読み、縁起の良い文字を重ねたものとされる。
左側に蒲生郷舎陣地
防馬柵
右側に島左近の陣地
笹尾山の左下にある関ヶ原北小学校
八重桜が見事だった。
佐尾山の山頂の展望台
笹尾山の山頂の石田三成本陣
関ヶ原古戦場石田三成陣地の碑
関ヶ原、展望台方面
関ヶ原合戦陣形図
1600年9月15日
合戦時の陣形
下の緑のボタンを押すと陣太鼓がなり、関が原の合戦の様子が説明される。

西軍84000名
東軍74000名
展望台前からの関ヶ原の全景

正面の桃配山の麓が徳川家康の陣地
ここで両軍15万人が戦った。
ここから見るととても狭い場所で戦いが行われたことがわかる。
平野の中央辺りの林のある場所が家康が戦いの最中に本陣を移した場所。
笹尾山の案内板には以下の通り書かれている。西軍84000人、、東軍74000名
1600年9月15日朝6時には東西両軍の布陣が完了し、8時ごろに戦陣が開かれる。10時ごろには東軍の家康公が本陣を最前線の陣場野に移す。12時ごろ小早川秀明が西軍を裏切り、大谷軍を側面から攻める。13時脇坂ら4対も西軍を裏切り西軍壊滅。14時島津隊中央突破を敢行。17時東軍圧勝。
9月17日、三成の居城佐和山落城。9月19日 小西行長伊吹山中で捕らえられる。9月21日三成湖古橋村(滋賀県木ノ本町)で捕らえられる。9月23日安国寺恵瓊京都で捉えられる。10月1日、徳川家康、石田三成、小西行長、安国寺恵瓊京都六条河原で処刑され梟首(きゅうしゅ:さらし首)に処せられた。
【アクセス】
関ヶ原ICから車で約5分ほど。国道365号線を伊吹山方面に進み小池北の信号を過ぎたその先200m程場所を右に入るとそこが関が原の合戦決戦後で、その先に笹尾山の駐車場があります。
関ヶ原駅から2km弱⇒関ヶ原北小学校の西隣にあります。  MAP
【その他】
ここだけでなく周辺に沢山の合戦の碑があります。関ヶ原の合戦の概要を知った上でゆっくりと時間をかけて回って見るととても有意義な一日が過ごせるであろう。特に薩摩人としてはこの近くにある昭和初期に薩摩の青年団が建てた島津義弘陣地碑を訪れたかったのであるが、日が落ちてきて伊吹山と三成の故郷長浜へ先を急いだため探せず残念であった。
2009年4月18日  撮影 CANON G10
 
夫婦で登る日本百名山 HOMER’S玉手箱 麹町ウぉーカー(麹町遊歩人) 会津見て歩記 甲府勤番風流日誌 伊奈町見聞記 鹿児島県坊津町 Good Journey