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Good Journey(よい旅を!)
上杉神社/米沢城

米沢城
伊達・上杉氏の居城で松岬城、舞鶴城とも呼ばれる。
米沢城は暦仁元年(1238年)に地頭の長井時広が築城したと伝えられる。長井氏は8代約200年間置賜地方を治めるが天受6年(1380年)に伊達氏に攻められ滅亡する。伊達氏は伊達・信夫を本拠とするが天文17年(1548年)に伊達晴宗が本拠を米沢に移す。
伊達氏が約210年ここを統治し、その後、会津藩主蒲生氏郷が入り(松ヶ岬城は蒲生氏郷が名付けた)、1598年に秀吉の命で会津に120万石に上杉景勝公が入ると、米沢城主は景勝の重臣直江兼続(2009年NHK大河ドラマ)となる。関が原の戦いで西軍についた上杉景勝は30万石に減封され後13代に渡り上杉氏の居城となり、1664年(寛文4年)後継問題で15万石となり明治を迎える。

上杉神社由緒記
 御祭神 上杉謙信 公
天正6年(1578年)3月13日、戦国の名将上杉謙信公が越後の春日山城に49才で急逝された時、その遺骸を城中「不識庵」に仏式を以て鎮祭された。2代景勝公が会津を経て米沢に移封されるに当り、祠堂を米沢城内に移して仏祭を修復し爾来260年に及んだ。明治5年に祠堂のまま神祭に改め、米沢藩中興の名君鷹山公を合祀して上杉神社と称し県社に列し、同9年には新たに神殿ができ初めて遷座祭を行なう。明治35年、往時の勤王の功により別格官幣社(国が管轄する官社の中で、皇室や国家に尽力した偉人をまつる神社)に列せられたが、(鷹山公は新たに摂社として松岬神社を創立して正面濠の外に鎮座)1946年(昭和21年)2月2日の神道指令による神社制度の改革によって社格を廃して現在に至る。
上杉神社のある米沢城跡の堀
上杉神社入り口
上杉謙信の旗印が立っている
伊達政宗公誕生之地
(1567〜1636年)
仙台藩62万石の基礎を築いた戦国武将で奥羽の覇者「独眼竜」として有名。永禄10年8月3日に米沢城で生まれる。幼名は梵天丸。18歳で家督し、会津の芦名氏等を破り領地を広げるが、政宗25歳の天正19年に豊臣秀吉によって岩出山城に「移される。その後、本拠を仙台城に移し仙台藩の基礎を築く。寛永13年江戸で死去。享年70歳。NHK大河ドラマ独眼竜政宗における「梵天丸もかくありたい」は流行語となった(1987年度平均視聴率39.7%は歴代トップ)。
上杉鷹山公の像

案内板には「上杉家十代藩主 貧窮の淵にあった米沢藩を卓抜な発想と大胆な政策によって再建した江戸時代髄一の名君として知られる。・・」とある。
上杉鷹山公に関する案内板の上記以下の詳細については写真外にそのまま転記する。
像の右には「なせば成る なさねば成らぬ 何事も 成らぬは人の なさぬなりけり 上杉鷹山公詠」という有名な碑が建つ。
上杉神社鳥居

上杉神社の隣にある稽照殿には、上杉家に関する宝物や遺品を納めている。2008年NHK大河ドラマの直江兼続の「愛の前立」てや、上杉謙信・鷹山公の遺品などや刀剣類が納められている。
上杉神社は米沢城本丸・・奥御殿跡
上杉神社本殿
祭神は上杉謙信公
明治5年(1872年)に建てられ上杉家の祖・上杉謙信を祀っている。
中興の祖上杉鷹山公も一緒に祀っていたが、明治35年に別格官幣社になるにあたり謙信公のみを祀る神社となった。
上杉謙信公像
享禄3年(1530年)1月21日、越後守護代長尾為景の四男(又は三男)・虎千代として春日山城に生まれる。初名は長尾景虎(ながお かげとら)。兄晴景の養子となって長尾氏の家督を継いだ。のちに関東管領上杉憲政から上杉氏の家督を譲られ、上杉政虎と名を変えて上杉氏が世襲する関東管領になる。後に将軍足利義輝より偏諱をもらい上杉輝虎と名乗る。武田信玄、北条氏康、織田信長らと合戦を繰り広げた。特に五回に及んだとされる武田信玄との川中島の合戦は有名。自ら毘沙門天の転生であると信じていたとされ、 「越後の虎」とも「越後の龍」とも呼ばれる。2007年のNHK大河ドラマ風林火山ではGacktが好演し57回紅白歌合戦でも甲冑姿で出演した。
松岬神社
上杉氏二代(初代藩主)の景勝、十代で米沢忠興の名君鷹山公、鷹山公の師細井平洲、米沢建設の恩人、直江兼続、鷹山公の下で活躍した米沢藩復興の功臣竹俣当綱、莅戸善政が合祀されている。
上杉鷹山公の像(背後が松岬神社
祭神として合祀されている2009年度のNHK大河ドラマの直江兼続(1560〜1619年)については「上杉景勝を支えた文武兼備の将。樋口惣右衛門の長男として坂戸城下(現新潟県南魚沼市)に生まれる、景勝の近習に選ばれる。側近として活躍、重臣直江家をついで上杉家の中枢として軍事・内政を担当。秀吉の死後は景勝と共に徳川家康の対抗した。米沢30万石へ移封ごは町割や堤防・水路の整備、鉄砲鍛治の招聘、学問所「禅林文庫」の開設など城下町米沢の基盤を築く。元和5年江戸で死去、享年60歳。林泉寺に夫妻の墓がある。」と紹介されている。
兜の前立てが「愛」の字で知られる。
米沢牛の恩人
チャールズ・ヘンリー・ダラス
上の上杉鷹山公の像の向かいにある。
ダラスは旧藩校興譲館洋学舎の講師として招聘され、明治8年任期の満了で横浜に帰るにあたり、お土産として美味しい米沢牛を生きたまま持ち帰り、ご馳走したところ評判となり米沢牛が世に出るきっかけとなたという。ダラスお抱えのコック萬吉は米沢初牛肉店、「牛萬」を開いた。
上杉鷹山公の説明文の続き 
「・・宝暦元年(1751)7月20日高鍋藩主秋月種美(3万石)の次男として誕生。幼名松三郎または直松。母は秋月藩黒田長貞の娘春姫。春姫の母は(上杉家5代)上杉綱憲の娘である。宝暦10年、上杉重定(上杉家9代)の養子に迎えられ、明和3年治憲と改名。翌4年17歳で米沢15万石の藩主となる。
幼少から折衷派の儒学者細井平洲に師事し、実学一致の経世論を身につけた。藩主となるや大倹令・産業開発・藩校興譲館の創立・政務の革新等を断行し、隠居後も政務に参与して再建に務めた。米沢織、米沢鯉、深山和紙など鷹山の興した産業は現在に伝承されている。天明5年(1785年)養子治広に家督を譲って隠居し、鷹山と号した。民主政治の原点を示した「伝国の辞」はこのとき新藩主治広に与えたものである。 文政5年(1822年)3月12日没、春秋72 上杉家廟所に眠る。
追文
アメリカ合衆国第35代大統領J・Fケネヂィーが日本人記者団の質問の質問に「日本の政治家で最も尊敬しているのは上杉鷹山である。」とこたえたとはちま〇に有名である。さらに最近では、我が国の行政改革の先駆者としての公の名は高まるばかりである。わが故郷米沢が世界に誇る偉人をさらに永く、広く世人に知らしめるため、ここに「上杉鷹山公像」を建立するものである。
平成4年5月 米沢中央ローターリークラブ 姉妹クラブ上越中央ライオンズクラブ」

神社の前の上杉城史苑には大きな駐車場もあり米沢の名物を販売する場所や米沢牛を食べることができる。   休日になると大きな駐車場が満車となることも多い・・。  地図
2008年10月5日  撮影 CANON G7

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