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Good Journey(よい旅を!)

名古屋城

名古屋城(なごやじょう)は、尾張国愛知郡名古屋(愛知県名古屋市中区・北区)にあった城郭で、現在は名城公園として整備されている。尾張徳川家17代の居城で金鯱城ともいう。伊勢音頭にも「伊勢は津で持つ、津は伊勢で持つ、尾張名古屋は城で持つ」と歌われ、大坂城、熊本城とともに日本三名城に並び称される名城である。天守に取り付けられた金の鯱は城の別名ともなっている。

名古屋城の遠景
手前にこの城を築城した加藤清正公の像がある。
加藤清正公像
お城の中には天守閣の上に聳える鯱が飾られている。
清正公石曳きの像
天守閣の石塁の構築を命じられた加藤清正公は、巨石の運搬に際し、自ら音頭をとって、木遣(きやり)を歌わせ民衆の老若を問わず引綱をとって運んだと伝えられている。
清正石と呼ばれる巨石があるがこの普請は黒田長正であり伝承とは異なるところもあるようである。
「藩訓秘伝の碑」
この碑文は初代藩主・徳川義直の直撰「軍書合鑑」の中にある一項の題目で勤皇の精神について述べている。
歴代の藩主はこれを藩訓として相伝し明治維新にあたっては親藩であったのに勤皇帰一を表明したといわれている。この碑の位置は二之丸御殿跡である。
「王命に依り催さるる事」と彫られている。
青松葉事件(あおまつばじけん)
慶應4年(1868)1月、鳥羽伏見の戦争直後に起きた事件。京都にいた藩主慶勝公は国許から佐幕派のクーデターの動きがあるという注進を受け京都から帰城するや、渡辺新左衛門在綱、榊原勘解由(かげゆ)正帰、石川内蔵允(くらのじょう)照英の三重臣を「朝命によって死を賜るものなり」と告げただたでその理由を言うことも、また何の抗弁の機会を与えることなく、斬首に処した。その後も藩内佐幕派の十一人を斬刑としたという事件である。真相は不明であるといわれる。
事件名は、処刑された重臣の筆頭格である渡辺在綱の家が「青松葉」といわれていたことからとっている。
二之丸茶亭
二之丸庭園にふさわしい風格をもち点茶のための座敷や水屋などがある。
紅葉の季節であり立派なお城と素晴らしい紅葉を楽しんだ。
不明門(ふめいもん)
多聞塀の下をくぐる埋門で本丸御殿の大奥へ通じる秘門であり、、常に鍵が厳重に施され、別名を「あかずの門」といった。塀は外部の軒桁を忍返しにした「剣塀」である。昭和20年5月14日、空襲で天守閣などとともに焼失。昭和53年3月原型どおりに再建した。
石垣の刻銘
石垣の築造は丁場割りに基づき加藤清正をはじめ20の諸大名に分担させものである。
天守閣の石垣は清正一手の築造であり、その4箇所の隅石には銘石を使用し、担当した家臣の名を刻んでいる。
なお東北隅北面石には「加藤肥後守内小代下総」と刻銘されている。
そのほか串刺しのダンゴのようなデザインの彫りのある石もある。
剣堀から望む天守閣
ここから望む天守が一番迫力がある。
名古屋に出張し、一泊した早朝にお城を訪ねてみた。以前赴任した会津若松の鶴ヶ城とは規模が格段に違う。薄曇の早朝の名古屋城は写真を撮るには今ひとつの条件であったが、静かにお城を楽しむことができた。時代劇では御三家の筆頭でありながら何かと江戸の将軍家と対立するように描かれる尾張徳川家であるが、「藩訓秘伝の碑」にかかれたように尊王の家訓があったとは知らなかった。
麹町ウぉーカー71号で紹介した麹町に屋敷があった成瀬隼人正は尾張藩付家老である。
2003年11月28日  撮影 CANON IXY300

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