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七面山
 (シチメンサン:1989m)
2009年8月29日(晴れのち曇り)
私達夫婦2名のパーティー

七面山(しちめんさん)は山梨県南部身延町にある身延山の西側にある日蓮宗諸宗派の修験の山である。七面山は登山の山というより信仰登山の山で登山口から山頂下にある敬慎院まで一丁目から五十丁目まで一丁ごとに灯篭が閉てられている。白装束に「南妙法蓮華教」とお題目を唱えながら老若男女が登ってくる。参道はとてもよく整備されているが展望のほとんど無い。標高差約1500m程の急な登りがダラダラと続くため登山としては思ったよりつらい登山である(山頂まで約5時間)。信者の方は山頂の1時間ほど下の標高1710m地点に建つ敬慎院に宿泊するためゆっくりと時間をかけて登っている。
この七面山が日蓮系の宗派の信者が登る理由は、この山に本尊七面大明神が法華経守護の神様であるからだという。建治3年9月(1277年)頃、日蓮聖人が身延で説法をしていると、聴衆の中に美しい婦人がいた。南部実長(注)はこの見覚えのない美女を何者であるか不審に思うと、日蓮聖人は婦人に「本体を皆さんに見せてあげなさい」と告げると、婦人は一丈(約3m)あまりの竜に姿を変え、「私は七面山にすむ七面天女で身延山と法華経の護法神です。」と言って七面山に飛び去ったという。
日蓮聖人が亡くなって16年目の永仁5年(1297)9月、日朗上人と土地の領主南部実長(下注)は七面山に登り、山頂の一の池の傍らに七面大明神をお祀りした。この後、七面大明神は法華経守護の神として広く信仰されるところとなったという。
また、お万の方(徳川家康の側室)が、白糸の滝(七面山の表参道の入口)で水行され、それまで女人禁制であった七面山に初めて登拝された。この後、男女を問わず霊験新かな七面大明神信仰が盛んになったという。
毎年9月18日夜〜19日朝まで久遠寺より法主が登山し例大祭を行なう。
【ルートタイム】
(1日目)
6時32分:羽衣一丁目登山口⇒6時38分:神力坊(二丁目)⇒7時27分:肝心坊(十三丁目)⇒8時7分:中適坊(二十三丁目:10分休憩)⇒918分:青雲坊(着)⇒9時38分:青雲坊(発)⇒10時26分:門)⇒鐘撞楼・手水場:1035分⇒10時36分:随身門:展望台⇒11時25分:七面山山頂(着)⇒
1200分:七面山山頂(発)12時38分:敬慎院(着)⇒13時05分:敬慎院(発)13時40分:青雲坊⇒13時53分:中適坊⇒1508分:肝心坊(10分休憩)1550分:神力坊⇒15時56分:羽衣一丁目登山口
6時32分 羽衣の元丁目
登山口 標高:505m
登山口の近くに駐車場とトイレがあります。
この元丁の灯篭は敬慎院の50丁目までつづく。
七面山の山頂はそこからさらに1時間ほど先である。
神力坊
開山:円教院日意
二丁目
登り始めてすぐに最初の坊がある。
6時38分
7時15分 十丁目
灯篭と休憩場所
灯篭には「〇丁目」と書かれている。敬慎院は五十丁目である。このカウントダウンを心の支えに苦しい登りを頑張る
登山道(参道)は信仰登山者でも登れるようにとてもよく整備されている。しかし展望がほとんどなく嫌というほどジグザグに登らねばならない。
バスの停留場のような屋根付きの休憩場所と寄進された沢山のベンチが設置されている。
肝心坊
十三丁目
各坊ではお茶のサービスがおこなわれている。そして休憩棟のなかには沢山の登拝記念のプレートが架けられている。
7時27分
8時7分 中適坊
開山:蓮信法師
二十三丁目
トイレの裏側に沢水が流れ出ている場所がある。中には120回登った信者の記念プレートや世界Jライト級チャンピオン上原康恒のプレートもあった。
9時18分
青雲坊
開山:善心院日修
三十六丁目
トコロテンがとても美味しい。酢醤油は500円黒蜜は650円でした。
2004年1月放送の日本テレビの”ロンブー龍”にロンドンブーツが北海道の熊の置物を買ってきて、色をピンクに塗りかえ、くわえた鮭を小判に換えたものを100体を七面山に運び上げて、御利益を・・・、と言う番組があった。
この熊はシリアル1の熊の置物である。青雲坊の女将さんがお願いしてもらったものだという。そこには田村敦の看板もあった。熊は全部売れたという。
足の裏には「2003年10月21日1/100とシリアルNany many money」と書かれていた。
ロンドンブーツ1号2号のテレビ番組の熊の置物
10時26分
和光門

その先の参道
古い〇丁目の灯篭が集められている。
手水場と鐘撞楼
標高:1710m
手水場の右側にある吉祥門をくぐると敬慎院に向かう。
鐘を打つことができる。
七面山のピークはここを左に登り、約1時間ほど登る。
10時34分
10時39分
富士山を展望する展望台と随身門
標高:1725m
随身門の中からの門を額縁にして富士山を見る。また9月23日辺りにここからダイアモンド富士が見える。
荷揚げ用のケーブルの小屋
これから先は信者たちはほとんど登らないようである。信者たちにとって七面山の山頂(ピーク)はあまり意味(興味)が無いもののようで、登りの途中で前日、敬慎院に泊まったという信者に「七面山の山頂はどこですか?」と聞いたら「大きな門のすぐ裏の展望台が山頂なのでは・・・」と答えられた。
聞く相手を間違ったと気づいたのは、登山道の踏み跡がなくなってきてた展望台を過ぎてケーブル小屋を過ぎた辺りであった。
信者は展望台から上のエリアにはほとんど入っていないのである。
10時42分
10時50分 ケーブル小屋から山頂までは踏み跡も少ない唐松の原生林の静かな登山道
この人の手の入っていない原生林は明るくて気持ちのいい登山道である。
しばらくして少し急になるが、傾斜が緩やかになるとそこから10分ほどで山頂である。
11時13分
ナナイタガレ
山頂手前にある。昔からこの辺りはガレ場が多く七面山の名前の由来になったという。
足元が崩れ落ちそうで恐い。
11時25分 七面山山頂
標高:1989m
地図では1982m地点に三角点が樹林の中にあるらしいが分からなかった。
高い木々で展望はない。
山頂と敬慎院、奥の院の辺りは身延町の飛び地、周りは早川町である。
日蓮宗の総本山身延山久遠寺の支院「七面山敬慎院」
標高:約1700m
日蓮宗の守り神と言われる七面大明神を祀る。
ここには約1000名が宿泊できるという。宿坊での食事は精進料理のみで、肉魚等の持ち込みも禁止されている。
日帰りでも中で休んでお茶をセルフサービスで頂くことができます。
日蓮宗関係諸派の信者にとって七面山に登るということはこの敬慎院まで来てお勤めをし、奥の院を詣でることのようである。
12時28分
白装束に「南妙法蓮華教」というお題目を唱え、また団扇太鼓を叩きながらたくさんの信者が登ってくる。

この日は約200人ほどの信者が登ってきて泊まるらしい。
13時11分
15時50分 白糸の滝
徳川家康公の側室お萬(養珠院)の方はお萬は日蓮宗の僧日遠に帰依し、ここで身を清めて七面山に登ったという。
元和5年(1619年)の8月、身延山で法華経一万部読誦の大法要を催し、満願の日に七面山に登拝した。
承応2年(1653年)に萬は死去した。
お萬の方は慶長7年(1602年)の3月に長福丸(後の紀州徳川家初代藩主・徳川頼宣)を、さらに翌年の8月には鶴千代(後の水戸徳川家初代藩主徳川頼房)を生んだ。
水戸光國(水戸黄門)の祖母ということになる。

水業を行なっているのか、信者の大きな掛け声が響いていた。
羽衣の登山口 15時55分
15時58分 橋の先に白糸の滝とお萬の方の像があるらしい。この先に白糸の滝とお萬の方の像があると知らず下山するが、橋を渡って立ち寄りたい場所である。
【アクセス】
早川町角瀬から約5km
【駐車場】
羽衣の登山口のそばと、川沿いに駐車場がある。
【水場】
敬慎院までの間にある各坊には水場とトイレがある。
【温泉】
下部温泉があります。
【その他】
河口湖西岸大石にある天然酵母を使ったとても美味しいパン「スローガーデン砧」。奥様とお嬢さんの二人で心のこもったサービスと美味しーパンを提供してくれる。河口湖五指に富士山の見える場所にありゆったりした時間を過ごすにはいい場所です。
【日蓮】
日蓮(にちれん)、1222年3月30日(貞応元年2月16日)安房国長狭郡東条郷片海(現在の千葉県鴨川市、旧・安房郡天津小湊町)の小湊で誕生。) - (1282年11月21日(弘安5年10月13日)入滅。鎌倉時代の仏教の僧。法華経の題目を重んじる諸宗派が宗祖とする。死後、皇室から日蓮大菩薩(後光厳天皇、1358年)と立正大師(大正天皇、1922年)の諡号を追贈された。
1260年(文応元年)7月16日に立正安国論を著わし、前執権で鎌倉幕府最高実力者の北条時頼に送る。この書は、地震・洪水・飢饉・疫病などの災害が起こる原因は、民衆や幕府が主に法然の念仏をはじめとする邪法を信仰することにあるとし、仏教経典を根拠に、正法たる法華経を立てなければ自界叛逆難、他国侵逼難などの災いが起こると説く。それゆえ他宗派の襲撃にあう。
1261年(弘長元年)幕府によって伊豆国伊東(現在の静岡県伊東市)へ流罪となる(伊豆法難)。
1274年(文永11年)春に赦免となり、最も信頼する日興の弟子であり、身延の地頭、波木井実長(清和源氏・甲斐源氏武田流)の領地に入山。身延山を寄進され身延山久遠寺を建立。
1282年(弘安5年)、10月13日辰の刻(午前8時ごろ)、池上宗仲邸にて61歳で入滅。
【注:南部実長】
南部実長は甲斐国巨摩郡内に所領を有し、同郡波木井、御牧、飯野三郷の地頭職を兼ねた。文永6年(1269年)頃、これ以前より交流のあった日興の導きにより日蓮に帰依する。そして同11年(1274年)には、流罪を解かれて佐渡から鎌倉に戻った日蓮を波木井郷へ招き入れ、領内の身延山中に草庵を造営し守護した。弘安4年(1281年)、身延の草庵に十間四面の堂宇を建立寄進し「久遠寺」と命名、また実長も出家し
日円と号した。
南部藩八戸氏の祖で、長男実継の家系は陸奥国を地盤とする八戸氏(根城南部氏)として存続した。
2009年8月29日撮影 CANONG10

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