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=======麹町ウぉーカー(麹町遊歩人)No.87==========

パソコンで自分のメールボックスを開くと、迷惑メール・・・スパムメールが山ほど着信しています。中身は様々で、日本語だったりアルファベットだったり。読者の皆さんはどうやって防いでいますか?

最近はフィッシングメールというのが出回っているようです。フィッシングとは魚釣りじゃなくて、金融機関などからの正規のメールやWebサイトを装い、暗証番号やクレジットカード番号などを搾取する詐欺のことです。「釣り」を意味する「fishing」が語源ですが、偽装の手法が洗練されている(sophisticated)ことから「phishing」と綴るようになったとする説があるそうです。(IT用語辞典 http://e-words.jp/ より)

何を信じていいのか、わからなくなりますね。

 

さて今回は服部半蔵のお墓がある,お隣「四ツ谷」の西念寺をH氏がレポートしてくれました。

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JR四ッ谷駅前から新宿通りを新宿方面に歩き、最初の信号機の路地を左に入るとすぐに以前紹介した「鯛焼きのわかば」がある。「わかば」の前の路地を道なりに進み突き当りを右折すると、そこに「西念寺」という浄土宗のお寺がある。本堂の前に大きな銀杏の木があり、本堂を取り囲む立ち木の中に墓があって、とても落ち着いた墓地である。(新宿区若葉2丁目9番地)

春先には梅の花が真っ白な花を咲かせ、桜の季節には枝垂れ桜が美しい。本堂前境内を進むと本堂右側の角に他の墓とはあきらかに異なる耳飾のついた2メートルを超える五重塔のような形をした大きな宝篋(ホウキョ)印塔墓がある。

西念寺服部半蔵の墓

この墓が伊賀忍者の元締めで、「槍の半蔵」こと服部半蔵の墓である。台座の正面には「安誉西念大禅定門」と彫られ、左側には「三州住人服部石品五十五才」とある(右側は読み取れなかった)。服部半蔵の法名がこの寺の名前になっている。

 

服部半蔵は徳川家康の家臣で「徳川十六将」の一人である。本名は石見守正成で、通称は「大半蔵」。本能寺の変の際、堺に滞在していた家康公を一族挙げて護衛し伊賀を越えて無事国元に帰還させた。家康公が江戸入府後は与力三十騎・同心二百人と共に、江戸城の警護に当たり、半蔵門近くに屋敷を構えたのが「半蔵門」の地名の由来になっており、服部家は2代目のときに取り潰されたと麹町ウぉーカー第15号で紹介した。

この寺ははもともと清水谷にあったものである。服部半蔵は隠居した後、現在の麹町4丁目の海事ビルとその隣の参議院議員宿舎あたりに庵を構えた。文禄2年(1593年)家康公より寺院を建てるよう内命を受け清水谷に家康公の長男岡崎三朗信康を供養するために西念寺を作ったという。しかしながら半蔵はこれを果たせず、寺の完成をまたず、慶長元年(1596年)に55歳で没した。そして寛永11年(1634年)清水谷にあった西念寺は、江戸城拡張工事に際して現在の場所に移したという。

ここ西念寺には、三方ケ原の戦(元亀三年1572年)で手柄をたてた服部半蔵が、浜松城で徳川家康から拝領したといわれる槍(新宿区登録文化財)があるというが、残念ながら公開されていない。この寺に何回も通っているうちに寺の関係者からこの槍は穂先が少しかけており、実戦用ではないのではないかという話を聞いた。

 

現在、服部半蔵の墓の裏(本堂右側)には、五輪塔の「岡崎三朗信康供養塔」(高さ269cm)がある。台座の石には凡字の下に「青龍寺殿 前三州達岩 善通大居士」と彫られている。《その塔の脇からは新宿副都心が一望でき、新宿のドコモタワービルが青空に映える場所である。》

この供養塔は徳川幕府成立の過程で徳川家康公が舐めた辛苦の歴史の物語るものである。岡崎三朗信康は、永禄2年(1559)3月、今川義元の人質だった家康公と今川一門の関口刑部少輔の娘(今川義元の妹の娘で姪になる)「瀬名姫(築山御前)」との間に、嫡子として駿府で生まれ、家康公の幼名竹千代を襲名する。

西念寺岡崎信康の供養等

翌年家康公19歳のとき当時徳川家は今川家を捨て織田家と同盟を結ぶこととなった。信康は同6年に織田信長の娘徳姫と、共に5歳で婚約し4年後に結婚する。12歳で元服して信長の「信」と家康の「康」をもらい岡崎次郎三朗信康と名乗った。15歳にして初陣し、勇猛で才略あり、家康公も将来を嘱望していたという。

ところが、徳姫は父信長に、信康との不和、乱暴な手打ち、甲州の武田との接触等12ヶ条にわたる所業をしたためて送った。これが信長の激怒を買い、「反逆の意」有りとの口実で信康の自刃と共に、信康の母築山殿の殺害を家康に命じた。

天正7年(1579) 8月29日、築山殿は岡崎から浜松へ向かう途中、遠江富塚で家康公の家臣により殺害されてしまう。墓所は浜松西来院。法号「清地院殿潭月秋天大禅定法尼」である。

この直後の天正7年(1579) 9月15日、家康は信康を二俣城へ送り、城主大久保忠世、使者天方通綱(あまかたみちつな)、服部半蔵に命じて、信康に腹を切らせた。このとき半蔵は信康の介錯をすることができず、天方通綱に代わってもらったという。

信康21歳であった。信康の墓は天竜市の清竜寺にある。

このとき検使をつとめた半蔵はこの時の事が心の傷となっていたらしく、前述の通り隠居と同時に信康供養のため清水谷に西念寺を造るのである。これは父である家康公にとっても一生の傷だったのであろう。戦国のならいとはいえ生き延びるために自分の長男を切腹に追い込まざるを得なかった無念が、半蔵の隠居とともにこの寺を作らせたのであろう。

この事件に関しては諸説あるようである。

「徳姫陰謀説」:信康が側室を置いたことに嫉妬した徳姫が築山殿の内通をでっちあげて信長に通報したのが原因。

「信長陰謀説」:織田信長が徳川氏の力を削ぐためにその優秀な後継者である信康を殺害させた。

「於大の方陰謀説」:家康の生母於大の方は彼女の兄は織田家に仕えていたため、今川の支配下にあった広忠(家康の父)は彼女を離縁。そこで於大の方は今川氏を憎んでおり、今川一族の家康公の正室築山殿を亡き者にしようとした。それを察知した築山殿は思い余って武田に援助を求め、それを察知した徳姫がこのことを信長に通報した。

そのほか「岡崎衆クーデター説」等諸説入り乱れている。 

 

最後に築山殿事件に関する話題を幾つか紹介する。

このいわゆる「築山殿事件」は徳川家康公に関する映画やテレビドラマでは必ず描かれる。麹町遊歩人がこの事件にはじめて触れたのは大学の「日本法制史」の講義であった。死刑制度に関する講義の中で築山殿事件に関して築山殿と淫行をかさねた家臣を岡崎の城下でノコギリ挽きの刑にしたという話である。築山殿と関係したという家臣が首まで埋められ竹のノコギリが当てられ、道行く人に引かせて処刑したということが記憶に残っている。(この日本法制史の教授は映画「一心太助」の天下のご意見番として知られる名物旗本の末裔である。卒業式の日に文京区音羽のご自宅に押しかけてこの話しで盛り上がったことを思い出した。)

それにもうひとつ、麹町遊歩人が現在住んでいる埼玉県北足立郡伊奈町は関東郡代伊奈氏の陣屋があったところからこの地名がある。

この伊奈忠次は服部半蔵の最初の大手柄である伊賀越えに同行している。実はこのいきさつが面白く、忠次の父は岡崎信康の家臣であったが築山殿事件があり岡崎を出奔して堺に住んでいた。忠次も父に従って堺に住み成人したが、本能寺の変が起こり、伊賀上越えに従いそこで見出される。特に河川改修の技術は武田信玄の甲州流を引く伊奈流(関東流)といわれるものである。江戸時代初期における関東の領地運営の実務者として検地を行い、江戸湾に流れ込んでいた利根川を太平洋側の銚子に付け替えをし(東遷)、新田開発、宿場の整備など江戸幕府の基礎がために功をなし代官頭のうち唯一世襲を許され、3代目から関東郡代となった。

以上築山殿事件に関する話題を拾ってみた。

 

その他、この西念寺のすぐそばに2・26事件で命を落とした斉藤實内大臣の私邸があった場所であり(新宿区若葉1-21-4)、その前の坂を上るとレストラン「オテル・ドウ・ミクニ」があることは麹町ウぉーカー66号で紹介した。

またこの寺の近くにある愛染院には麹町ウぉーカー31号で紹介した「塙保己一」とその息子「塙次郎」の墓もある。

 

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さてH氏のHPでは、地元の伊奈町見聞記が更新されていますよ。

http://homer.pro.tok2.com/index.htm

 

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 (大)

平成16年12月19日配信


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