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===========麹町ウぉーカー(麹町遊歩人)No.81=============

アテネオリンピックが終了して、少々寂しい感もあったのですが、今プロ野球は来期の構想で球団経営側と選手側とで盛り上がりを見せていますね。取りあえず25日26日の2度目のプロ野球ストは中止となったようですが・・・・・。

そして北海道では、同じプロ野球でも違う盛り上がりをみせています。北海道日本ハムファイターズが、最終戦を勝利し、暫定ではありますがパリーグのプレーオフに参戦することに決定しました。札幌ドームの最終ホームゲームでは、観客動員数が4万人を超えるほど盛り上がりました。『夏の甲子園の参来か!』こんな夢と期待を抱いてしまうのも、ファイターズが北海道地元のプロ野球チームになった証拠でしょうか。毎朝の通勤電車で日ハムの室内練習場の前を通ります。練習場の壁に描かれているファイターズの球団マークが日に日に大きく見えてくるようです。 http://www.fighters.co.jp/

 

さて、麹町界隈はお彼岸も過ぎ連日30度を越していた猛暑も去って、過ごしやすくなってきました。H氏は、景観が一変した「心法寺」を再訪しました。

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麹町6丁目のUFJ銀行麹町支店と「鮨たちばな」との間の路地を入った所にある心法寺は、千代田区内で唯一墓地をもつ歴史のある寺である。江戸幕府御庭番で遣米使節の副使を勤めた村垣淡路守(むらがきあわじのかみ)の墓があり、さらに酒樽(男山)の形をした墓や、本堂脇にある鐘に江戸の初期にこの辺りが「山の手」と竹尾善筑の墓呼ばれていた記述があることなど、麹町ウぉーカー18号で紹介した。

今回は、更に心法寺に墓がある「竹尾善筑(ぜんちく)」、「真野是翁(ぜおう)」、「井沢弥惣兵衛」を紹介しよう。

 

「竹尾善筑(ぜんちく)」 

江戸時代の儒学者、勤皇家で明和事件(江戸時代中期におこった最初の尊王運動)幕府により1767年(明和4)に処刑された「山県大弐(だいに)」の孫で故実家(儀式・法制・作法・服飾などの古い規定や習慣に精通した人)、考証学者である。竹尾善筑は天明3年(1782年)生まれで増上寺で学び、のちに幕府の茶坊主になっている。名は「次春」で「善筑」は通称で、号は「覚斎」、僧名は「摂門」である。天保10年(1839年)没。著書に「三緑山志」、「類例略要集」等がある。法名「遠塵院常誉察阿覚斎居士」

麹町ウぉーカーが甲府勤番の折(甲府市に勤務したとき)、甲府の隣町の竜王町に竹尾善筑の祖父山県大弐を祀る山県神社を訪ねたことがある。山県大弐は甲斐国現在の山梨県竜王町の出身であり、山県大弐を学問の神様(御祭神)として祀っており、毎年秋に「学問祭り」が行われていた。さらに連歌発祥に地といわれる甲府市の酒折神宮に山県大弐謹撰の「酒折祠碑」が建っているのを見たことがある。

山県大弐ついては江戸開府400周年記念事業公式サイト「江戸net江戸人物事典」でも紹介されていた。

 

「真野是翁(ぜおう)」

 江戸中期の故実家、甲冑製作の専門家である。名を「真野安道」といい、「是翁」は号である。享保17年(1730年)に生まれ寛政九年(1797年)に没した。真野是翁の父親は尾張の人「真野安代」で父の学を受け継ぐと共に、江戸に出て伊勢貞丈に師事し後に武家の故実の一流派「真野流」を立てた。門弟に教授の傍ら甲冑を製作したことで知られる。著書に「甲冑製作全書」、「故実真野家」などがある

 

「井沢弥惣兵衛」 

井沢弥惣兵衛の墓江戸時代初期の土木家である。寛文3年(1663)に紀伊国(和歌山県)溝口村(現在の海南市)に生まれた。土木技術に才能を発揮し、紀州藩に仕え、徳川吉宗が8代将軍になると幕府勘定方になる。この井沢弥惣兵衛の最大の功績は見沼代用水を完成させたことである。現在さいたま市に「見沼区」という地名あるが、江戸の初期旧浦和市東部一帯は見沼という沼があった。それを米の増産のため関東郡代伊奈氏の手により干拓した。それに代わる灌漑用水が必要になり、利根川の水を下中條(行田市)から引き入れ、距離60qにおよぶ見沼代用水路を掘り進め、周辺に新たな水田を開いた。これだけの大工事にもかかわらず着手してから半年という短期間で用水路を作り上げたと伝えられている。

さらに享保16年(1731)に、この見沼代用水と芝川を利用し船で江戸との水運の便を図り、米等の物資の輸送を効果的に行えるようにするため、JR武蔵野線東浦和駅側に、現在のパナマ運河と同じ方式で約3mの水位差を3箇所の関で調整して船を通す閘門(こうもん)式運河(見沼通船堀)を作った。これは我が国最古のもので国指定史跡になっている。なんとパナマ運河の180年前に作られたものである。弥惣兵衛は元文3年(1738)に75歳で没し、麹町の心法寺に葬られた。法名「崇岳院殿隆誉賢巌流英翁居士」

彼が作った埼玉県白岡町柴山元荒川にある見沼代用水「柴山伏越」の前にある常福寺には、心法寺から分骨した井沢弥惣兵衛の墓がある。「柴山伏越」というのは、元荒川の川底に樋をとおしてサイフォンの原理で水を交差して流すという凄い工事である。遠くに富士山と筑波山が描かれた元荒川と見沼代用水が交差している当時の絵を観ると、この工事の凄さを見事に物語っていることがわかる。

江戸時代の見沼代用水「柴山伏越」を描いた絵(筑波山と富士山が描かれている)

弥惣兵衛は見沼の開発のほか飯沼(茨城県)の開墾、手賀沼(千葉県)の新田開発、中川水系(埼玉県)や多摩川の改修なども手がけた。彼の土木技術は、自然の地形を利用する関東郡代伊奈家の関東流(甲州流)に対して、起伏の激しい山地の治水に適した紀州流と呼ばれ、井沢は紀州流の開祖といわれている。 

 

昨年、自宅から見沼代用水に沿って妻とハイキングをしていたとき、埼玉県白岡町柴山元荒川の「柴山伏越」の前にある常福寺の由来を読んでいた妻が「この墓は麹町の心法寺のものを分骨としたらしい・・」ということを見つけた。このことが、今回のメルマガを書くきっかけとなった。また、このハイキングで日比谷公園の設計者で松本楼の脇にある「首かけ銀杏」で知られる「本多清六博士」に関する情報を菖蒲町で見つけたので、いずれ日比谷公園をレポートしたときに紹介しようと思う。

 

最後に、心法寺にある「麹町ウぉーカー」で紹介した墓の場所を案内しよう。

「村垣淡路守」の墓は本堂の真裏にあり、昭和20年に戦災で焼けたのを移転したらしく、正面に村垣家の墓があり、その右側に建っている。

「竹尾善筑」の墓は本堂右側にある庫裏との間の渡り廊下をくぐり、桜の枝の下を直進して棕櫚(しゅろ)の木の裏、左側に笠付きの墓がある。

「真野是翁」の墓は本堂左前にあるお地蔵様の脇の門を入り、六地蔵沿いに直進すると、道が三本に分かれるがその右側の道を直進すると墓の中央ほどに1本だけ生えている梅の木の前に建っている。

男山の酒樽の墓「井沢弥惣兵衛」の墓は本堂左側にあるお地蔵様の脇の門を入り、六地蔵沿いに直進すると、道が三本に分かれるがその左側の道を10メートルほど直進すると前述の「真野是翁」の墓の左斜め後ろ辺りに建っている。

 

余談であるが「男山」と彫られた酒樽の形をした墓は、六地蔵の右から2体目のお地蔵様の前にある道を入り7メートルほど進んだ左にある。40センチほどの高さしかなく見過ごしてしまうので注意を要する。

 

心法寺の墓地と隣にできたイトーヨーカ堂グループの本社ビル

平成16年5月にこの心法寺の隣に、株式会社イトーヨーカドーと株式会社セブンイレブン・ジャパン等のグループの本社ビルが完成した。隣に建設されたため、基礎工事から、組み立て、最後のクレーンの解体作業までつぶさに見学させていただいた。そしてその工程を写真に収めさせていただいた。建設するビルの隣からの写真は工事関係者も持っておられないであろう。高層建築に際していつも疑問に思っていた大型クレーンの組み立てと完成後の解体の様子はとても興味深く、とてもスリリングでもあった。

そしてこの工事が進むなかで気がかりなことは、心法寺のお墓の隣にこのような大きな建物が建って、心法寺はビルに囲まれたさぞ殺風景な景観になるだろうなということであった。ところがそれは杞憂に終った。完成が近づいた春先に訪れると、心法寺奥の真新しいビルの壁一面には緑の蔦が、ビルの屋上には木々が植えられ、歴史ある心法寺の景観に溶け込み、何の違和感も無く、落ち着いた空間を作っていた。これを見た瞬間に思わずにっこりした。このビルの建設がはじまった平成13年当時は「二番町プロジェクト反対」等という看板も立っていたが、周りの環境との調和を図った設計と建築に「さすがに番町にビルを建てる会社は環境に気配りをしている」とつぶやいてしまった。

麹町・番町を愛する麹町ウぉーカーとしては心から感謝したい景観である。

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H氏が感心した新しい心法寺を囲む景観はH氏のHPでご覧ください。

そして、甲斐駒が岳登頂の様子もアップしていますよ。

http://homer.pro.tok2.com/index.htmlll

 

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http://www.mag2.com/m/0000073086.htm

(大)





平成16年9月26日配信


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