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======麹町ウォーカー(麹町遊歩人)NO60=============

街にはクリスマスソングが流れ、いよいよ師走がやってまいりました。

昨年、同じ時期に「ジョンレノンの命日と太平洋戦争開戦の月日が一緒だった」と

このメルマガで、配信しました。(NO35号防衛庁市谷台ツアー

あれから、もう一年経ってしまうのですね。

今年の春には、英国大使館・千鳥が淵・市ケ谷から飯田橋の土手と随分歩き回り近辺の桜を頻繁に取り上げました。それも、半年前以上のことなんですね。

麹町ウォーカー編集室は2週間サイクルで締切りがやってきますので、やっぱりこの一年を振り返ると、月並みですがあっという間ということでしょうか。

そして、赤坂方面もよく歩きました。そのときに必ず通り抜けるか一休みするのが、

春に見事な桜も咲いていた清水谷公園でした。

今回あらためて、この清水谷公園をH氏がレポートしました。

=================================清水谷公園清水谷(紀尾井町)通りスナップ

千代田区紀尾井町のホテルニューオオタニ、赤坂プリンスホテルの間にある清水谷公園は、
この麹町ウぉーカーでも何度も出てきているが今回はその「清水谷公園」について紹介する。贈右大臣大久保公哀悼碑(クリックすると拡大写真と裏面がごらんになれます。

清水谷公園の総面積は約10,000uで、公園の中央には「大久保公哀悼碑」が建ち、その脇には小さな滝もある池(心字池)が配置されている。

奥の紀尾井町台地側の地形が丘陵状に勾配を持っており、種々の樹木が植林され喧騒な都会の一角にあるにもかかわらず鬱蒼とした樹木が繁り都心とは思えない風景である。昼休みなどは、高い木々の緑の木陰で静かに憩う人たちの姿があちこちに見られる。

「大久保公追悼碑」の右後ろには江戸時代の水道に使われていた以前No22号で紹介した玉川上水の石枡が置かれている。

更に公園の左奥には「偕香苑」と呼ばれる茶室のような建物が建っている。

この公園の左半分は平成13年6月から行っていた改装工事で新しくなった。そして平成14年に千代田区紀尾井町ローターリークラブによっていろんな木々が植えられ、それらの木々や植物に名前や解説のプレートがつけられており、日々何気なく見過ごしそうな草木の名前を知ることが出来る。

 

江戸時代のここは紀伊家、井伊家の屋敷の境にあり、この境が谷であったことと、紀伊家屋敷内に霊水(清水)が湧き出ていたことから、「清水谷」と呼ばれていたという。

そしてこの水が流れ出て赤坂の「溜池」となっていたといわれる。

 

ここに公園が出来たきっかけは明治11年5月内務卿大久保利通が自宅を出て赤坂仮御所に向かう途中、不平士族に暗殺されたいわゆる「紀尾井坂の変」が発生したことに遡る。大久保の馬車はプリンスホテルの下の弁慶掘り沿いに進んできて、現在「紀州徳川家屋敷跡」という碑が立っている辺りを左折して真っ直ぐ紀尾井坂に向かいって走り始めすぐに襲われた。清水谷公園の「大久保公哀悼碑」と弁慶橋との中間「赤坂維新号」という中華料理屋の前辺りあろう。清水谷公園が紀尾井町ビルの隣(裏)であることがわかる

当時の清水谷通りは両脇が桑畑や草むらでその上両脇が土手になっており逃げ場所もなかったようである。彼の死を悼んだ友人等によってこの辺り一帯がその年の内に寄進され、その後明治17年に「大久保公哀悼悼碑」が建立された。

しかしこの一帯が清水谷公園として整備されるのはそれからかなり経ってからで、当時の東京市が 明治22年(1861)5月都市計画を決定し、 明治23年3月に開園した。

明治9年頃の東京都の地図を見ると現在のプリンスホテルの場所が北白川宮邸でそれから文芸春秋、紀尾井ビル側一帯が「中教院」と書かれており、ニューオオタニの場所には壬生基修(もとおき)邸がある。清水谷は「中教院」の敷地の一部ということになっている。従って、前回紹介した行政裁判所(旧司法研修所跡)や紀尾井ビルはこの中教院の敷地内ということになる(「中教院は」は神社統制のための役所として設立されたがすぐに消滅した。)。

この「大久保公哀悼碑」はかなり大きな物で台座を含めると高さが6.27mほどあり、正面には「贈右大臣大久保公哀悼碑」と彫られ、その周りを上下に2匹の竜が囲んでいる。左面には「鐵道二等技師正六位勲六等毛利重輔督工事 廣群鶴刻字」と彫られ、裏側には漢文で大久保公を称賛する碑文が彫られている。

今回これを書くに当たってこの碑文をデジタル写真に撮り拡大して全文をテキストに落としてみた。

「嗚呼此贈右大臣大久保公殞命之所也公之在世身繋天下之安危

天子倚以為重一朝變生不測溘焉長逝悲夫自古忠臣烈士死干非命者

何根然概在哭亂之世擾攘之際乃公則功成名遂遇国家方隆之運将礼

亨太平之樂而遽罹此禍宜乎  九重震悼天下識興不識無不@?惜痛

歎也抑公既以身許国死生禍福一聴干天而不悔而其所施為赫赫在人

耳目則公雖死乎猶有不死者存焉距公之甍七年過此地者咨嗟歎息往

往低徊不能去於是僚友義故胥謀建碑以表追悼亦情之不可己也公之

勲業蔵在太史勒在桓a此特記建碑事由以告来A?

明治一七季十月 編修副長官従五位勲六等重野安繹撰

        内閣大書記官従五位勲五等金井之恭書繋」

@、A?はHPBで対応していないため表示できません。@は「小」偏に「宛」と各字です。Aは「玄」を並べた字です。

なかなか難しい漢文であるが、「千代田区教育委員会の裏面碑文内容の説明」によると「ここは大久保利通公が命を落とされた場所です。大久保公は天下の大事に身を投じ天皇陛下の信頼を得て重きをなした元勲です。突然の暗殺という悲運に会い命を落としました。昔から忠臣や烈士といわれる人々が犠牲の死に会うのは悲しいことですが、乱世や騒乱の常です。大久保公は明治維新の功績で名を揚げ、国がこれから栄え平和を迎える時にこの災いに会ったのです。大久保公の死は都の人達は勿論のこと天皇陛下も深く悲しまれました。大久保公を知る人で悲しまない人はありませんでした。大久保公の悲しい凶難から七年の歳月が流れましたが、この地を通る人々は、今でも嘆き悲しみ頭を垂れて行きつ戻りつ立ち去ろうとしません。ここに仕事で働く仲間達が皆で相談し、碑を立て大久保利通公への哀悼の意を表すことにしました。」とある。

 

清水谷公園の前の弁慶橋から紀尾井坂向かう通りは「紀尾井町通り」と呼ばれ、桜の季節は八重桜の名所であり、高級ブティックやブランドショップが並ぶお洒落な通りでもある。ニューオオタニ側には紀尾井坂側から「ブルガリ東京店」、「ジョルジオ アルマーニ東京店」、「ジャンニ ヴェルサーチ ブティック本店」、「ドルチェ アンド ガッバーナ」とフラワーショップ「レインボウ」そして 「 ホテルニューオータニ」のタワー・ガーデンコート1、2 階にある「サンローゼ赤坂」がある。「サンローゼ赤坂」の中にはさすがニューオオタニとうならせる「ヴァレンティノ」、「フェラガモ」を初めとする数多くの店鋪の高級ブランド店が立ち並ぶ。ここ清水谷は明治維新の悲劇と最新のファッションが共存する町である。

そしてこの清水谷は歌舞伎の尾上松緑、新派の水谷八重子など演劇界の大御所が軒を並べていた場所でもある。

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今回、インターネットで都内の公園・庭園を検索してみると、もすごい数のHPが掲載されていました。デジカメを持って、マイホームページを目的に、公園を散策している方も多いということですね。そんな中で、東京都立公園協会のHPを見つけました。

HPの中は都内の公園情報がいっぱいですよ。

URLをご案内しますので、近くの公園を探索されてはいかがですか。

http://www.tokyo-park.or.jp/

 

清水谷公園の写真がいっぱいです。(東京散歩HP)

http://homepage2.nifty.com/tokyo-walk/a034200.htm

 

H氏のHPにあった、懐かしい今年の清水谷公園の桜です。

http://homer.pro.tok2.com/sub8(2003sakura-wide1).htm

 

さてH氏のHPは、ただいま更新準備中でしょうか?

http://homer.pro.tok2.com/index.htmlll

 

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http://www.mag2.com/m/0000073086.htm

(大


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