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========麹町ウぉーカー(麹町遊歩人)No.109==========

久々のメルマガ配信となりました。昨年から今年にかけて、除夜の鐘とともにお送りした108号から一ヶ月以上も時がたってしまいました。はやいですねえ〜。

こんな記事を目にしました。

『東京・日本橋の上を走る首都高速道路の移設を検討する有識者会議「日本橋川に空を取り戻す会(日本橋みち会議)」の初会合が14日、都内で開かれた。』(2月14日読売新聞)

何かの本で、「いくら東京オリンピックのためとは言え、江戸の象徴である日本橋の上にコンクリートの首都高速を架ける役人の根性が情けない」と読んだ記憶があります。「池波正太郎」か「永六輔」のエッセイだったように思うのですが、記憶が定かではありません。(間違っていたらすみません)

この日本橋という名前の由来ですが、日本橋を渡った橋南詰めに、いくつかの案内板と共に、江戸の雰囲気を演出した瓦屋根の「日本橋由来の碑」があります。そこには「慶長八年幕府諸大名に課して城東の海浜を埋め、市街地を営み海道を通し始て本橋を架す。人呼んで日本橋と称し遂に橋名となる」と書かれています。

五街道の起点である日本橋ですが、正月の箱根駅伝で、各大学のランナーが日本橋を駆け抜けていくのをテレビで観ていると、高架下を潜っているとしか目に映りませんよね。歌川広重の東海道五十三次(版画)の最初の絵である『日本橋(朝の景)』のような江戸時代の空は蘇るのでしょうか?

江戸時代と言えば由緒ある地名が残っている麹町界隈ですが、今回H氏は麹町に接している赤坂の、ある地名に拘ってレポートを書き上げてくれました。

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東京に住んでいる人であれば赤坂の「溜池」という地名を聞いたことがあるであろう。一風変わった地名であるがはそれがどこにあったのかをはっきりと分かる人は少ないのではないだろうか。

元治元年(1864年)の「麹町六丁目尾張屋清七版」の「麹町永田町外桜田絵図」をみると赤坂見附の赤坂御門から山王下を抜けて現在の特許庁と日本財団の辺りにある堰まで、細長い溜池になっている。特許庁の前にある堰から出た水は文部省の辺りにある虎ノ門、新橋御門を抜けて海へ繋がっている。現在の赤坂見附から虎ノ門までの「外掘通り」は、かつて「溜池」と呼ばれた江戸城の外掘りであった。

この溜池は清水谷に水源を持つもので長さが約1.4キロ、幅45メートルから190メートルもあったという。上野の不忍池に次ぐ大きさであったといわれ、神田上水ができるまでは江戸の上水源でもあった。

溜池は、江戸時代中期にも一部埋め立てられ、明治8年頃(1875年)から本格的に埋立てが始まった。そして、明治15年(1882年)に今の特許庁付近に工部大学校(東京大学工学部の前身)を建設するため、堰の幅を広げると、急速に水が減少し、明治18年 (1885年)には湿地帯の中に細々と川が流れている状態になる。そして、明治21年(1888年)に、池であった場所に「溜池町」ができた。翌明治22年(1889年)になると池はほぼ埋め立てられ、その溜池町も昭和41年(1966年)には赤坂1・2丁目となった。

このため現在では溜池の面影はないが、総理大臣官邸下の外掘り通りの「溜池」という交差点と、東京メトロ銀座線の「溜池山王」という駅名にその名を残すのみである。

 

さて、この溜池は江戸時代に作られた人造の池である。慶長11年(1606年)に家康公に恩義を感じた和歌山藩主浅野幸長の家臣で甲州武田家の遺臣「矢島長雲」が、現在の特許庁前交差点附近に堰を造って水をせき止めたのが、本格的な溜池の始まりであるといわれる。堰を越えて流れ落ちる水の音がとても大きく、「赤坂のドンドン」と呼ばれていた。

 二代将軍秀忠公の時代には、琵琶湖の鮒や京都の淀の鯉を放したり、蓮の花を 植えたりして上野の不忍池に匹敵する江戸名所になり、その眺望は四季を 通じて美しかったようである。池の辺りは、茶屋が何軒も並び、赤坂田町、赤坂新町など、早くから町家が発達した。三代将軍家光公も子供のころこの溜池で泳いだと伝えられている。

さらに、溜池を含めた外堀は赤坂御門から虎之御門までの間は橋がなかったため、明治初めまで、北岸の高台にある日枝神社と赤坂田町との間に渡し舟があった。

切り絵図を見ると溜池の南側には桐木が植えられている。これはこの溜池を作る工事を行った矢島長雲がこの功績を後世に伝えるため、池の堤に紋所の榎を植えたと 『江戸名所図会』にある。現在ではアメリカ大使館から赤坂のツインタワーに下りる「榎坂」はその名残であるという。

さらに明治5年(1872年)には「日吉橋」が架けられ、橋銭として文久銭一文をとったため「銭取橋」「文久橋」とよばれたという。国木田独歩の「酒中日記」のなかにもこの橋を渡る様子が書かれている。

 

その他の赤坂、溜池界隈の話題を紹介しよう。

<赤坂と226事件>

226事件で首相官邸を占拠した決起軍は赤坂の「料亭幸楽」と「山王ホテル」を占拠した。料亭「幸楽」は後に大火事になったホテルニュージャパンとなった場所にあり、現在は赤坂に聳え立つ「プレデンシャルビル」でり、山王ホテルは「山王パークタワー」ビルである。(麹町ウぉーカー65号、67号)

 

<氷川神社>

アメリカ大使館の裏手にある氷川神社は忠臣蔵の浅野内匠頭の夫人遙泉院(阿久里)の実家である備後三次(びんごみよし)藩浅野家の下屋敷があったところといわれる。この備後三次藩は溜池を作った和歌山藩浅野幸長が次男浅野長晟(ながあきら)の代に福島正則の改易を受けて42万5千石で広島藩に加増転封となり、長晟の長男浅野長治は庶子であったため宗家は弟の光晟が継ぐが、幕府の許しを得て備後三次に5万石の分知が認められ、三次藩が成立する。しかしこの藩は子供に恵まれず5代で廃藩となる。

遙泉院は内匠頭の切腹後、実家に身を寄せ、亡き夫の菩提を弔いながら静かに余生を送ったといわれている。

 

<勝海舟邸跡>

氷川神社のそばの赤坂6−10−39は勝海舟が36歳の安政6年(1859年)から徳川慶喜に従って駿府(静岡)に移った明治元年(1868年)まで住んだ場所である。テレビや映画等で文久2年(1862年)11月、坂本龍馬らが海舟を刺殺しようとして訪れたものの、海舟の世界観に感激して攘夷論を棄て、門下生となるとで紹介されているのはこの場所である。

この地に住み始めた翌年(1860年)、咸臨丸の船長としてアメリカに渡航し、日本船として初めて太平洋横断を成功させた。

 

<一ツ木原古戦場跡>

赤坂五丁目のTBSの辺りは北条早雲の息子北条氏綱勢と上杉朝興軍との戦いがあり、逃げた上杉軍を追って北条勢がこの地で勝ちどきを上げた一ツ木原古戦場跡であるといわれている。案内板にはこの後、北条氏の関東制圧への第一歩を記した歴史的戦いの跡とされている。

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さて、今回取材した赤坂の起こりは、『見付から迎賓館に登る紀伊国(きのくに)坂のことで、坂上に茜(あかね)草が生えていて、赤根山といったためだ、という説がよく知られていますが、染物屋が坂に赤い絹を干したからだとか、今のTBSのところへ登る赤土の坂があるからともいいます。しかし「元赤坂」を称していた赤坂の集落の起源は、麹町へ上がる坂の右側にあって、それが寛永14年(1637年)に港区側に移ってきたため、こちらの地名になったのかも知れません。赤坂の文字を資料で見る初めは、明暦3年(1657年)の地図で、これにも千代田区側の坂上に記されています。その後まもなく、一木町、田町、新町、表・裏伝馬町を含めて、赤坂は、それらの頭にかぶせる地域名となったようです。明治5年には福吉町、霊南坂町、檜町などの町名も赤坂の内にでき、同11年に青山も含めて赤坂区となりましたが、昭和41年の住居表示で、もとの赤坂一帯を元赤坂1〜2丁目と赤坂1〜9丁目としました。』との事だそうです。(港区HPより)

 

実は、前回号の百八つの煩悩を表す除夜の鐘とともに、このメルマガを一時休刊しようと考えていた麹町ウぉーカー編集室でした。が、しかし200名を超える読者の方がいらっしゃる、このまま静かに終焉を迎えるのも・・・・等、諸般の事情(一番は、H氏も編集担当も書くことが大好き)を鑑み、不定期配信のまま続行することとしました。軸足は麹町に置いて様々な情報をメルマガに載せていきたいと、編集室一同気持ちを新たにしております。定期読者の方も279名と少しずつ増えてきています。

今後ともご愛読の程よろしくお願いいたします。

 

H氏のHPの「掲示板」には、いろんな方からお便りが着てるようですよ。

http://homer.pro.tok2.com/

 

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(大)

平成18年2月19日配信


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