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========麹町ウぉーカー(麹町遊歩人)No.100===========

父の日いかがでした?感謝されたり感謝したり、いろんな「父の日シーン」があったのでしょうね。

さて、今日6月19日に拘ってみると、「ベースボールの日」(1846年、3アウト・3ストライク等現行のルールの基礎となっているAカートライト編集の野球規則による最初の野球試合がニューヨークで行われた日)「元号の日」(645年蘇我氏を倒した中大兄皇子が、日本初の元号大化を定めた。以来平成まで247の元号が定められている。)

「桜桃忌」(1948年6月13日に自殺した作家太宰治の遺体が発見された日。19日が太宰の誕生日でもあることから、6月19日は「桜桃忌」と呼ばれ、三鷹市の禅林寺で供養が行われる。その名前は桜桃の時期であることと晩年の作品『桜桃』に因む。)といろいろな記念日になっています。

そして、メルマガ「麹町ウぉーカー(麹町遊歩人)」100号配信の記念日にもなりました。2001年7月から、なにはともあれ、ここまで配信が続けてこられたのは、愛読下さっている読者の皆様のおかげです。本当にありがとうございました。

100号記念号は、歴史のある「番町小学校」の話題を取り上げました。H氏の力作をどうぞお楽しみください。

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JR四ッ谷駅を出て主婦連会館(プラザ・エフ)の前の路地を入り、雙葉学園を過ぎると「千代田区立番町小学校」がある。通用門の左側に幼稚園があり、校舎と校庭の全容を望むことができる。小学校らしい鶏小屋などがある校舎の角を左折するとそこが番町小学校の正門である。

校舎の2階の壁には今まさに咲き始めたような真っ白な梅の花がデザインされた綺麗な校章が架けられている。

番町小学校創立100周年記念誌そして玄関の右脇には「創立100周年記念天皇皇后両陛下御行幸啓」の碑が建っている。

これが建立されたのは昭和47年5月10日とあり、平成17年の今年は創立約135年程という我が国に小学校制度が出来た明治の初めに出来たとてつもなく永い歴史を持った小学校ということになる。

そこで四番町の図書館に行って番町小学校の記録を調べてみて、再びビックリした。番町小学校、創立100周年の記録があったのであるが、それがエンジの布の張られた折りたたみ箱に入れられた物で、その中に「あゆみ」、「ことほぎ」、「いわい」、「よろこび」、「のぞみ」と表紙に書かれた5冊の冊子が収められていた。

その資料から同小学校の歴史を紐解いてみる。

明治3年6月12日東京府下仮小学校六校のひとつとして市谷八幡町洞雲寺内に創設された学校が番町小学校の前身である。そして翌明治4年12月4日仮小学校は小学校第二校と改称されこの日が創立記念日と定められ開校式が行われた。明治5年現在の下六番町小幡藩邸後に移転し、明治6年5月3日「第三中学区第一番公立小学校、番町小学校」と改称し設立が許可される。

明治32年12月に着任した第五代学校長「高橋鉄蔵」先生のときに当時「B徽章」を使用したいたのを改めて梅が半開きを徽章として定めたという。それには「開いて後に実を結ぶ・・本校の精神を象徴したものである。」という。

番町小学校100周年記念誌

明治41年12月4日校旗が制定されている。この校旗制定に辺り学校長の高野筆次郎氏は児童に対して「夫レ国ニ国旗アリ軍旗アリ及チ学校ニ校旗アル所以ナリ、仰々校旗ハ学校ノ生命ナリ、統一ノ基礎ナリ、衆生心ヲ一ニシテ校風ヲ発揮シ校名ヲ宣揚シ、小ハ以テ師父ノ教訓ニ副ヒ大ハ以テ国家忠良ノ臣民タランコトヲ期セヨ。」と訓辞している。

大正9年に創立50周年行事が行われて、これにあたり「創立記念記念日の歌」が作られている。校歌以外に創立記念日の歌を持っている学校は他に無いだろう。

ところが大正11年に不慮の火災で屋内体操場を残して校舎全焼。その工事中に関東大震災にあい、大打撃を被る。大正13年鉄筋コンクリート3階建て総坪1972坪の耐震火風学校ができる。

その後、以前紹介した麹町小学校同様に昭和7年保健室に太陽燈を設置し、虚弱児に週2回照射、希望児童に毎日牛乳一合を飲用、肝油服用等を励行。(麹町ウぉーカー75号)

昭和13年にプールができる。

昭和19年9月に山梨県富士吉田に疎開。20年5月25日大空襲のため校舎教具の大半は焼失。

このように伝統のある番町小学校も昭和22年には新制中学校の校舎に充てるため廃校になる寸前までいったが、父兄会や麹町地区有志の支援により存続することになった。

以前麹町ウぉーカーまで質問をいただいた都内池上にお住まいのK様のおばあ様の話では麹町小学校の児童はおとなしく、番町小学校の児童は活発だったということである。

スポーツに進学に両校良好のライバル関係は相当のもので、子供たちが土手で石つぶての戦争も行われ先生が割って入ったこともあったと聞いた。しかし何せ番町小学校は越境入学も認められていたためとても生徒数が多く、さらに都内屈指の優秀学校で有名中学への進学者も多く「番町小学校」、「麹町中学」、「日比谷高校」、「東大」という神話化されたコースがあったもといわれる。

 

行幸啓碑それに付けても、正門右脇にある「創立100周年記念天皇皇后両陛下御行幸啓」の碑には驚かされる。学校の創立記念日に昭和天皇と今上天皇が臨席したという学校というのは他にないのではなかろうか。

記録によると大正天皇も皇太子時代の明治19年10月26日に御台臨を仰いでいる。

そして戦後になり何度も天皇陛下・皇后陛下の行幸啓を仰いでいる。

まず昭和26年12月4日に天皇陛下の臨幸を仰ぎ、創立80周年記念式典挙行している。

さらに昭和36年12月4日には皇太子殿下、妃殿下(今上天皇陛下・皇后陛下)の御台臨を仰ぎ創立90周年記念式典を挙行している。

昭和39年6月マレイシア国王殿下、王妃殿下が来校している。

さらに昭和46年12月5日には創立100周年の集いが開かれ、翌年47年3月2日新校舎落成式し、同年5月10日には天皇・皇后両陛下の御行幸啓を仰ぎ創立100周年記念式典を挙行している。

その時の様子が「創立100周年の記録」の一冊に収められている。皇居のお膝元の小学校とはいえ、天皇・皇后両陛下の行幸啓がこれほど行われている小学校は他にないであろう。

ところで「明治4年12月4日仮小学校は小学校第二校と改称されこの日が創立記念日と定められ開校式が行われた。」と紹介したが、我が国の教育制度の草創期に関する文献を読んでいて面白いことに気づいた。

我が国の近代的な教育制度は明治政府の発足を受けて出された「五箇条のご誓文」の第5項中の「知識ヲ世界ニ求メ大ニ皇基ヲ振起スベシ」に始まり、それを受けて明治5年8月2日(1972年9月5日)の「文部省布達第十三号及び第十四号」により「学制」が発布され我が国の近代教育が始まったという。

ということは、番町小学校は我が国の小学制度が正式に発布される前に設置された日本でも有数の歴史を持つ小学校ということになる。

ところが以前、仕事で京都に出張したときに京都市役所と烏丸通りとの中間あたりにある私の勤務している会社の支店そばの御池通りに面した場所に「日本最古の小学校」というプレートを見たことがあった。番町小学校を取り上げるにあたり京都に住む友人にこのプレートを確認してもらったが工事のため撤収されており確認できなかった。かすかな記憶によれば「日本最初の小学校」の碑がありその下に明治2年にこの地に我が国最初の小学校ができた・・」というような内容だった。

後に調べてみると、この碑は明治2年(1869年5月21日)、ここの上京第二十七番組小学校(後の柳池(りゅうち)小)で近代小学校として日本初の開校式が行われたことによるものであった。

明治初期の京都には、上京・下京のそれぞれに「番組」という行政区画が置かれ、番組ごとに小学校が創設された為、「番組小学校」と呼ばれた。これらは、町衆による小学校創設構想に端を発したもので、私財を投じて柳池小に校舎や敷地を寄付した熊谷直孝を初め、多くの寄付がなされ、地域が一丸となって学校の建設が進められたという。こうして、明治政府が学制を発布する3年も前に京都には64校もの小学校が発足したのだという。

 

次に、番町小学校の校歌に関する話題である。

番町小学校の校歌は「作詞中村 秋番」、「作曲小山作之助」によるものである。小山作之助というと誰もが口ずさんだことがあると思うが「卯の花の匂う垣根に ほととぎす早も来鳴きてしのび音もらす夏は来ぬ」という「夏は来ぬ」の作曲者である。

この校歌には譜面は無いのだという。譜面が存しないため音楽の先生達に伝えられて、音楽の先生が自分で伴奏をつけているとのことである。これも驚きの伝統である。

 

「1. 我等がかざせるこの梅の

花こそ心のしおりなれ

学びの庭の霜雪に

たえて忍びてくずおれず

静かに春を待ちてこそ

世にかぐわしき花も咲けり

2.我等は今こそつぼみなれ番町小学校の正門正面にかかっている梅の校章

  ひらきてにおえるこの花は

学びのわざをなしとげて

春を待ちえし姿なり

いでこのかざしをしおりにて

かぐわしき名を世に立てん」

霜雪の中に春を待つ梅の花に、未来を夢見てがんばる子供達の姿を重ね、みずみずしい半開きの梅の芳しい香りが漂う詩であり、「開いて後に実を結ぶ・・」という半開きの梅を校章と定めたときの同校の精神が歌われた薫り高き校歌である。

 

最後に、この番町小学校の敷地の場所を古地図で見てみるとなかなか面白い。

江戸時代享保年間の地図を見ると「定火消し屋敷」がある。これは木挽町の定火消し屋敷の分署が出来たのだという。ところが後に廃止になり、元治年間の地図では長谷川平蔵で知られる「火付け盗賊改め」の屋敷になっている。

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今日6月19日の誕生花は「薔薇」です。

先日ある種苗メーカーで「薔薇育種家 河合伸志氏」の薔薇に関する講演を聴く事が出来ました。講演の中で「北海道は薔薇栽培に最適な気候」と・・・・・。

北海道はこれから薔薇の開花の季節を迎えます。

H氏のHPでは、満開の薔薇園を見ることが出来ますよ。

http://homer.pro.tok2.com/index.htm

 

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http://www.mag2.com/m/0000073086.htm

(大)

 

平成17年6月19日配信


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