戻る   甲府勤番風流日誌(第三巻)(山梨の名物編)

印鑑

山梨県の名産としてあげるべきものとして印鑑を上げることに異論はないであろう。

特に狭南と呼ばれる富士川沿いの人口4000人ほどの小さな六郷町は「はんこのふるさと六郷町」を標榜し、山梨県内の印章生産の70%、全国生産の50%を生産するという全国的にも有名なはんこ(印鑑)の町である。

この町では印章彫刻をはじめ、印材の製造、印材卸売、印章ケース、ケース用金枠、印袋製造、メッキ加工、ゴム印、表札、通信・外交販売など、材料、加工、販売までまるで町全体が一貫生産工場として成立している。

山梨が昇仙峡の水晶研磨加工技術を背景にして印章産業が発展したのは想像に難くない。しかし、この六郷町が水晶から直接印鑑産業に結びついたのではない。この六郷町は江戸時代には旧岩間村を中心に、農家が足袋(たび)の製造を副業とし「足袋の岩間」といわれる程の盛業を示し、行商の手によって市場をのばしていた。しかし明治に入ってから機械化による大量生産の製品が多く、また安く出回るようになると、地方の小規模企業は圧迫され、同時に足袋製造に欠かせないこの地方特産の藍の栽培が減少して、次第に「岩間足袋」は姿を消していった。もともと足袋産業で営業力を付けていた人達は、それを生かし、印鑑の注文を営業先で取るようになり、六郷町の印章業が地場産業として定着する基礎となったのだという。

甲州商人の原点である行商による営業力がこの町の再興のビジネスチャンスを与えたのである。

甲府に赴任して仕事柄、印章生産の現場から販売にいたる全ての過程を見聞するチャンスに恵まれたので、一般にはあまり知られていない印鑑生産の話題を紹介しよう(ただし、3年前の話であまり正確でないことは最初に申し添えておく)。

印鑑の代表的な材料というと象牙であるが、現在ではワシントン条約で輸入が規制されており自由に使える素材ではない。そこでこの印材は例外的に輸入を許された後も厳重に管理されている。

象牙の国際取引(輸入)は、1989年(平成元年)10月より、ワシントン条約により輸入が禁止されたが、1999年(平成11年)3月18日より、約10年ぶりに、象牙の国際取引(輸入)が再開したときにたまたま甲府勤番とし山梨の経済界に身を置いていたため輸入第1号の現物を目にする機会に恵まれた。

輸入象牙を扱う事業者は、「種の保存法」に基づき、経済産業省に象牙取り扱い事業者登録が義務図けられている。輸入された象牙は1本ずつ番号が付けられ、さらにそれが印材に切断されるときもその象牙番号の下にサブ番号が付け、さらのその切り分けた象牙から我々が手にする印章の形に切り出したときのその下の番号が付けられ、その全ての細分化された印材が国に登録されるシステムになっているという。そして象牙印章を購入した人はそれがちゃんとしてルートで輸入され加工された象牙であることの証明書の発行を求めることができるという。

さらに、印鑑の頭の部分の丸い形は全国で6種類ほどしかないのだという。このあたりの経緯、趣旨はあまりはっきりしないのであるが、通産省(現在の経済産業省)の規制により象牙の印材を切り出す金型が定められており、印鑑のプロの世界では印鑑の頭の丸さを見ただけでそれがどこで作られた物かが分かるのだという。正確ではないが確か6種類ほどしかないのだという。

 車で国道52号線を富士川沿いに走ると川の対岸に「印鑑の町六郷町」という看板が轄b伸堂という国内でも最大規模の印鑑メーカーの社屋に架かっているのが見える。

富士川に架かる橋を渡り六郷町の街中入ると「地場産業会館」という印章の資料館がある。展示室には、印章彫刻製作の工程を解説するパネルや、製造用具、象牙、メノウなど、あらゆる印材が展示されている。なかでも、中国の銅印1万376種もの印影を191冊に集めた『十鐘山房印挙』は、一見の価値がある。また建物の脇には、印面が2m四方の間違いなく世界一の巨大ハンコが鎮座している。そこに彫られた文字は当然甲斐守護武田信玄の旗印「不動如山」と書かれている。

ところでこの「不動如山」は「風林火山」の最後の一句であり山梨に勤めると酒席などでは必ず話題になる。しかし、この四節がすらすら素読することは難しい。とくに「其疾如風」が出てこない。またそれが酒の肴になる。ところがこの孫氏の言葉は6節あるのらしい。「其疾如風、其徐如林、侵掠如火、知難如陰、不動如山、動如雷霆(疾きこと風の如く、その徐か(静か)なること林の如く、侵掠すること火の如く、動かざること山の如く、知り難きこと陰の如く、動くこと雷霆(らいてい)の如し。)」である。このことは取引先の社長さんから教えていただいた話である。メモ用紙に万年筆ですらすらと書いてもらったもので、当時の手帳をめくっていて出てきた。

*霆は「いかづき」雷のこと。

私はサラリーマンになって会社の社内販売で象牙の印鑑のセットを購入した。そして子供たちが生まれたときも同じように子供たちの印鑑を作った。そしてそれから15年経って甲府勤めになり、着任の挨拶のためにある印鑑製造の会社に訪ねたときその会社の印鑑ケースのデザインが私の持っている印鑑のケースによく似ていることに気付いた。その話をすると、私が印鑑を購入した経緯から間違いなくその会社の印鑑であることがわかった。そして後日訪問したときに現物を持っていったところ、その会社で作られたものであることを確認した。なんという偶然であろうか。

この印鑑を買った15年前、私は鹿児島市にいたのである。私と山梨との縁を実感した出来事であった。

2004.5.15掲載

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