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信玄堤

甲府駅から竜王駅を過ぎるまではほとんど直線であるが釜無川(富士川)のにいたって急に右に曲がる場所がある。そこが「信玄堤」と呼ばれる場所である。

武田信玄公は1541年、父信虎を駿河の今川義元の元に追放する無血クーデターを決行して、若干21歳で甲斐の国の国主となった。その翌年から民心の安定を図るため国内の治水を行ったとされている。特に釜無川とその支流御勅使川(ミダイガワ)の合流地点は領国のうちで一番の難所であった。

御勅使川を八田村六科(ムジナ)の西に将棋頭(ショウギガシラ)という将棋の駒の形をした石堤を築いて水流を南北に分け本流は北側に流し、釜無川との合流点では激流を衝突させて干渉させ、さらにその下にある高岩にぶつけて勢いを弱めた。さたにその高岩にぶつかってはね返った激流が反対側の堤防を決壊させないようにそこに十六石といわれる巨石を並べて水の勢いをそいだのである。

そして釜無川の東岸の竜王町の川沿いには堤防を築き、木材を三角に組みたてたものに石を載せて皮の水流を弱める聖牛等幾重にも水流を弱める工夫をしたのである。そこにこの堤防を守るための人を住まわせ年貢免除の朱印まで与えた。

そしてこの技術は江戸時代には「甲州流川除け」とし治水法の権威となったのである。

中央線韮崎駅から小淵沢までの間は中央線の中で一番のビューポイントかもしれない。右手に八ヶ岳、茅が岳、左手に甲斐駒ケ岳が鋭くそびえる間を見上げながら進むのである。特に冬の間がお勧めである。雪をいただいた甲斐駒ケ岳、八ヶ岳の壮観さはどのような表現をもってしてもそれに勝ることはない。

そしてここは車外からこの中央線を見るのもポイントである。韮崎市はその中央に一段高くなった「七里が岩」と呼ばれる高台がある。七里が岩の左側はその名のとおり釜無川(富士川)に沿って小淵沢まで断崖が続く。こちら甲斐駒ケ岳を代表する急峻な南アルプスの真下であり荒々しい光景が続く。それに対して七里が岩の左側は清里、八ヶ岳へとなだらかなスロープを描く雄大なパノラマが広がる。

この韮崎市の平地から七里が岩に向かって中央線がなだらかに登り始めるのであるが、夜、向かいの広域農道から見ると、まるで真っ暗な七里が岩を背景に「銀河鉄道」が登っていくようにも見える。さらに七里が岩の背後には見上げるような南アルプスの前にそびえる鳳凰三山が薄明かりの空にシルエットを描く。そのコントラストが見事である。「銀河鉄道」でも「999スリーナイン」であり、そこにはメーテルが長い髪を車窓にたなびかせ憂いをひめた瞳で月明かりの茅が岳(細かい点にこだわれば進行方向を背にしたメーテルの視線からは八ヶ岳ではおかしく茅が岳でなければならない。)を見上げているという情景が目に浮かぶのである。

次の駅は新府駅である。武田家が滅亡するとき武田勝頼公が居城間もない城に火を放ち終焉の地へ向かう悲劇の新府城のあった場所である。

私は甲府に赴任して間もない1999年11月の末に朝早く、車を飛ばしてやってきた。午前8時前だったろうか。車の通りの少ない城跡の前の急な階段の脇に車をとめて登った。石段のうえには神社があり大きな松ノ木が生えてはいるが野球ができそうな本丸址の広場がある。城跡の南西側は七里が岩といわれる断崖であり要害をなしていた。そして、ここを中心に武田騎馬軍団が悲劇の滅亡へと突き進むのである。この新府城の一番奥には武田騎馬軍団が長篠の合戦で織田、徳川連合軍の鉄砲に大敗をきした時に戦死した山県昌景、馬場信春、内藤昌豊、真田信綱等の武田信玄を支えた名だたる武将たちの名前の記された卒塔婆が立てられている(これは昔からあったものではなく近年何かのイベントで立てられたものであるという)。

朝早く一人で訪ねるには気味の悪い場所である。知り合いからは気味が悪いから地元の人は殆ど行かないと聞かされた。わたしの会社の社員も夜ここを通りたくないといっていた。確かに車を駐車した傍の窪地は「首洗い池」という名があった。「武士(モノノフ)どもの夢の後」である


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