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甲府城(舞鶴城)

甲府駅の隣に舞鶴城という城址がある。このタイトルの甲府勤番が勤めた甲府城の址である。私は1999年9月末、転勤による引継ぎのため3日間甲府に来た翌日にこの城跡を訪れた。

当時、福島県会津若松市に住んでいた私にとって、お城の存在は特別なものあった。会津の人にとってお堀を持ち、桜の木に埋まる広大な敷地中にそびえたつ白く輝く五層の天守閣を持つお城(鶴ヶ城)は町の中心であり、心のよりどころであり、何より誇りであったと思っていた。私は人生の中で立派な天守閣を持つ城下町に3年間住む機会を得たことをありがたく思っている。ところが復元、工事中だったこともあろうが、ここを訪れて申し訳ないがそのような感慨は起こらなかった。

甲府城にある感謝の碑何よりも一番高いところにある鋭くとがった御影石のモニュメントの異様さが目を引いた。一辺が10メートル高さ11メートルの基礎の上に一辺9.4メートル高さが7.4メートルの台があり、その上に下部が一辺2.1メートル上部が1.8メートルの石が10個重ねられ古代エジプトのオベリスクをかたどって作られその上に小さなピラミッドがのせられて尖っている。私のように会津若松市の鶴ヶ城を知っているものにとっては、はっきりいってこれは日本の城には不釣合いな建造物であり、城のありようを大きく制限しているように思えた。

そこには明治時代山梨の山々は人々が山に入り木を切るため荒れ、たびたび洪水が起こった。それを知った明治天皇が県内に存した御料地を明治44年3月11日に山梨県に下賜されたことに対する「謝恩碑」として建立されたものであるとかかれている。この下賜された山林は南アルプス一帯に八ヶ岳南麓、金峰山一帯、大菩薩嶺一帯、さらに富士山北麓一帯の壮大な山林である。富士吉田市あたりを車で走っていると「恩賜林組合」とかかれたトラックが走っているのを見かける。

当時はアンシャンレジーム(旧体制)徳川幕藩体制のシンボルである城跡を明治政府がいかように使おうが自由だったのであろう。ところが今となってはここを城跡として活用する立場から見たらなんともアンタッチャブルな存在であるに違いない。なぜなら、明治天皇に対する感謝として建てられたものにそう簡単に手をつけることもならずに、ましてや公に論じることさえままならないテーマであり大変であろうと思っていた。

あるときある有力な県会議員の方とこの話をする機会があった。その先生も同じ思いだったらしく、この話を県の役人に話すとそれを議題にすると「右翼がうるさい・・」等という私がさきに述べたアンタッチャブルになっているとのことであった。

そこでこの先生は戦後初めて山梨県で行われた第1回植樹祭が二周り目に最初の植樹祭が行われる。そのときにこのモニュメントを植樹祭が行われる瑞垣山山ろくに移して明治天皇のひ孫陛下である今上天皇の参列する植樹祭で移せば問題もないのではないかという話をされておられた。お城の感謝の碑は不自然だという認識はあるのだろうが誰も火中の栗を拾おうとはしないのだという。

ちなみにこの記念碑の揮毫の主はなんと明治の元勲山県有朋である。ただ薩摩人としては西郷に引き立ててもらいながら薩摩を攻めた山形有朋を元勲とはいいにくいのであるが、我らが崇拝する西郷南洲公の教えは「敬天愛人」である。

ところで初めに書いたお城に対する想いであるが、この甲州においてこの城の存在は故郷の誇りであるとか町の中心であるといった存在ではないようである。第一編でも書いたが、この城は天領支配の甲府勤番の居城であり、現在山梨のシンボルともいうべき武田信玄は徳川方が滅ぼした相手である。少なくとも武田の居城は躑躅が館(現在の武田神社)ではあっても甲府城ではない。ところが武田祭りのとき武者行列はこのお城から出陣する。ここあたりに多いなる矛盾がある。住んでみてこの城の存在を会津の人々のように町の中心、心のよりどころとして集い大切にしている市民はほとんどいないように見うけた。


武田信玄公像

もう一つ甲府駅前の武田信玄像についてである。

甲府に赴任してきた夜、甲府駅に降り立ちまず、このお方を訪ねた。駅を降りて右側の交番の先にそのお方は鎧兜に大きな髭を蓄え、戦国の覇者たらんという鋭い眼光を放ち、床机に腰を下ろした姿でおられた。

甲府駅前の武田信玄像ただ少し違和感があった。「武田信玄はこんな感じなの?。」と思った。異様に荒武者として作られているのである。仙台市で伊達正宗公の馬上のお姿を見たときにはなかった違和感であった。馬上の勇ましい姿に比してそのお顔は温和な為政者のそれであった。それに比べこの信玄公は怒り狂うがごとき荒武者である。確かに武田信玄といえば武田騎馬軍団を率いて近隣を制圧し上洛しようとした戦国の勇であり、そのイメージは猛々しいものである。

黒澤映画のなかでも武田軍は馬具や鎧兜、武具の全てに至るまで装備を全て「朱」に塗りつぶした「赤揃え(アカゾロエ)」の勇猛な軍団として描かれている。武田信玄公の本を読むことによって信玄公が荒武者というイメージを持っていなかった。確かに我々の世代は中井貴一主演のNHK大河ドラマを見ているせいもあろうが、ここまでのイメージはない。

信玄公は21歳で父信虎を追放して甲斐の国主の座についている。その理由は、戦巧者ゆえの度重なる戦は多くの兵卒を失うことになり民を疲弊させ、それゆえに家臣の反感を買い、嫡男である晴信(後の信玄)が担がれて無血クーデターを起こしたのである。晴信はもともと国人たちに担がれて国主となった為、その命令が及ぶ範囲は限られていった。そのなかで治水工事や金山の開発などとともに「甲州諸法度」を制定するなどして徐々に力をつけ発言力をつけていった。

そして戦も父信虎のように正面きって行うのではなく敵情視察や内部攪乱といった情報重視の戦術を使い多くの甲州金を使っている。「戦わずして勝つ戦法」が信玄の武将としての秀でたところであると考えていた。さらに甲州の民にとって彼の勇猛な姿はたいした意味を持たない。その国、民を富まし、安寧な暮らしができるようにしたかどうかがよき国主であったかどうかのバロメーターなのであろう。

私の知る限り武田信玄公の自画像としては高野山所蔵の「武田信玄像」が有名であり私はそのイメージをもっていた。駅前の信玄公像はこれをもとに勇猛な武将像をイメージしたのであろうが春信から信玄に変えた後はむしろ頭巾姿だったのではないか。そこあたりも多少疑問に思えるところである。

すなわち晩年の大きな戦いの勇将ぶり以外の部分では偉大な政治家でありそのイメージからしてこの信玄像は一部の人たちのイメージで作られていることに幾分複雑な思いがしてならなかった。私としては国内に向けた銅像は包み込むような良き父、良き領主としての顔が必要であるとおもうからである。

ちなみに、駅前にある信玄公像とまったく同じ像が塩山市の恵林寺の脇にある観光菓子店の入り口に立っている。そのような観点から言えば、信玄公像は郷土の英雄を祀るというより観光客向けの外向きということになるのであろう。少し皮肉っぽくなってしまったがいかがであろうか。


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