「甲府勤番風流日誌」(後編)

Take the “Azusa” 「あずさ2号で旅立ちます。」 

新宿駅のスーパー特急あずさ一昔前、いや二昔になるか「狩人」というデュオの「・・・8時ちょうどの、あずさ2号で、わたしはわたしは貴方から旅立ちます。」と歌う歌が流行した。恋に破れた傷心の女性が新宿発の「あずさ2号」に乗りに新しい旅立ちをするという歌であった。そのため40代以上の人たちは甲府や松本に向かうJR中央線というと「あずさ2号」で行くものだと思っている人も多い。

ところが現在この新宿発のあずさ2号はない。何時頃だったかJRのダイヤの改正で下りの列車は奇数号、上りの列車は偶数号ということになり、現在「8時ちょうどの新宿発はスーパーあずさ3号」ということになっている。

かく言う私も甲府に赴任して来る時あずさに乗り「8時ちょうどの・・あずさ2号で・・旅立ちます。」と口ずさみ苦笑いをしてしまった記憶がある。

この中央線、山梨の人にとっては特別な思いのあるものらしい。東京に出ると中央線沿線に住む人が多いと聞く。確かに東北出身の人たちが上野駅に特別な思いがあると聞くのと同じなのであろう。甲府市出身のグループの歌に「中央線」というのがある。故郷に対する思いのこもったいい歌である。

この中央線の新宿駅、甲府間は特急で1時間30分(営業キロは134km)である。さらに特急があずさに加えて甲府までの「かいじ」が加わり、上り下り1日約50本の特急が行き来する。この便利さが思いのほか自宅との距離感を感じさせないものにさせてくれる。それがゆえに関東に家を持つものとして甲府市への転勤は家族帯同で異動しにくい距離となり、単身赴任が増える。

金曜日の夕方6時1分発の上り「スーパーあずさ12号」はある意味で「単身赴任帰省列車」の感がありいつも満席である。午後7時代に入ると松本方面の単身赴任者が多い。一週間の疲れからか日本の経済を支える経済戦士の面影やいかにといった顔で爆睡している姿が多く見られる。

ところがこの中央線、おもいのほか脆弱である。というのは八王子を出て甲府の盆地にまでの間が険しい山間部を走る為に雨に弱い。少し強い雨が降るとすぐに電車が止まる。さらに人に弱い。これは通勤快速などの中央線が八王子、新宿間で人身事故が起こるとてき面遅れる。従って朝一番の東京の本社での会議につかうことはリスクが大きい。

とはいえ家族の住む埼玉と単身赴任の甲府を繋ぐわたしの人生の中で重要な路線になったことは確かである。わたしはあずさ2号ではなく月曜日の朝7時、新宿発の「スーパーあずさあずさ1号」でジャスのスタンダードナンバー「Take the “a” train」(A列車で行こう)を口ずさみながら甲府に帰ってきた。従って、Take the “Azusa”なのである。


「あずさの車窓から」

JR中央線の新宿駅を出た特急「あずさや」は30分で八王子駅に着く。そして5分程走る高尾山の下を向け神奈川県の相模湖に入りその後、山梨県の入り口上野原に至る。この辺りから列車はほとんど山の中で渓谷を真下に見ながら走る。携帯電話も通じない場所である。

上野原駅を過ぎて四方津(シオツ)駅から右手の山際を見上げるとガラス張りの200メートルはあろうかという大きなエスカレーターが見えてくる。その上が「コモアしおつ」と呼ばれる東京のベッドタウンである。エスカレーターで登りきったところにショッピングセンターがあり、このニュータウンを一周する綺麗な環状道路があり、一部未販売の区域があるものの綺麗に区画された閑静な住宅街である。中央快速を使って東京に勤める人たちのニュータウンである。「この山の中になぜ。」という言葉が口をついてしまいそうになる見事な住宅街である。外界と隔離されており外に出る道路が2本しかない、いろんな意味で山梨県でありながら東京がそこにある。


猿橋

ここから15分もすると兜のような形をした岩山、岩殿山が見えてくる。異様としか言い様がない巨岩の山である。岩殿山

武田氏滅亡のとき韮崎市にある新府城に火を放った武田勝頼公はこの岩殿山にあった小田山氏の居城を目指した。ところが笹子の山に入ったところで、小田山氏の離反を知り、やむなく引き返し大和村野田の地で妻子ともども自刃して果てるのである。

この岩山が見えてくる大月駅のひとつ前の駅が「猿橋駅」であるが、ここが岩国市の錦帯橋、飛騨の桟と並ぶ日本三大奇橋のひとつ、「猿橋」がある。

桂川の切り立った渓谷に架かるこの橋はその昔、猿が枝伝いに川を渡るのを見たところから、両脇から梁を伸ばしてさらに重ねていき、橋をつないだという言伝えが残っている。猿橋は幅が3.3メートル長さが31メートル、川からの高さが30メートルもあって橋げたが使えないため、両岸から「はね木」が4層にせり出し、橋を支える構造になっており、それそれのはね木に屋根がつけられている。記録上は約500年前にこの橋があったとされ、約17回の架け替えが記録に残っているとある。

その橋も、昭和52年に橋の近くにある猿橋中学校の子供達が清掃したときに橋が今にも朽ち落ちそうなことを発見して教育委員会に訴えて昭和55年に架け替えが実現したたという話が伝えられている。

ただし現在の橋のはね木は中が鉄骨でそれを木でお覆っており20から30年毎の架け替えは必要なくなったという。猿橋

私は、この第1編で「甲斐絹」や「お茶壷道中」を調べるために、富士吉田市から大月駅まで約23キロほど歩いたとことを紹介した。その折、大月市にある取引先の部長さんから猿橋の先に「鳥」と「犬」に関する地名があり、桃太郎の伝承があると教えられた。あるとき仕事のついでに車を走らせて見ると、猿橋駅の次の駅は「鳥沢駅」であった。いつも特急で通過しているがゆえに見落としていた駅名であった。ところが、犬に関する地名は地元の人に聞いてもなかなか分らなかったが、そのとき持ってきた地図を見ていると、少し行った国道20号線と桂川の間に、「諏訪犬鳴神社」を見つけた。ここに犬があった(ただ、後に甲州街道の宿場「犬目」という地名があるという事が分かった)。

多分これが、教えてもらった、猿、鳥、犬の桃太郎伝説のよすがであろと思った。ただ私の推測であり、地元の伝承などの裏づけをとったものではない。桃太郎のような英雄伝説は決して、岡山県だけのものではなく日本各地の古来からの英雄伝説が形を変え伝えられてきたものであろう。

ここを書いていてふと思い付いた私版「大月桃太郎伝説」を述べるならば、以下の通りである。

桃太郎の桃が桂川を流れてきたとすれば、霊峰富士を源とする以上、英雄が生まれる下地は十分にあると思う。特に古代、桂川の上流は甲斐と都を結ぶ要衝の地であり、ヤマトタケルノミコトや坂上田村麻呂の東征伝承など事欠かない場所である。すると、あるやんどころない出の子供が故あって綺麗な着物にくるまれて流された。それを下流に住む子供のいない老人の夫婦に拾われた。ところが辺境の地の老夫婦は絹の身包みを見るのは初めてで、まるで桃に包まれた赤ちゃんに思えた。そしてその子は出身は争えず、凛々しい若武者に育ち戦で武功を立て、貧しいながらも人のいい養父母に孝行をしたという話が、有名な桃太郎伝承となっても不思議ではない。

さらに偉業をなしえる為には桃太郎一人ではなしえず、彼を支える有能なスタッフがいたということがこの「猿」、「鳥」、「犬」なのではなかろうか。

それにこの川は桂川であり、桂の木は恋愛、子宝を司る愛染神を祭る木であるというのも因縁めいていているがどのように思われるか。
特急「あずさや」は大月駅を過ぎ10分程で中央線の難所笹子トンネルを抜け甲府盆地に入る。武田家終焉の地である「甲斐大和駅」を過ぎるあたりから前方に山の切れ目からかすかに甲府の盆地が見え始める。夜はあたかも漆黒の闇で見るプレアデス星団(スバル)のようなかすかな光の玉手箱が見えて幻想的である。一時、光の宝石箱がきえ、塩山のブドウの丘のあたりから甲府盆地の夜景が一望に現れる。中央線を使って夜甲府盆地に入るときにはぜひこの夜景を楽しんでほしい。

また昼間は甲斐大和駅のあたりから見える冬の雪をいただいた甲斐駒ケ岳は神々しいまでにその威容を示し、一瞬息を飲んでしまうほどである。その南に鳳凰三山と南アルプスの北岳、間ノ岳、農鳥岳と懐の深い急峻な甲府盆地の外郭が見えてくる。「勝沼ぶどう郷駅」辺りから見える日本アルプスの中で攻略が難しいといわれる南アルプスは塩見岳、荒川岳、赤石岳辺りまで3000メートル級の山々が一望できる。最も南に見える山が日本百名山の中で最もアプローチが困難であるとされる聖岳なのではないかと思っている(これは後に確認された。)。勝沼ぶどう郷駅の前にあるぶどうの丘から見る眺めもお勧めである。

甲府盆地の東にある大菩薩嶺と甲武信岳を源流として塩山方面から南西に流れる笛吹川と甲斐駒ケ岳の麓を源流とし甲斐駒、鳳凰三山の下を南北に流れる釜無川が合流して富士川(球磨川・最上川と並ぶ日本三大急流の一つに数えられる。)なりフォッサマグマにそって太平洋にそそぎ出る。扇状台地の盆地である。その盆地を囲む急峻な山が美しい夜景を作るのである。

甲府の盆地に入るとそこが日本のワインバレー勝沼町である。山沿いのブドウ畑を過ぎて塩山市に入るが最初に目に入ってくる小高い丘が「塩の山」である。これは塩山市の中央にある高さ550メート余り、周囲4キロほどの甲府盆地で唯一の山である。

ここが古今和歌集巻7「塩の山差し出の磯に住む千鳥君が御世をば八千代とぞ鳴く」(詠み人しらず)の舞台である。この歌を私は高校生のとき、担任をしていた古典の先生から習ったことを覚えていた。しかしこれがこの甲州を歌ったものであるとは知らなかった。2000年の秋、石和温泉病院で行われた人間ドックの講評までの合間に、この山の麓にある「向嶽寺」を雨の中訪れたときに見つけた。

万力公園の根津嘉一郎像さらに「差し出の磯」とはそのとなりの山梨市にある万力公園の傍を流れる笛吹川あたりである。この公園はJR中央線山梨駅を過ぎると、右側にこんもりとした森がありその前に鉄道王といわれる根津嘉一郎翁(翁については第1編で書いた)の大きな銅像が見える。その右奥の川が「差し出の磯」ということになる。とはいえはるか平安の人々がこの都から離れた辺境の地を詠ったことに驚かされる。

この辺りの山側は大きな果樹試験場を中心として「笛吹川フルーツ公園」となっており「くだもの館」、「トロピカル温室」等の大きなガラスのドームがあり、その一番上にまるで地中海の建物を連想させるレンガ色の富士屋ホテルが目をひく。晴れた日ここのチャペルで行われる結婚式はなかなかのもので、眼下には甲府の盆地が広がり目の前には日本一の富士山が祝福してくれる贅沢なロケーションである。

フルーツ公園の入り口にあたる山の中腹には「フルーツライン」と呼ばれる広域農道が春日居町まで走り、夜景を楽しむには絶好のドライブコースとなっている。

甲府市に入る前に山梨県を代表する「石和温泉」がある。ただこの温泉街の発展は日が浅いものである。ここは昭和36年1月に山梨交通健康保険組合が掘削中に突然湧いたものであるという。そのごブドウ畑にボーリングのやぐらが立ち開発ブームに沸いたが、多量の温泉が湧き出たものの施設が追いつかず、湯が川にあふれ出た。そしてこの川を露天風呂のようにして楽しむ人たちが出始め、全国から多くの人たちが訪れ青空温泉として有名になった。

この当時の老若男女が何の施設もない川を堰き止めた露天風呂に笑顔で浸かっている写真を見ると、古きよき昭和30年代の雰囲気がよく出ていてほほえましくなる。

山梨の温泉については、ほったらかし温泉、下部温泉、ラジユウム温泉等、書ききれないほど紹介したいところがある。別の機会にすることにする。



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