「甲府勤番風流日誌」(後編)

Take the “Azusa” 「あずさ2号で旅立ちます。」 

一昔前、いや二昔になるか「狩人」というデュオの「・・・8時ちょうどの、あずさ2号で、わたしはわたしは貴方から旅立ちます。」と歌う歌が流行した。恋に破れた傷心の女性が新宿発の「あずさ2号」に乗りに新しい旅立ちをするという歌であった。そのため40代以上の人たちは甲府や松本に向かうJR中央線というと「あずさ2号」で行くものだと思っている人も多い。

ところが現在この新宿発のあずさ2号はない。何時頃だったかJRのダイヤの改正で下りの列車は奇数号、上りの列車は偶数号ということになり、現在「8時ちょうどの新宿発はスーパーあずさ3号」ということになっている。

かく言う私も甲府に赴任して来る時あずさに乗り「8時ちょうどの・・あずさ2号で・・旅立ちます。」と口ずさみ苦笑いをしてしまった記憶がある。

この中央線、山梨の人にとっては特別な思いのあるものらしい。東京に出ると中央線沿線に住む人が多いと聞く。確かに東北出身の人たちが上野駅に特別な思いがあると聞くのと同じなのであろう。甲府市出身のグループの歌に「中央線」というのがある。故郷に対する思いのこもったいい歌である。

この中央線の新宿駅、甲府間は特急で1時間30分(営業キロは134km)である。さらに特急があずさに加えて甲府までの「かいじ」が加わり、上り下り1日約50本の特急が行き来する。この便利さが思いのほか自宅との距離感を感じさせないものにさせてくれる。それがゆえに関東に家を持つものとして甲府市への転勤は家族帯同で異動しにくい距離となり、単身赴任が増える。

金曜日の夕方6時1分発の上り「スーパーあずさ12号」はある意味で「単身赴任帰省列車」の感がありいつも満席である。午後7時代に入ると松本方面の単身赴任者が多い。一週間の疲れからか日本の経済を支える経済戦士の面影やいかにといった顔で爆睡している姿が多く見られる。

ところがこの中央線、おもいのほか脆弱である。というのは八王子を出て甲府の盆地にまでの間が険しい山間部を走る為に雨に弱い。少し強い雨が降るとすぐに電車が止まる。さらに人に弱い。これは通勤快速などの中央線が八王子、新宿間で人身事故が起こるとてき面遅れる。従って朝一番の東京の本社での会議につかうことはリスクが大きい。

とはいえ家族の住む埼玉と単身赴任の甲府を繋ぐわたしの人生の中で重要な路線になったことは確かである。わたしはあずさ2号ではなく月曜日の朝7時、新宿発の「スーパーあずさあずさ1号」でジャスのスタンダードナンバー「Take the “a” train」(A列車で行こう)を口ずさみながら甲府に帰ってきた。従って、Take the “Azusa”なのである。


「あずさの車窓から」

JR中央線の新宿駅を出た特急「あずさや」は30分で八王子駅に着く。そして5分程走る高尾山の下を向け神奈川県の相模湖に入りその後、山梨県の入り口上野原に至る。この辺りから列車はほとんど山の中で渓谷を真下に見ながら走る。携帯電話も通じない場所である。

上野原駅を過ぎて四方津(シオツ)駅から右手の山際を見上げるとガラス張りの200メートルはあろうかという大きなエスカレーターが見えてくる。その上が「コモアしおつ」と呼ばれる東京のベッドタウンである。エスカレーターで登りきったところにショッピングセンターがあり、このニュータウンを一周する綺麗な環状道路があり、一部未販売の区域があるものの綺麗に区画された閑静な住宅街である。中央快速を使って東京に勤める人たちのニュータウンである。「この山の中になぜ。」という言葉が口をついてしまいそうになる見事な住宅街である。外界と隔離されており外に出る道路が2本しかない、いろんな意味で山梨県でありながら東京がそこにある。


猿橋

ここから15分もすると兜のような形をした岩山、岩殿山が見えてくる。異様としか言い様がない巨岩の山である。

武田氏滅亡のとき韮崎市にある新府城に火を放った武田勝頼公はこの岩殿山にあった小田山氏の居城を目指した。ところが笹子の山に入ったところで、小田山氏の離反を知り、やむなく引き返し大和村野田の地で妻子ともども自刃して果てるのである。

この岩山が見えてくる大月駅のひとつ前の駅が「猿橋駅」であるが、ここが岩国市の錦帯橋、飛騨の桟と並ぶ日本三大奇橋のひとつ、「猿橋」がある。

桂川の切り立った渓谷に架かるこの橋はその昔、猿が枝伝いに川を渡るのを見たところから、両脇から梁を伸ばしてさらに重ねていき、橋をつないだという言伝えが残っている。猿橋は幅が3.3メートル長さが31メートル、川からの高さが30メートルもあって橋げたが使えないため、両岸から「はね木」が4層にせり出し、橋を支える構造になっており、それそれのはね木に屋根がつけられている。記録上は約500年前にこの橋があったとされ、約17回の架け替えが記録に残っているとある。

その橋も、昭和52年に橋の近くにある猿橋中学校の子供達が清掃したときに橋が今にも朽ち落ちそうなことを発見して教育委員会に訴えて昭和55年に架け替えが実現したたという話が伝えられている。

ただし現在の橋のはね木は中が鉄骨でそれを木でお覆っており20から30年毎の架け替えは必要なくなったという。

私は、この第1編で「甲斐絹」や「お茶壷道中」を調べるために、富士吉田市から大月駅まで約23キロほど歩いたとことを紹介した。その折、大月市にある取引先の部長さんから猿橋の先に「鳥」と「犬」に関する地名があり、桃太郎の伝承があると教えられた。あるとき仕事のついでに車を走らせて見ると、猿橋駅の次の駅は「鳥沢駅」であった。いつも特急で通過しているがゆえに見落としていた駅名であった。ところが、犬に関する地名は地元の人に聞いてもなかなか分らなかったが、そのとき持ってきた地図を見ていると、少し行った国道20号線と桂川の間に、「諏訪犬鳴神社」を見つけた。ここに犬があった(ただ、後に甲州街道の宿場町「犬目」という地名があるという事が分かった)。

多分これが、教えてもらった、猿、鳥、犬の桃太郎伝説のよすがであろと思った。ただ私の推測であり、地元の伝承などの裏づけをとったものではない。桃太郎のような英雄伝説は決して、岡山県だけのものではなく日本各地の古来からの英雄伝説が形を変え伝えられてきたものであろう。

ここを書いていてふと思い付いた私版「大月桃太郎伝説」を述べるならば、以下の通りである。

桃太郎の桃が桂川を流れてきたとすれば、霊峰富士を源とする以上、英雄が生まれる下地は十分にあると思う。特に古代、桂川の上流は甲斐と都を結ぶ要衝の地であり、ヤマトタケルノミコトや坂上田村麻呂の東征伝承など事欠かない場所である。すると、あるやんどころない出の子供が故あって綺麗な着物にくるまれて流された。それを下流に住む子供のいない老人の夫婦に拾われた。ところが辺境の地の老夫婦は絹の身包みを見るのは初めてで、まるで桃に包まれた赤ちゃんに思えた。そしてその子は出身は争えず、凛々しい若武者に育ち戦で武功を立て、貧しいながらも人のいい養父母に孝行をしたという話が、有名な桃太郎伝承となっても不思議ではない。

さらに偉業をなしえる為には桃太郎一人ではなしえず、彼を支える有能なスタッフがいたということがこの「猿」、「鳥」、「犬」なのではなかろうか。

それにこの川は桂川であり、桂の木は恋愛、子宝を司る愛染神を祭る木であるというのも因縁めいていているがどのように思われるか。
特急「あずさや」は大月駅を過ぎ10分程で中央線の難所笹子トンネルを抜け甲府盆地に入る。武田家終焉の地である「甲斐大和駅」を過ぎるあたりから前方に山の切れ目からかすかに甲府の盆地が見え始める。夜はあたかも漆黒の闇で見るプレアデス星団(スバル)のようなかすかな光の玉手箱が見えて幻想的である。一時、光の宝石箱がきえ、塩山のブドウの丘のあたりから甲府盆地の夜景が一望に現れる。中央線を使って夜甲府盆地に入るときにはぜひこの夜景を楽しんでほしい。

また昼間は甲斐大和駅のあたりから見える冬の雪をいただいた甲斐駒ケ岳は神々しいまでにその威容を示し、一瞬息を飲んでしまうほどである。その南に鳳凰三山と南アルプスの北岳、間ノ岳、農鳥岳と懐の深い急峻な甲府盆地の外郭が見えてくる。「勝沼ぶどう郷駅」辺りから見える日本アルプスの中で攻略が難しいといわれる南アルプスは塩見岳、荒川岳、赤石岳辺りまで3000メートル級の山々が一望できる。最も南に見える山が日本百名山の中で最もアプローチが困難であるとされる聖岳なのではないかと思っている(これは後に確認された。)。勝沼ぶどう郷駅の前にあるぶどうの丘から見る眺めもお勧めである。

甲府盆地の東にある大菩薩嶺と甲武信岳を源流として塩山方面から南西に流れる笛吹川と甲斐駒ケ岳の麓を源流とし甲斐駒、鳳凰三山の下を南北に流れる釜無川が合流して富士川(球磨川・最上川と並ぶ日本三大急流の一つに数えられる。)なりフォッサマグマにそって太平洋にそそぎ出る。扇状台地の盆地である。その盆地を囲む急峻な山が美しい夜景を作るのである。

甲府の盆地に入るとそこが日本のワインバレー勝沼町である。山沿いのブドウ畑を過ぎて塩山市に入るが最初に目に入ってくる小高い丘が「塩の山」である。これは塩山市の中央にある高さ550メート余り、周囲4キロほどの甲府盆地で唯一の山である。

ここが古今和歌集巻7「塩の山差し出の磯に住む千鳥君が御世をば八千代とぞ鳴く」(詠み人しらず)の舞台である。この歌を私は高校生のとき、担任をしていた古典の先生から習ったことを覚えていた。しかしこれがこの甲州を歌ったものであるとは知らなかった。2000年の秋、石和温泉病院で行われた人間ドックの講評までの合間に、この山の麓にある「向嶽寺」を雨の中訪れたときに見つけた。

さらに「差し出の磯」とはそのとなりの山梨市にある万力公園の傍を流れる笛吹川あたりである。この公園はJR中央線山梨駅を過ぎると、右側にこんもりとした森がありその前に鉄道王といわれる根津嘉一郎翁(翁については第1編で書いた)の大きな銅像が見える。その右奥の川が「差し出の磯」ということになる。とはいえはるか平安の人々がこの都から離れた辺境の地を詠ったことに驚かされる。

この辺りの山側は大きな果樹試験場を中心として「笛吹川フルーツ公園」となっており「くだもの館」、「トロピカル温室」等の大きなガラスのドームがあり、その一番上にまるで地中海の建物を連想させるレンガ色の富士屋ホテルが目をひく。晴れた日ここのチャペルで行われる結婚式はなかなかのもので、眼下には甲府の盆地が広がり目の前には日本一の富士山が祝福してくれる贅沢なロケーションである。

フルーツ公園の入り口にあたる山の中腹には「フルーツライン」と呼ばれる広域農道が春日居町まで走り、夜景を楽しむには絶好のドライブコースとなっている。

甲府市に入る前に山梨県を代表する「石和温泉」がある。ただこの温泉街の発展は日が浅いものである。ここは昭和36年1月に山梨交通健康保険組合が掘削中に突然湧いたものであるという。そのごブドウ畑にボーリングのやぐらが立ち開発ブームに沸いたが、多量の温泉が湧き出たものの施設が追いつかず、湯が川にあふれ出た。そしてこの川を露天風呂のようにして楽しむ人たちが出始め、全国から多くの人たちが訪れ青空温泉として有名になった。

この当時の老若男女が何の施設もない川を堰き止めた露天風呂に笑顔で浸かっている写真を見ると、古きよき昭和30年代の雰囲気がよく出ていてほほえましくなる。

山梨の温泉については、ほったらかし温泉、下部温泉、ラジユウム温泉等、書ききれないほど紹介したいところがある。別の機会にすることにする。

甲府城(舞鶴城)

甲府駅の隣に舞鶴城という城址がある。このタイトルの甲府勤番が勤めた甲府城の址である。私は1999年9月末、転勤による引継ぎのため3日間甲府に来た翌日にこの城跡を訪れた。

当時、福島県会津若松市に住んでいた私にとって、お城の存在は特別なものあった。会津の人にとってお堀を持ち、桜の木に埋まる広大な敷地中にそびえたつ白く輝く五層の天守閣を持つお城(鶴ヶ城)は町の中心であり、心のよりどころであり、何より誇りであったと思っていた。私は人生の中で立派な天守閣を持つ城下町に3年間住む機会を得たことをありがたく思っている。ところが復元、工事中だったこともあろうが、ここを訪れて申し訳ないがそのような感慨は起こらなかった。

何よりも一番高いところにある鋭くとがった御影石のモニュメントの異様さが目を引いた。一辺が10メートル高さ11メートルの基礎の上に一辺9.4メートル高さが7.4メートルの台があり、その上に下部が一辺2.1メートル上部が1.8メートルの石が10個重ねられ古代エジプトのオベリスクをかたどって作られその上に小さなピラミッドがのせられて尖っている。私のように会津若松市の鶴ヶ城を知っているものにとっては、はっきりいってこれは日本の城には不釣合いな建造物であり、城のありようを大きく制限しているように思えた。

そこには明治時代山梨の山々は人々が山に入り木を切るため荒れ、たびたび洪水が起こった。それを知った明治天皇が県内に存した御料地を明治44年3月11日に山梨県に下賜されたことに対する「謝恩碑」として建立されたものであるとかかれている。この下賜された山林は南アルプス一帯に八ヶ岳南麓、金峰山一帯、大菩薩嶺一帯、さらに富士山北麓一帯の壮大な山林である。富士吉田市あたりを車で走っていると「恩賜林組合」とかかれたトラックが走っているのを見かける。

当時はアンシャンレジーム(旧体制)徳川幕藩体制のシンボルである城跡を明治政府がいかように使おうが自由だったのであろう。ところが今となってはここを城跡として活用する立場から見たらなんともアンタッチャブルな存在であるに違いない。なぜなら、明治天皇に対する感謝として建てられたものにそう簡単に手をつけることもならずに、ましてや公に論じることさえままならないテーマであり大変であろうと思っていた。

あるときある有力な県会議員の方とこの話をする機会があった。その先生も同じ思いだったらしく、この話を県の役人に話すとそれを議題にすると「右翼がうるさい・・」等という私がさきに述べたアンタッチャブルになっているとのことであった。

そこでこの先生は戦後初めて山梨県で行われた第1回植樹祭が二周り目に最初の植樹祭が行われる。そのときにこのモニュメントを植樹祭が行われる瑞垣山山ろくに移して明治天皇のひ孫陛下である今上天皇の参列する植樹祭で移せば問題もないのではないかという話をされておられた。お城の感謝の碑は不自然だという認識はあるのだろうが誰も火中の栗を拾おうとはしないのだという。

ちなみにこの記念碑の揮毫の主はなんと明治の元勲山県有朋である。ただ薩摩人としては西郷に引き立ててもらいながら薩摩を攻めた山形有朋を元勲とはいいにくいのであるが、我らが崇拝する西郷南洲公の教えは「敬天愛人」である。

ところで初めに書いたお城に対する想いであるが、この甲州においてこの城の存在は故郷の誇りであるとか町の中心であるといった存在ではないようである。第一編でも書いたが、この城は天領支配の甲府勤番の居城であり、現在山梨のシンボルともいうべき武田信玄は徳川方が滅ぼした相手である。少なくとも武田の居城は躑躅が館(現在の武田神社)ではあっても甲府城ではない。ところが武田祭りのとき武者行列はこのお城から出陣する。ここあたりに多いなる矛盾がある。住んでみてこの城の存在を会津の人々のように町の中心、心のよりどころとして集い大切にしている市民はほとんどいないように見うけた。


武田信玄公像

もう一つ甲府駅前の武田信玄像についてである。

甲府に赴任してきた夜、甲府駅に降り立ちまず、このお方を訪ねた。駅を降りて右側の交番の先にそのお方は鎧兜に大きな髭を蓄え、戦国の覇者たらんという鋭い眼光を放ち、床机に腰を下ろした姿でおられた。

ただ少し違和感があった。「武田信玄はこんな感じなの?。」と思った。異様に荒武者として作られているのである。仙台市で伊達正宗公の馬上のお姿を見たときにはなかった違和感であった。馬上の勇ましい姿に比してそのお顔は温和な為政者のそれであった。それに比べこの信玄公は怒り狂うがごとき荒武者である。確かに武田信玄といえば武田騎馬軍団を率いて近隣を制圧し上洛しようとした戦国の勇であり、そのイメージは猛々しいものである。

黒澤映画のなかでも武田軍は馬具や鎧兜、武具の全てに至るまで装備を全て「朱」に塗りつぶした「赤揃え(アカゾロエ)」の勇猛な軍団として描かれている。武田信玄公の本を読むことによって信玄公が荒武者というイメージを持っていなかった。確かに我々の世代は中井貴一主演のNHK大河ドラマを見ているせいもあろうが、ここまでのイメージはない。

信玄公は21歳で父信虎を追放して甲斐の国主の座についている。その理由は、戦巧者ゆえの度重なる戦は多くの兵卒を失うことになり民を疲弊させ、それゆえに家臣の反感を買い、嫡男である晴信(後の信玄)が担がれて無血クーデターを起こしたのである。晴信はもともと国人たちに担がれて国主となった為、その命令が及ぶ範囲は限られていった。そのなかで治水工事や金山の開発などとともに「甲州諸法度」を制定するなどして徐々に力をつけ発言力をつけていった。

そして戦も父信虎のように正面きって行うのではなく敵情視察や内部攪乱といった情報重視の戦術を使い多くの甲州金を使っている。「戦わずして勝つ戦法」が信玄の武将としての秀でたところであると考えていた。さらに甲州の民にとって彼の勇猛な姿はたいした意味を持たない。その国、民を富まし、安寧な暮らしができるようにしたかどうかがよき国主であったかどうかのバロメーターなのであろう。

私の知る限り武田信玄公の自画像としては高野山所蔵の「武田信玄像」が有名であり私はそのイメージをもっていた。駅前の信玄公像はこれをもとに勇猛な武将像をイメージしたのであろうが春信から信玄に変えた後はむしろ頭巾姿だったのではないか。そこあたりも多少疑問に思えるところである。

すなわち晩年の大きな戦いの勇将ぶり以外の部分では偉大な政治家でありそのイメージからしてこの信玄像は一部の人たちのイメージで作られていることに幾分複雑な思いがしてならなかった。私としては国内に向けた銅像は包み込むような良き父、良き領主としての顔が必要であるとおもうからである。

ちなみに、駅前にある信玄公像とまったく同じ像が塩山市の恵林寺の脇にある観光菓子店の入り口に立っている。そのような観点から言えば、信玄公像は郷土の英雄を祀るというより観光客向けの外向きということになるのであろう。少し皮肉っぽくなってしまったがいかがであろうか。

山梨県立美術館 

山梨県でいちばん有名な美術館といえば甲府市にある「山梨県立美術館」であろう。その理由は、あえて申すまでもなく「ジョン=フランソワ・ミレー」の絵があるためである。

ただ、この美術館の魅力はそれだけではない。館内に入り広いエントランスホールの階段を上がると右が常設展示室で左が特別展示室になる。

常設展示室に入るとまず日本画が展示されている。ただ暗い館内に入り、まずもって日本画を見せられると幾分気が重たくなる。ただその中でも山梨の生んだ女流日本画家望月春江(シュンコウと読む)の明るい画風に救われる。

そして日本洋画、日本版画と進む。日本版画の中では深沢幸雄のエッチングが重たい絵の中にあっては一陣の風のごとき爽やかさがある。

そして西洋版画、西洋油絵のコーナーへと進む。西洋油絵のコーナーは「ビルメゾン派」と呼ばれる画家たちの絵が展示されている。ビルメゾンとはパリの南にある小さな農村で19世紀の後半、パリにコレラが流行ったころ画家たちが移り住んでそれまでの宗教画的な作風から農村の現実の生活を写実的に描いた。この画家達をビルメゾン派といい、マネ、ルノアールなどで知られる都会的で明るい画風の印象派が起こる前の田園風景を描いた幾分暗めの作風を持つ一派である。ミレーもこれに属し「農民画家」と呼ばれるのである。正確にはビルメゾンの入り口の小さなフォンテヌボローという村に住み生涯を過ごすことになる。

従ってこれらの絵の前に立つと森や羊の群れがまるでそこにいるかのような強烈な存在感を持って迫ってくる。

そして最後の部屋に入るとそこだけが絵の前に手すりが付けられたミレーの絵の展示室である。正面には2副の絵があり、左には目玉ともいうべき「種をまく人」、右側には「夕暮れに羊を連れ帰る羊飼い」の絵がある。前者はミレーが1850年のサロンに出品して大変な話題となり、その画家としての名声を浮動のものにした出世作である。同じ構図でもうひとつボストン美術館にある。

入り口の左側の壁にはこれもまた有名な「落ち穂拾い、夏」がある。オルソー美術館にある「落ち穂拾い」の3年前にかかれた同じ構図の絵であるという。

左側の壁にはミレーには珍しい宗教画の「冬(凍えたキューピッド)」がかかる。そしてそれに対する右側の壁には版画が6枚あり、その奥に聖母マリアを描いた「無原罪の聖母」とミレーの最初の妻「ポリーヌ・V・オノ」の絵がある。

私はこの美術館で最後の絵が一番好きである。「4分の3正面画」といわれるレオナルドダビンチの「モナリザの微笑み」と同じ構図を持つ肖像画である。黒い衣装をきた幼な妻の深い悲しみを湛えた微笑が胸に刺さる。その構図と意図が共に謎であるという。モナリザの微笑とまるで同じである。

ポリーヌは画家としてパリに出てきたミレーと結婚するが当時のミレーは絵を描いて生活をたてることはできずとても貧しかった。そのときの苦労がたたり結婚3年も経たず結核で亡くなるのである。ミレー自身もこの時代の貧しい生活が原因で生涯頭痛に悩まされる。

絵の解説に「この絵の構図と意図が謎である」と書いてあるが、私は7回目に訪れたときに私としてのこの絵の答えを見つけた。そして、その日のもらった展示品目録のカタログの下に持っていた万年筆でこのように走り書きした。

Without your sweet love  What would life be.」

これは2000年の夏、歌手の竹内まりやが18年7ヶ月ぶりに武道館でコンサートを開いたときのエンディング曲である。この曲は彼女が「結婚した後も音楽活動を続けられたのは夫である山下達郎(毎年クリスマスのなると「きっと君は来ない一人きりのクリスマスイブ・・」という彼の歌が流れるのでご存知であろう。)のおかげである。」と紹介した後に山下達郎とデュエットした「Let it be me」という曲であり、そのさびの部分がここに書いた「・・What would life be」という詞である。

すなわち「やさしい貴方の愛なしには、人生なんて何の意味があるの」と訳すのであろう(私の訳であり正確ではない)。

ミレーはこの絵にこのような思いを託したのではないかと思う。ポリーヌはミレーが売れない画家だったころの、日本的に言えば「糟糠(ソウコウ)の妻」である。薄幸の幼な妻の悲しみを湛えた微笑が胸を刺すと言ったのはそのような意味である。これ以上の講釈は要らない、奥様に苦労をかけたと思う方はこの前に立つとその意味を理解できると思う。そしてこの絵は私の人生の中で重要な意味を持つ一枚になった。

このような思いに慕っていると、有名すぎるミレーの絵があるばかりにある意味で日本的な美術館鑑賞・見学の縮図を見る場でもある。

ある一団は入館して足早に他の展示物はたいして見もせずに一番奥にあるミレーの絵に向かう。そしてその絵の前で立ち止まり、絵の値段の話をして立ち去る。特に観光バスの一団に多い。そしてある人たちはこの絵の前で「パリのあの美術館でみたけれど・・・」等など、その人の心の中に留めておいてくれればいい絵に対する知識や薀蓄も聞こえよがしに話されると品格を疑いたくなる。何度も足を運んだが故の弊害かもしれないが、いろんな人たちがいる。

ここで本当の意味でミレーを楽しむ為には展示室に入る前に2階のホールにあるビデオ「ビバルゾンの画家」を見ることを勧める。7分ほどのミレーの生い立ちから60歳で亡くなるまでの人生を紹介したものである。絵を見る前にこのビデオを見ることにより間違いなくミレーの絵を金額以外の観点から見ることができるようになる。

あせることはないこの7分間がこの美術館をより有意義なものにしてくれると信じる。私はここを訪れる度に必ずこのビデオをみた。そして心を落ち着けて展示室に入っていった。これによりミレー以外の日本画や作品も落ち着いてみることができるようになったと思う。これを見ることによりミレーの絵に何故、夕暮れの絵が多いか理解することができるであろう。これについては答えを書かない。ぜひ自ら訪れてほしい。

それにしてもこれだけの絵を310円で見られるというのはありがたい。

県立文学館

ここは何処の文学館でもそうなのであるが、難解であり、概して一般的ではない。

文学館は山梨県の出身者またはゆかりの文学者を紹介しているのであるからあらゆるジャンルに及んでいる。ゆかりの文学者をも紹介する故に、論理学で教える「外延が広くなれば、内包は希薄になる。」の命題の通り、個人の理解できる、あるいは心地よいと思う文学の範囲をはるかに超えてしまう。有名な小説家の直筆原稿を見ることは愛好者にとっては何にも変えがたい価値のあるものであろうが、有名であるとはいえ知識あるいは趣味からはるか遠い存在である小説家あるいは文士の達筆な草稿を読むのは骨が折れる。ここは、一般的にはなかなか難解であることは事実である。

ただ少しだけ、比較的分かり易い山梨県関係の文筆家、俳人を紹介するならばまず太宰治であろうか。太宰治は昭和13年、甲府盆地と河口湖を隔てる御坂峠の「天下茶屋」に滞在して小説「火の鳥」を執筆していた。その前年、薬物中毒や自殺未遂で小説を書けなくなっていた太宰はここで再起をかけて執筆活動に取り組み、この間に甲府市の石原美智子と結婚するのである。太宰はここでの石原美智子との出会い、その支えにより復活していく。とはいうもののそれから10年も経たず、玉川上水に入水自殺するのはご存知のとおりである。

ちなみにここで執筆した「富獄百景」の「富士には月見草が似合う」という名文句の文学碑が天下茶屋の前に建っている。

ここでは特に芥川竜之介、飯田蛇笏を特別に展示している。飯田蛇笏については第1篇で甲府盆地の南にある境川村の出身で、家の裏山に郷土の先人山口素堂の「目に青葉山ホトトギス初がつお」の句碑を建てていると紹介した。

飯田蛇笏については、とりあえずよく知られている私の好きな三句紹介しておく。

芋の露連山影を正しうす

八代町から南アルプス、甲斐駒ケ岳を見るとつい口をついて出る。

くろがねの秋の風鈴鳴りにけり

盆地特有の酷暑を夏を過ぎてすこし涼しくなった初秋の風情が目に浮かぶ。

冬瀧のきけば相つぐこだまかな

秩父に向かう雁坂峠の下、凍てついた西沢渓谷はまさにこの光景である。

山梨には高さはないが風情のある見事な滝が多い。

山梨に赴任してきて飯田蛇笏の俳句に触れ、俳句にはじめて正面から向かい合ったとき、会津若松時代に読んだ松尾芭蕉の紀行文「笈の小文」の書き出しを思い出した。そこにはこのようにある。

西行の和歌における、宗祗の連歌における、雪舟の絵における、利休の茶における、その貫道する物は一なり。しかも風雅におけるもの、造化にしたがひて四時を友とする。
    ☆「造化」とは自然を意味する。

要するに「これらの先達が築いた芸の道は自然の世界を感じ取る生き様である。そして、風雅の極みは自然とともに生き愛すること」という意味か。私はこのレポートの中にたびたび書いている「風雅」をこのように理解している。飯田蛇笏のこれらの俳句はこの甲州の美しい自然と四季の移ろいを見事に切り取ったものであると思っている。

このことについては県立文学館の「資料と研究第6輯」に鶴見大学教授山下一海先生が飯田蛇笏と高浜虚子の関係から芭蕉に共鳴していく過程にふれ、「蛇笏の虚子尊重の念に偽りはなかったが、その師系の下に逼塞することなく、芭蕉に到達し、芭蕉と一体化することによっておのずから自由を得て芭蕉を離脱することができた。」という論文を見つけた。

私はこの論文を見て内心微笑んだ。俳句について素人の私が山梨の生んだ近代俳句の巨星飯田蛇笏について感じたことはあながち間違いではなかったのである。

ただ、この「資料と研究第6輯」の「輯(シュウ)」の字はなんともいただけない。「集める」という意味であるが普通の人はまず読めないであろう。専門家の世界ではそのようなものなのかもしれないが、文学というものをますます一般人から遠い世界のものにしてしまっているようでならない気がする。この文学館に最初に感じたことがこのような刊行物の発行姿勢にも現れていると思うのだが間違いであろうか。

ここは桜の季節に行くのも良いが、晩秋の銀杏が舞い散り始めるころに行くことを勧める。美術館、文学館の庭は四季折々を楽しめるようになっているが、なんといっても駐車場の銀杏の並木の紅葉は見事である。この施設を作ったときに植えたものなのであろうが、月日を経ることにより落ち着きをまし、曇りの日などは日本であることを忘れさせてくれる。そして、この銀杏の黄色い絨毯を踏みしめながら美術館に入っていく情景は間違いなく大人の旅の風情を演出してくれる。従って大人の装いのお洒落をしていかれることをお勧めする。奥様とあるいはご主人と手を組みながらであればなお良いのではないかとおもう。

信玄堤

甲府駅から竜王駅を過ぎるまではほとんど直線であるが釜無川(富士川)のにいたって急に右に曲がる場所がある。そこが「信玄堤」と呼ばれる場所である。

武田信玄公は1541年、父信虎を駿河の今川義元の元に追放する無血クーデターを決行して、若干21歳で甲斐の国の国主となった。その翌年から民心の安定を図るため国内の治水を行ったとされている。特に釜無川とその支流御勅使川(ミダイガワ)の合流地点は領国のうちで一番の難所であった。

御勅使川を八田村六科(ムジナ)の西に将棋頭(ショウギガシラ)という将棋の駒の形をした石堤を築いて水流を南北に分け本流は北側に流し、釜無川との合流点では激流を衝突させて干渉させ、さらにその下にある高岩にぶつけて勢いを弱めた。さたにその高岩にぶつかってはね返った激流が反対側の堤防を決壊させないようにそこに十六石といわれる巨石を並べて水の勢いをそいだのである。

そして釜無川の東岸の竜王町の川沿いには堤防を築き、木材を三角に組みたてたものに石を載せて皮の水流を弱める聖牛等幾重にも水流を弱める工夫をしたのである。そこにこの堤防を守るための人を住まわせ年貢免除の朱印まで与えた。

そしてこの技術は江戸時代には「甲州流川除け」とし治水法の権威となったのである。

中央線韮崎駅から小淵沢までの間は中央線の中で一番のビューポイントかもしれない。右手に八ヶ岳、茅が岳、左手に甲斐駒ケ岳が鋭くそびえる間を見上げながら進むのである。特に冬の間がお勧めである。雪をいただいた甲斐駒ケ岳、八ヶ岳の壮観さはどのような表現をもってしてもそれに勝ることはない。

そしてここは車外からこの中央線を見るのもポイントである。韮崎市はその中央に一段高くなった「七里が岩」と呼ばれる高台がある。七里が岩の左側はその名のとおり釜無川(富士川)に沿って小淵沢まで断崖が続く。こちら甲斐駒ケ岳を代表する急峻な南アルプスの真下であり荒々しい光景が続く。それに対して七里が岩の左側は清里、八ヶ岳へとなだらかなスロープを描く雄大なパノラマが広がる。

この韮崎市の平地から七里が岩に向かって中央線がなだらかに登り始めるのであるが、夜、向かいの広域農道から見ると、まるで真っ暗な七里が岩を背景に「銀河鉄道」が登っていくようにも見える。さらに七里が岩の背後には見上げるような南アルプスの前にそびえる鳳凰三山が薄明かりの空にシルエットを描く。そのコントラストが見事である。「銀河鉄道」でも「999スリーナイン」であり、そこにはメーテルが長い髪を車窓にたなびかせ憂いをひめた瞳で月明かりの茅が岳(細かい点にこだわれば進行方向を背にしたメーテルの視線からは八ヶ岳ではおかしく茅が岳でなければならない。)を見上げているという情景が目に浮かぶのである。

次の駅は新府駅である。武田家が滅亡するとき武田勝頼公が居城間もない城に火を放ち終焉の地へ向かう悲劇の新府城のあった場所である。

私は甲府に赴任して間もない1999年11月の末に朝早く、車を飛ばしてやってきた。午前8時前だったろうか。車の通りの少ない城跡の前の急な階段の脇に車をとめて登った。石段のうえには神社があり大きな松ノ木が生えてはいるが野球ができそうな本丸址の広場がある。城跡の南西側は七里が岩といわれる断崖であり要害をなしていた。そして、ここを中心に武田騎馬軍団が悲劇の滅亡へと突き進むのである。この新府城の一番奥には武田騎馬軍団が長篠の合戦で織田、徳川連合軍の鉄砲に大敗をきした時に戦死した山県昌景、馬場信春、内藤昌豊、真田信綱等の武田信玄を支えた名だたる武将たちの名前の記された卒塔婆が立てられている(これは昔からあったものではなく近年何かのイベントで立てられたものであるという)。

朝早く一人で訪ねるには気味の悪い場所である。知り合いからは気味が悪いから地元の人は殆ど行かないと聞かされた。わたしの会社の社員も夜ここを通りたくないといっていた。確かに車を駐車した傍の窪地は「首洗い池」という名があった。「武士(モノノフ)どもの夢の後」である


信玄公旗掛松事件

新府駅を過ぎて長坂町に入るとすぐに日野春駅がある。ここは国蝶「オオムラサキ」が多く生息することで有名な町であり、実際、季節になると車窓からオオムラサキを見ることができる場合もある(私は二度遭遇している)。

この駅との出会いは2000年6月、小淵沢町からの帰りに県道17号線(通称七里岩ライン)を甲府に向かっていたときのことである。なぜか通り過ぎた駅の名前が気に係り、数百メートル走ったところでUターンして駅まで戻った。その駅の名はJR中央線「日野春駅」、特段変わったところもない田舎の小さな駅である。車を降りて腕組みしながら「何か気になるなあ」と駅の名前を見つめていると遠いかすかな記憶の中から25年前の青春時代の思い出が鮮明によみがえって来た。

そう、ここは法律の世界では「信玄公旗掛け松事件」として知られる有名な判例(裁判例)の現場だったのである。

1904(明治34)年中央線日野春駅は開業した。駅のそばに立っていた信玄公が旗を掛けたと伝えられていた老松が、機関車のばい煙で枯れてしまった。それを線路のそばに住んでいた清水さんとい方が国を相手にして損害賠償の裁判を起こした。甲府地方裁判所のみでなく大審院(タイシンイン 現在の最高裁判所)でも認められた。

要約すると「松が枯れたのは鉄道のばい煙と震動によるものと認められるとともに鉄道院はガスよけを作って予防できたのにそれをしなかった過失がある。」というものである。

大学に入り民法を勉強して最初に調べた判例がこれであった。今の常識からすれば当然の判決であるが、「国家権力(お上というべきか)は悪をなさず」といわれていた明治時代においては個人が国を訴えそして勝訴を勝ち取るなどということは考えられないことであった。

この裁判は「権利の濫用の法理」を認めた上で権利の濫用が不法行為として損害賠償の対象となるということを認めた我が国で最初の公害裁判ということになる。

このような有名な判例の現場がこの山梨県の中にあるということは知らなかった。若い駅員に尋ねると知らなかったが、駅長がニコニコしながら「そうですよ」と資料を持ってきてくれた。「法律を勉強していたという人がよく訪ねてきますよ。」、「原告の子孫が近くに住んでいます。」と教えてくれた。駅舎の外には「信玄公旗掛松事件」の記念碑が大きな木の間にひっそりと建っていた。

サントリー白州蒸留所

そして小淵沢駅が山梨県の最後の駅である。現在は清里と並ぶ観光地で乗馬が盛んである。そのためNHKの大河ドラマの騎馬武者による戦闘シーンはここで撮影されている。

ここでは第1篇で「山梨のワイン」を紹介した為、ここでは隣の白州町にある「サントリー白州蒸留所」について紹介しよう。

長野県との国境から少し甲府よりに走るとそこはある。入り口には銅製の大きな蒸留用のポットが目印の深い森に抱かれた南アルプス甲斐駒ケ岳の麓の施設である。サントリーのウイスキーと聞くと京都山崎の醸造所を思い浮かべる方が多いであろう。コマーシャルでは「ピュアモルトウイスキー山崎」だけが放映される。ところがここ白州では「ピュアモルトウイスキー白州」を造っている。

施設を訪れると施設の中をめぐる2通りの見学ルートがある。わたしは3回とも長い約45分のコースを選択してウイスキー造りの薀蓄を蓄えた。

オーク材の樽を再生する為に中を焼く行程は見ていてなかなか迫力がある。白州の森の中に多くの貯蔵庫がありその中に入ると天井まで積み上げられた樽から蒸発するアルコール分で子供や酒に弱い方は気分が悪くなる。

この蒸発は「天使の分け前(エンゼルシェア−)」といってその貯蔵所の構造や気候条件等微妙な違いはあるが10年で樽の半分ほどにもなるものという。これにより芳醇な琥珀色の原酒ができていく。これだけ年月をかけて熟成させまた歩留まりというか蒸発するのだから美味いウイスキーは高いはずである。サントリーの場合30年ものの「」が一番高いものである(響きが全て30年ものというわけではない)。値段は確か1本8万円である。ちなみにウイスキーの場合樽で熟成をさせてビンに詰めるときに熟成を止める為その後何年たっても熟成が進むものではないという。従って後は1年以内に飲むのがいいという。

この知識はここで初めて仕入れたものではなく1996年、家族で北海道を8泊9日のキャンプしたときに訪れた余市の「ニッカウヰスキー余市工場」で聞いた話である。このときいっしょになった集団の一人が「天使は10年でかなりの量を飲むんだな。」というと「おまえなんかその量を1年で飲むだろうが。」という絶妙の突っ込みがあって一同笑いの渦に包まれたことを思い出す。

余談になるがこの日から我家において私のお小遣いは「エンゼルシェア−」と呼ばれることになった。子供と違い「稼いでいる当人がお小遣いではおかしい。」との論議からだったのであるが、妻は別の意味を見つけていた。すなわち「私のお小遣いは羽が生えて飛んでいく。」という実態を表しているというのである。反論の余地なしである。

前回ワイン造りを紹介した為、蛇足を承知で今回はウイスキー作りを紹介する。

ウイスキー作りは、原料となる二条大麦を水に5から6日浸し、デンプンを糖質に変えるアミラーゼができたところで乾燥させ発芽を止め、麦芽ができる。麦芽を粉砕して仕込槽に入れると麦芽のデンプンがアミラーゼにより糖分に変わる。(一度、何故発芽を途中で止めるのか質問したことがある。発芽を途中で止めないとでんぷん質が残らず麦汁ができないとの答えであった。)

これをろ過すると甘い麦汁ができる。この麦汁は仕込みに使う水質のよさに左右されるため、コマーシャルで「南アルプスの天然水」で知られる名水の出る場所に立地している。麦汁を発酵槽に移し酵母を加えると糖分はアルコールと炭酸ガスに分解されウイスキー独特の香りができてくる。約3日でアルコール度数7%の「もろみ」ができる。もろみを大きな銅製の蒸留器に入れて約1000度で加熱して蒸留する。2度蒸留すると約70%の無色透明の液体ができる。この原酒はオークの樽に詰め貯蔵庫で永い眠りにつき樽材を通して外気を呼吸し、また樽の成分を吸収して琥珀色に色づきまろやかな香りがつき熟成が行われる。

樽ごとに個性の違うモルトウイスキーをブレンダーが調合してさらにまろやかなウイスキーに仕上げ再度樽に詰められ熟成される。これのみを使用したウイスキーがピュアモルトウイスキーという。これに対してトウモロコシなどを原料にしたグレーン原酒をブレンドしたものがブレンディッドウイスキーという。「響」や「ローヤル」、「リザーブ」がこれにあたる。これがウイスキーの工程である。

見学コースが終わると売店の奥に試飲室がありここで作られている「ピュア−モルトウイスキー白州」や「リザーブ」等を無料で試飲できる。これがまことに美味しい。ここでウイスキーを飲むと「酒はウイスキー一番だな。」等と、酒の本籍が「焼酎薩摩白波」の私も宗旨変えしたくなる。仕込みにつかった水を使うのが美味しいウイスキーの美味しい入れ方だという。それに入れた氷をタンブラーで「35回」まわすのがいいのだという。なぜ35回か・・・質問したが長年の経験上そうゆうものらしい。

ここでは例えばサントリーの最高級酒30年物の「響」は2000円出すことにより飲むことができる。一度飲んだが確かに美味い。30年という歳月が作り上げた絶妙の香りと芳醇さは絶品である。ぜひ一度試されることを勧める。

ただ、ここの入るときに受付で入場する人の数とドライバーを聞かれる。ドライバーには赤いシールが渡されそのシールがついている人には絶対にアルコールの入っているものは出してくれない。わたしなどはあまりの気持ちのよさに酔いを覚ます為、近くの尾白川渓谷を2時間ほど歩いて酔いを覚ました経験がある。

この売店にはセンスの良い小物とここでしか手に入らないここで作られたモルトウイスキーが手に入る。当然、そこには天使のキーホルダーもある。それはキュートなかわいらしい天使ではなく、幾分ゴッツイ「大酒のみのエンジェル」という意味なのである。その隣にはウイスキー博物館がありウイスキーとサントリーの歴史を見ることができる。さらに、入り口にはロッジ風のレストランがあり、白州の深い森と野鳥のさえずりを聞きながらリーズナブルで比較的美味しい食事を楽しむことができる。

すばらしい地名

私が出会った山梨の地名で感激したものを二つ紹介する。

その一つは芦川村の「鶯宿(オウシュク)という地名である。

2000年7月、三つ峠に登ったあとで、スズランの花が自生することで有名な芦川村に行きもう一つ新道峠に登った。ここは河口湖の裏山でこの峠から真下に河口湖そしてその正面に富士山がど迫力で見ることができる。何せ河口湖で打ち上げられる花火を上から見る、ことができる場所はここ以外にない。

ここを訪れた後、上九一色村に抜けるために芦川村役場を過ぎたあたりであまりの驚きに車をとめ書かれていた地名を眺めていた。すると竹籠を背負ったおばあさんが「どうかしなさったか」と声をかけてきた。「きれいな地名ですね。こんな地名は始めて見ました。」「鶯宿、オウシュクですよね。この地名の読み方は。ウグイスのお宿なんてとてもきれいな地名ですよ。」というと「ここの80年以上住んでいるけれど、そのような話は聞いたことがない。」「よかったらお茶でもよってけし」とやさしい眼差しで誘って頂いた。山梨で一番感激した地名と人との出会いであった。

ここで少し甲州弁を紹介しよう。甲州弁は市川團十郎も歌舞伎の荒事の言葉の荒っぽさは甲州弁にルーツがあるといわれるように少々粗野なところはあるが、私のネイティブな言語である鹿児島弁のような単語自体が意味不明というようなことはない。例えば@「けっけっけけ。」、A「さいかぶいや。げんなこっちゃったヶ。」、B「げんなかこっちゃ。」、C「むぞか」等まず意味を理解できないと思う。

ところが甲州弁は基本的には「〜け」・「〜し」・「〜ずら」をつけるだけで足りる。

疑問形は基本語に「〜け」をつける。

いますか?‐‐→いますけ?-−→いるけ?

命令形は基本語に「〜し」をつける。

そうしなさい。-−→そうしろし。-−→ほうしろし。

推量形は基本語に「〜ずら」をつける。

そうでしょう。-−→そうずら。-−→ほうずら。

上級者になればなるほど基本形が「ほう」という言葉に変形するようである。

先ほどの「よってけし」であるが前述の基本形に当てはめると、命令の形にあたる。ところがこの言葉は粗野であるとされる甲州弁の中でも最も「優しくて綺麗な言葉」であると思う。この言葉を掛けられると人の情けが感じられる。「よっていきませんか。」と声をかけられるよりなんとなく安心してその言葉に甘えたくなるのは私だけであろうか。このレポートの最後に「山梨県人と人情」というタイトルで書いているところがあるがそこでも思い起こしてほしい。

先ほど紹介した鹿児島弁の意味をお教えしよう。@「貝(アサリのような二枚貝)を取りにきませんか?」、A「久しぶりです。どうしていましたか?」、B「はずかしいことです。」、C「かわいい」という意味である。

山梨の蛍と小川

仕事で御坂町を訪ねた後、山沿いの農道を使って甲府に帰ろうとしたとき突然、南アルプスの眺望の開けた八代町に出た。あまりの見事さに車を止めて眺めた後、右手に見えた大きなイチョウの木に惹かれるように熊野神社に入っていった。境内はそれほど広くはないがイチョウの木の見事さは目をひいた。その鳥居の前の大きな切り株からその木の大きさを想像することが困難なほど大きなものである。

この町役場辺りから見る南アルプスは見事である。確かに八代町は甲州にあっても御坂山系の麓にある関係で富士山を見ることはできない。ここからはむしろ南アルプスや甲斐駒ケ岳などの甲斐が根がパノラマのように広がり、甲斐駒ケ岳を見るのはここが一番良いのではないかと思わせる。ここにくると飯田蛇笏の「芋の露連山姿正しうす」はこのような光景を詠ったものかと連想される。春先は桃の花が一面を桃源郷と変える。

山梨の果物は江戸時代から有名で「ぶどう・なし・もも・かき・くり・りんご・ざくろ・くるみ」を甲州八珍果と呼ぶようになり、甲州の名物とされた。由来は甲州が幕府の天領となる最後の領主柳沢吉保公の銘々にかかるという話もあるがつまびらかではない。

役場の前を過ぎて、笛吹川を渡るときその橋を見てびっくりした。その橋は「蛍見橋」である。なんと言うきれいな名称か。聞くところによると甲府市内にも蛍見橋という名称はあるらしい。とはいえここから南アルプス、甲斐駒ケ岳を背景に笛吹川に映る蛍の光はいかばかりであろう。昔は多くの蛍を見ることができたのでこのような名前になったのであろうか。

この蛍に関して少し気にかかることがあった。山梨に赴任してきて取引先を訪問し、また郊外を歩いたときもなぜか田んぼの水路が他の地方とは異なることが気になっていた。というのは盆地の中の水路が全てセメントで作られた水路なのである。前任地の会津若松市の白虎隊で有名な飯盛山のそばには「石部の桜」という樹齢600年の見事なさくらがあった。その当たりは「春の小川はサラサラ行くよ・・・」に歌われるようなあぜ道や小川のある里山があった。そして会津盆地のいたるところにそのような光景があった。ところがここ甲府盆地ではほとんどそのような光景を見かけることがなかった。これは会津若松市というこの甲府と似た地形の町に住み、四季の移り変わりを風雅とし友としてきた私ならではの感想だったのかもしれない。

また甲府市の南隣の昭和町役場のそばの水路に山梨の特有の源氏ボタルが水路の整備で絶滅してしまったという碑を見たことがあった。

この疑問は2000年2月18日に解決した。電車で東山梨駅に行き、フルーツパークの裏を越えて武田神社の裏山である太良峠を越え甲府市へ戻ってくる約20キロ以上のハイキングをした。その道すがらビニールハウスの中をのぞいているとそこの奥様が出てこられてビニールハウスの中で漬物とお茶をご馳走になりながらいろいろと話を聞かせていただく幸運に恵まれた。

ビニールハウスのブドウの種類や私が歩いている目的等を話すうちに、「山梨の田んぼの水路が何処に行っても整備されていますね。少し味気ないですね。」という話になった。するとその家のご主人が事細かに教えてくれた。

要約すると、「山梨県には田んぼの水路に住む宮入貝(ミヤイリガイ)に寄生する病原体によって日本住血吸虫病という地方病が猛威を振るっていた。そこで山梨県ではこれを撲滅する為に水路に薬を撒いたりしたがなかなか撲滅できなかった。百年戦争とまで呼ばれていた。そこで巨額の国の金を使って水路をセメントで整備して宮入貝の住まない環境を整備したという。その総延長が2000キロほどにもなる。そして平成9年にやっと地方病は撲滅できた。」という話を聞いた。

そのときに「だから山梨特有の蛍が絶滅したというのはそのようなわけなのですね。」という話をしたことがあった。

私がこの山梨に赴任して奇異に思った山梨の田園風景や里山のせせらぎに関する疑問が山梨県の百年戦争といわれた地方病の撲滅の為であったこと、さらにその犠牲となった山梨県の蛍の関係を知っていたため、蛍見橋という橋を見つけときの感慨はひとしおだった。

少し、長くなってしまったが、蛍見橋に対する思いはこのような経緯に基づくものである。

さらにこの八代町には「花鳥山」という小高い丘がある。なんと綺麗な山の名前であろう。ここには日本武尊が休息したときに杉橋を地面にさしたものが根付いたと伝えられる一本杉がある。ここから見る甲府盆地の夜景も見事である。特に南アルプスの日が落ちて山の端が輝きだす夕暮れが特にいいと思う。

ちなみにこの花鳥山は戦で討ち取った武者の鼻を取る山という言伝えもあると聞いた。

この八代町に関しては一つ紹介しておかなければならないことがある。私はこの「甲府勤番風流日誌」の第1篇をいつもお世話になっているクリーニング屋さんの女将さんに差し上げた。週に1度、ワイシャツのクリーニングをお願いしていたのであるが、2001年2月14日にバレンタインのチョコレート代わりと言って先ほど紹介したこの町の八代醸造株式会社の「シャトーモンターニュ」という白と赤のワインを頂いた。さらにこの会社から送られてきたこのワインが紹介された新聞記事のファックスが添えられていた。

早速その週末埼玉の自宅に持って帰り、妻と二人このワインをグラスに注いだ。そして妻は「まるで美味しい日本酒ね。それも大吟醸酒ね。」といった。びっくりした。頂いた新聞に「幻の和風ワイン」と紹介されていたのである。ワインでありながらワイン特有の渋みがなく吟醸酒のような口当たりがよいワインなのである。

このワイナリーは昭和57年5月に設立され八代町で生産されるブドウのみを使って作られるという点が売りである。甲州ワインといいながら多くのメーカーがバルクワイン(樽詰されてない状態で輸入したワイン)を混合して作っているからである。

「甲斐路紀行」は赤、白、ロゼ共に飲みやすい妻が言い得た和風ワインである。決してフランスやドイツのワインだけがいいわけではない。それぞれの民族は歴史や風土、基本的な味覚をベースとしたそれぞれの民族に最も合うワインがあるのだと思う。日本中にそれぞれの自慢の米と水を使った美味しいお酒があるように甲州には日本人に合うワインがあると思う。こだわって国内の自分にあったワインを見つけてみるのも一つの趣味として面白いと思う。


山梨の気質と人情

山梨に赴任していろんな会社の人たちと話をするとき「山梨には人情がない。」という話が良く出る。日本中を転勤している、転勤族の言葉でありあながち間違いではないのかもしてない。またびっくりすることにはあまりこのようなことを語らない転勤族の奥様方が県民気質についてネガティブな評価を口にすることには驚かされる。ということは、ビジネスの男の世界だけでなく女達の世界でもそのように見られているのである。

「車で右折するときにほとんど譲ってくれない。他人のことをあまり考えず、譲り合わない。ごみ収集等のルールを守らない。公共の場所を汚したりごみを捨てたりする。」等などなかなか大変な話ばかりである。

私は1999年9月の末にある意味で「人情という枕詞を持つ会津」から赴任してきた。初めての夜「武田信玄」の本と内藤朋芳著の「山梨の県民性(改訂版)」を買い、後者は一晩で読み終えた。そのなかにはいくつもの報告があるが概して以下のようにある。

長所として

負けず嫌いで仕事に熱心。非常に意志が強い。商売が上手い。率直で一本気。忍耐力があり覇気がある。義侠心に富んでいる。愛郷心が強い。質素倹約の風が強い。独立心が強い。実行力がある。素朴で義理堅い。

短所として

心が狭く排他的である。打算的で悪賢い。自分の利益の為には他人を省みない。他人の幸福をねたみうらやむ。協力心、団結心にかける理屈が多く感情的である。封建的である。虚栄心が強い。同情心が少ない。利己的、個人主義的である。模倣性が強く流行を追う風がある。信仰心に乏しい。広い意味での公徳心にかける。言語動作が粗野で愛嬌なく社交が下手である。

なかなか手厳しい。極端に相反する面がある。これは民間の調査ではない。甲府市教育研究調査会が昭和32年に「地域社会の実態」として公表したものである。これに限らず、昭和13年山梨県師範学校、山梨県女子師範学校共編「総合郷土研究」、昭和17年の山梨県が出した「山梨縣政50年誌」にも同じような記載がある。

商売人の堅気に関する調査の記述はもっと辛らつな、あまりにストレートすぎる表現があり、全体のバランスを失する為、ここでは割愛する。

ただこれらは人の表の顔と裏の顔、光と影のようなもので、地域を同じくする集団のいい面と悪い面として現れているのであろう。そしてその原因として偏狭な地域にあるという説や徳川時代の悪政にあるという説など紹介されている。

特にビジネスの面では甲州商人として有名な山梨県人はポジティブな方面では長所が現れ、ネガティブな場面では特にハードな商いの場面では県外の人から見たときに短所といわれる部分が際立つというのはあるのかもしれない。転勤族が良く口にするという「山梨の商売には人情がない。」というのも同じなのではなかろうか。

確かに前述の長所並びに短所に「人情」の言葉はない。ただ私は山梨に人情がないとは思わないし、私の周りには人情家であふれている。特に私の大学の恩師で仲人でもある山梨市出身の先生は「仕事に熱心で、非常に意志が強く、忍耐力があり、愛郷心が強く、質素倹約の風が強く、素朴で義理堅い」という山梨県人の長所を全て備えた方で、人情家で私の人生の師であり山梨県人はかくのような方であると思っていた。

それは一歩自分から無心にこの地に馴染もうとしているかどうかの差によると思う。袖触れ合うも何かの縁、人情はそこにあるものではなく自分から一歩相手に近寄ったときにその人の前に現れるのでなのではなかろうか。人情は自分自身をその地の人たちが受け入れてくれたときに人情を実感できると思っている。これは私自身のアイデンティティーである「薩摩の出身」であるいうことを伏せて会津に赴き、3年の間に会津の人情を実感してきた者の感想である。確かにビジネスの場ではそのような触れあいは少ないのかもしれない。しかしそれは仕事面だけしか自分の人格が相手に伝わっていないからなのではなかろうか。

約30年のサラリーマン人生の中で3年から4年の赴任地での生活を単に仕事の付き合いだけにしてしまうのは味気がない。人生の1割という期間をすごすと考えれば転勤の赴任地での生活は充実したものにする必要があると思う。

人情に関してひとつ話を紹介しよう。

私は大学2年生の夏休みに大阪の堺市に住む叔父と叔母の家を訪ね、叔父の家業のサッシ屋(当時、叔父が京都市の逓信病院の窓枠サッシを請け負っていた。ここで私は電気溶接を覚えた。)でアルバイトをした後、1週間ほど奈良と京都の旅に出た。当時流行っていた本宮ひろしのコミック「俺の空」を気取ってである。長い髪に、ラッパズボンのジーンズ、ミラーのサングラスという当時としては一般的な若者の格好である。

奈良公園の側の路地を歩いていたとき軽乗用車を脱輪させ難渋しているかなり高齢のお坊さんを助けた。それが縁でそのお寺を訪ねたら泊めて頂けることになった。その和尚さんは私のことをかなり気に入っていただき3日間いろんな話をしてくれた。というより和尚さんが私に話して聞かすことが3日分もあったというほうが正しいかもしれない。「人の格」、「徳」、「自我」、「人情」、「本物」に関する話があった。四国のお遍路さんの話のくだりで「人情は純粋な気持ちで相手に一歩近寄る努力をしたときに生まれる。」という言葉があった。その他「相手を悪く言うことは慎みなさい。貴方もそれだけの人間になってしまう。」ともいわれた。

このとき私はやせ我慢で本堂の隅で寝かせてもらった。とても怖くて1日だけになってしまったが、本堂の本尊様の存在に圧倒された為である(単にひっそりした本堂が怖かっただけなのであろうが)。翌日、その話をすると、それは鎌倉時代のもので由緒あるものだという。その夜、和尚さんから「偽物をいくら見てもだめだ。本物をちゃんと見なければだめだ。本物でしか本物を見る目は養えない。」と教えられた。

当時の私は法学部の学生で我妻栄博士の「民法講義」、團藤重光博士の「刑法要綱」を傍らに抱え、法律的な三段論法と論理的整合性をこよなく愛していた。人を愛することにも合理的な理由が要り、石川達三の「青春の蹉跌」を愛読していた。そのような環境にあった私にとってこの3日間は別次元の世界の話であった。そして、それから25年経った今でもその3日を鮮明に思い出すことができる。いまだにあのときの和尚の言葉は昨日の事のように脳裏に浮かんでくる。人生の中でも貴重な3日間であった。

ミレーの絵を見るために山梨県立美術館にひたすら通っているというのは和尚の教えによるものである。さらにこの山梨でも教えに従って「無心に自分から相手に近寄る努力」をしている。そしてここを離任する時には私はきっと「仕事は大変だったけれど山梨の人情に触れて楽しかった。」というだろう。


あとがき

最後の章を書き終えた翌日、思っても見なかったことが起こった。2001年3月9日、私に江戸城詰の内示があった。その夜、埼玉の自宅に帰るあずさの車窓からみえる弥生の望月がなぜか悲しげに輝いていた。

1週間前、昼食でお世話になっている甲府城のそばの喫茶店「ヴァリアンテ」(ここの昼食は魚と、肉の二種類であるが1年半通って同じメニューが出たことがない。)で知り合いになった皆様と飲み会を開き、山梨の隠れた名所の情報、薀蓄など等を交換し、春になったら鳳凰三山に登る計画を立てて盛り上がっていた。仕事を離れた忘年会や飲み会は転勤族としては最高にあり難いお付き合いをさせていただいた。さらに最後の日に送別会までしていただいた。

書きたいことはまだまだあるがこの「甲府勤番風流日誌」を山梨で出会い、話を聞かせていただいた全ての人々に心から感謝するとともに山梨の皆さんにさ捧げて終えることにする。

甲府勤番 



HOMER’S玉手箱 麹町ウぉーカー(麹町遊歩人) 会津見て歩記 甲府勤番風流日誌 伊奈町見聞記 鹿児島県坊津町