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郡内(グンナイ)

山梨県において郡内というのは甲府盆地を国中(クニナカ)というのに対して東部を占める三市二郡(富士吉田市、都留市、大月市、南都留郡、北都留郡)をいう。その中でも紹介しておきたいことは現在の郡内地方の織物産業ルーツとも言うべき甲斐絹(カイキ)である。これについては2000年11月17日、富士吉田市から大月市まで桂川沿いに20キロ以上も歩きながら自分足で調べてきた。

朝早く甲府駅発富士吉田行きのバスに乗り、8時前に富士急行富士吉田の駅に着いた。目の前には快晴の朝日を受けた富士山が山頂に少しだけ雪をいただいて日本人の心の中の富士山のあるべき姿に近い形で鎮座しておられた。まさに霊峰である。

この富士山を背にして金鳥居をくぐり、その先の交差点にある「左は甲府、右は江戸」と書かれた古い石の道標に従い、江戸方面に下っていった。

その途中に小室浅間神社を見つけた。この神社は坂上田村麻呂が東征のときこの場所から富士山に向かって祈願し、その願がかなったとして社を作ったとされている。

境内に入り清める為に水の湧き出ているところで手を洗おうとしたとき、そこの梢の間から見えた富士山が神々しいことに感激した。確かに田村麻呂も感激したに違いない。この神社は流鏑馬で有名である。境内には白い馬を神馬として飼っている。

さらにこの社殿の脇に植えられている桂の木は天然記念物とされている樹齢600年の桂である。この桂の木は縁結びの木とされているが、その訳が初めて分った。落ち葉を拾ってみるときれいなハートの形をしているのである。

このルートは国道130号線沿いで相模川(地元では桂川といわれる)に沿って進むことになる。その間私が振り返ると富士山が見つめてくれていた。富士吉田市から西桂町に入り左手に三つ峠を眺めながら都留市へと進む。三つ峠はNHKの朝の中継で富士山を写す場所である。今年の春この御坂峠口からこの峠に登り富士山を堪能してきた。

水に恵まれた町であり家の前を流れる小さな流れに水車を作りその中に芋をいれて皮をむいているものを見かけた。その脇に柿がたわわに実りまことに日本的な秋の光景である。

都留市に入るとすぐに鹿留(シシドメ)入り口という看板が見えてくる。ここは私にとって特別な場所である。10年以上も前、鹿児島支店に在任中、この奥にある「ホリデイロッジ鹿留」のオーナー関口さんの記事を読んだことが燻製作りのきっかけになったのである。その記事にはこのように書いてあったと記憶している。

「北欧を旅行していたとき、飛行機の機内食でスモークサーモンが出され、その味が忘れられずに自分で虹鱒を養殖し、スモークするようになった。最初はうまくいかなかったがそのうち都内の有名なホテルにも納めるようになった。」というものだった。

この記事を夫婦で読み、燻製の本を買い集め、勉強して我家でもはじめた。ただ私は、魚は一切行わず、牛タン、ベーコン、スモークチキン、ハム、などである。それなりの味になり周りの評価は得られていると自負している。

甲府に転勤してきてあの記事の場所がここであることを知り、仕事のついでに訪ねた。そこにはそのご読んだ雑誌に載っていた氏が使っていたドラム缶で造ったスモークハウスがあった。わたしはロッジのレストランにはいりスモークハウスのある前のテーブルに座り、自分の趣味の原点となったスモークハウスを見ながらゆったりしたランチを楽しんだ。当然その中に名物の虹鱒のスモークも入っていた。

一度は妻を連れてこなければならない場所である。なぜなら我家のスモークはもともと彼女の趣味として始まった。ただ、大きな肉の塊の扱いはワイルドであり男が行うのが似合うということで私の趣味になった。さらに、私はこの燻製が縁で、カスタムナイフ作りに入っていく。そして96年には、この燻製の本の出版社の人たちと那須高原で行われるナイフの企画キャンプに参加して日本一のカスタムナイフメーカー相田義人氏(間違いなくスットクアンドリムバーといわれる製法の元祖ラブレスの日本における承継者であり第1人者である)とツウショットの写真を「フィールドアンドストリーム」という少し上級者向けのアウトドア雑誌に載せていただくことになる。

さらにここは最高のフィッシングエリアを持っている。ルアーでもフライでも楽しめるすばらしい場所である。

この道は「ズイズイズコオロバシ ごま味噌ズイ、茶壷に追われてドッピンシャン・・」と歌われた「お茶壷道中」の道である。江戸のはじめ後の述べる秋元但馬守泰朝が谷村城主となったときに江戸幕府はそこに幕府御用のお茶蔵を作った。そこへ産地から運ばれてくるお茶の行列に大名行列のような土下座をするくらいなら家に入って戸をピシャと閉めるというのがこの歌の意味である。ここを訪ねる前の日に仕入れた情報の確認に歩いていたのである。

郡内織・郡内縞(グンナイシマ)・甲斐絹(カイキ)

都留市の谷村地区に入るとそこが甲斐絹の一番の産地である。

山梨は古くから絹織物が生産され甲斐絹と呼ばれていたが、特に郡内地方から生産された物を郡内織、そん中でも縞模様のものを郡内縞と呼ばれ江戸時代「甲斐のみやげになにもろた郡内縞にほしぶどう」といわれるほど知られていた。

特に郡内で盛んになったのは、江戸時代の初めに秋元但馬守泰朝が谷村勝山城主となりその後1703年まで3代にわたり領内に絹織物を奨励した。桑を植えさせ、以前の領地上州から新式絹織機を取り寄せ領民に貸し与えたことにより、飛躍的に生産が伸び、日本中に知られていく。

江戸時代の初期にもかなり知られていたらしく、井原西鶴の「好色一代男」、「好色五代女」の中にも郡内縞が書かれており、「八百屋お七」の帯も郡内縞だといわれている。なお、八百屋お七の振袖火事の後、この谷村に松尾芭蕉が秋元但馬之守の家臣である弟子を頼って一時身を寄せたといわれている。

明治時代になり山梨県最初の知事である藤村紫郎県令により「甲斐絹(カイキ)」と呼ぶように定められた。そしてそん伝統も昭和19年をもって歴史から消えていくのである。戦争による贅沢品排除により、郡内の機織の音が途絶えてしまったのである。

もう少し甲斐絹について述べるならば甲斐絹は江戸の後期から明治にかけては羽織の裏地であった。それは絵柄が入ったもので、かなり高価なものである。

これについて詳しく知るためには都留市商家資料館を訪ねる事を勧める。案内の方かかなり詳しく、私は40分も解説を聞いてしまった。ちなみに絹問屋であった旧仁科家の住宅を利用したもので入館無料である。その贅を尽くしたつくりには当時の繁栄ほどが偲ばれる。



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