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市川團十郎発祥の地・三珠町

甲府盆地の南に位置する三珠町は歌舞伎の市川團十郎発祥の地であるとされている。この地は武田信玄の異母兄弟一条信龍が富士川沿いに攻めてくる敵を迎え撃つために上野の地に城を築いた。その家臣に武田信玄の能の師匠をしていた堀越十郎家宣がいた。武田勝頼公が織田・徳川の連合軍に敗れ、勝頼公が自刃、一条信龍も自害する。そして堀越十郎家宣は一宮の石原家に家系図を預け、一族ともども代々信仰していた不動尊をたよりに下総国(千葉県)成田方面に逃れ住み着く。

その孫の重(十)蔵は弟に田畑を弟に譲り江戸に出る。その子として生まれたのが蝦蔵(エビゾウ)である。そして14歳で初舞台をふみ芸名を市川段十郎(この段は間違いではない。)と名乗った。芝居で紅と墨を使い、顔に隈取りをして、斧を持って激しい立ち回りを荒々しく演じた。これが好評を博し、後に荒事と呼ばれ、市川家の芸風の基礎を作る。20歳になり団十郎を團十郎と改める。「国構えに専らと書く。日本で一番えらい役者という意味だ。」と言う意味で文字通り日本一の役者になる。ただ、初代市川團十郎は役者仲間の生島半六に刺されて45歳の生涯を閉じる。これが市川團十郎のルーツが西八代郡三珠町であるゆえんである。ちなみに現在の12代市川團十郎の本名は堀越夏雄氏であり、三珠町の名誉町民でもある。

現在、一条信龍の城のあった甲府盆地南の甲府盆地を一望する曽根丘陵に歌舞伎文化公園が建てられている。そこは江戸歌舞伎の最高峰市川團十郎に関する市川家寄贈の資料が展示されている。中に入ると9代目市川團十郎の市川家一八番の演目「(シバラク)」の写真が迎えてくれる。初代から、12代市川團十郎の役者絵と写真それぞれの紹介がかかれている。

一条信龍の館址は蹴裂神社(ケサキ)となっていたが昭和のはじめに五代目市川三升がこの地に「市川團十郎発祥の地」という標識を建てた。それもいつしか朽ち、第11代團十郎が再度建てたがそれも朽ちたが、現在の團十郎がまだ10代目市川海老蔵の昭和59年11月に顕彰碑をこの地に建てることになった。

私は2000年11月19日に朝早くたずねた。中に入ると案内の男性がおり、客が私一人であったこともあるが1時間近く話を聞かせてくれた。それは私があれやこれや質問したこともある。

資料館の外は牡丹園になっている。そしてその中央に正面に「市川團十郎発祥の地」と刻まれ、上部には市市川團十郎発祥の地の碑川家の紋「三升」、右側面にはイライラが募って竹の根を抜こうとするがなかなか抜けずに体が赤くなるという初代の役者絵「竹抜き五郎」が浮き彫りにされている。ちなみに市川家の花とされている牡丹の花であるが2代目團十郎に由来するとされる。2代目の贔屓方であった江戸城大奥に権勢を張った絵島(?確かな記憶ではないが)が2代目に送った着物の柄が牡丹であったところからそれを使うようになったという。

この碑の前であれこれ考えていると資料館の女性が市川団十郎家に関する詳細な冊子を届けてくれた。先ほど案内してくれた方が私のような人にこの資料を持っていただきたいというコメント付であった。なんと光栄なことであろうか。

歌舞伎はいろんな意味で市川家のルーツ甲州が影響を与えている。

まず、市川家の家紋の三枡は三つの枡が3個重ねあわされたデザインである。歌舞伎の役者絵にも誇張された袖に市川家の三枡が描かれていることから目にされている方も多いであろう。一番大きなそとの大きな枡が甲州枡、中の枡が京枡1升、中央の枡が京枡五合である。甲州枡は京枡の三倍、三升である。

ここから市川家が歌舞伎の芸名では「團十郎」を使うもののそれ以外の書や絵の場合には「三升」を使っていることが理解できるであろう。

さらに現在の團十郎の話によると江戸歌舞伎の荒事の言葉の荒っぽさは甲州弁に起源があるとのことである。

市川の姓は、この三珠町の隣が市川大門町であることと何か関係があるのであろうか。初代の団十郎は自らのルーツがここ市川の庄にあることを知っていたのであろう(諸説あり初代の團十郎が千葉県市川の生まれというのもある。)。また歌舞伎の舞台で「成田屋!」と声をかけられる意味も団十郎の先祖が甲斐から成田の庄に逃れたからということに起源があることをご理解いただけるであろう。


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