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昇仙峡 

甲府市における最大の観光地は市の北部荒川上流にある昇仙峡であろう。昇仙峡の入り口天神森から約3キロ上流の仙峨滝まで日本一と評される渓谷が続く。白い花崗岩の岩がいろんな造詣をなしそのネーミングを推測しながら歩く1時間ほどの散策は楽しいものである。テト馬車と呼ばれる人を乗せて運ぶ観光馬車がコトコトという蹄の音を渓谷に響かせながら行き来する。

そして上に行くにしたがって天にそびえる中国の山水画を思わせるような奇岩が現れる。その最高峰が覚円峰である。その昔、覚円というお坊さんがこの上で座禅を組み、修行をしたのだという。山梨の昇仙峡を紹介する写真は必ずこの覚円峰である。それを過ぎ最後に仙峨滝が現れその上が昇仙峡の終りとなっている。覚円峰

ここは心地よい秋の日差しを受けた紅葉の季節に行くのもいいが、雨だからといって悲観することはない。雨に煙る覚円峰を一目見たらその神秘さに心を奪われるであろう。ぜひ雨上がりの覚円峰を見ることを勧める。間違いなくそこには仙人がいる。そのような気がしてくる。

昇仙峡は天神森の入り口から上に登りながら楽しむのに限る。下りながらだと楽そうなのであるが、昇仙峡の良さを十分に楽しむことができないようである。

私がはじめて昇仙峡を訪れたのは、甲府に転勤してきた1999年10月の末であった。ただ、行き方が普通とは少し(かなりというべきか)違っていた。甲府市の荒川橋から相川に沿って真っ直ぐ北上し、緑ヶ丘スポーツ公園の脇を抜け、県道50号線に入り、和田峠を越え、千代田湖を抜け昇仙峡の入り口天神森まで行き、そして昇仙峡を上まで歩いていった。3時間半の行程だった。昇仙峡に歩いていったという話をしたら皆に笑われた。

道すがらアケビが紫色に熟していたので木に登り幾つかとって食べていると、観光客が声をかけてきたので3個ほど採って差し上げた。「こんなのが食べられるのですか。」などというので、種をペペと吐き出しながら美味そうに食べて見せると恐る恐る食べていた。それにしても自然の食べ物を知らない大人も多い。

ただこの旅はある意味で山梨に来て一番いやな思いをした旅でもあった。私は歩いていった目的地でビールなど飲むことはほとんどないのであるが、この日暑かった事もあり仙峨滝の上の茶店で蕎麦とビールそれに岩魚(?)の塩焼きを注文した。ところが驚いたことにこの塩焼きが1本700円だったのである。これにはびっくりした。そして山梨の観光の陰の面を垣間見た。そして山梨に対する見方が大きく変った。それから観光的なもには極力近寄らないことにした。

 「ほうとう」もしかりである。うどんをそのまま煮込み、カボチャ等の野菜を味噌と煮込むものである。もともとは陣中食であり、甲州名物とされる。ところがこのほうとうは何処に行ってもみな高い。1100円を下らない。いくら観光地とはいえうどんの1100円はいくらなんでもリーズナブルとはいえない。「うどん」ではない、「カボチャほうとう」だというのだろうが、それだけの付加価値があるものといえるであろうか、観光客として幾分不機嫌になるのは事実である。

その点、郡内地区、特に富士吉田のうどんは町の名物として安くて美味しく各店が競い合い、町興しになっている。有名なカード会社の会員誌の表紙を飾るようなうどん屋でも1杯350円である。とても素朴でどちらかといえば汚いところである。この値段もさることながらみな美味い。郡内と国中という歴史的な差もあるかもしれないが、ほうとうは一度食べたら二度と食べるという人は少ない。少なくとも私の周りでは聞かない。これが名物でいいのであろうか。

穴切大神社

甲府警察署の前の大きな通りを西に入り、突き当たりの路地を入ると「穴切大神社」がある。この山門の随神門は周りの住宅街のありようとは異なる荘厳さと異様を誇っている。この神社は神仏混合の名残があり、大きな鳥居の後ろに参門がある。穴切明神

ここは甲府盆地の湖水伝説の穴切明神を祭っている。神代の時代、甲斐の国が湖であったころ国司がここを巡視に訪れ、水を抜けばいい田が得られると考え、神に勧進した。神は人夫を集めて、鰍沢の下を開削して水を落とした。この神が「穴切明神」であるという。

この神社とこの伝説を知ったことが私を大変なことに駆り立てたのである。甲府からそこまで歩いていこうと思い立った。そこまでというが甲府から約20キロ程の場所である。ところがこの想いはその先の約40キロもある身延町へと伸びていった。

2000年9月10日、朝6時に甲府市の荒川橋の社宅を出てひたすら南を目指した。

田富町のリバーサイドといわれるショッピングセンターの脇を抜けて、富士川にかかる朝原橋に至ったのが8時ごろであった。ここから約4キロ先の市川大門町の三郡橋をめざすのであるが、そこまで見渡せる退屈なひと時である。なぜか大黒摩季の歌の台詞を思い出す。「未来が見えないと不安になるけど、未来が見えすぎると怖くなる。」確かに先が見えすぎる富士川(釜無川)沿いの1時間の単調さは苦痛だった。

三郡橋を右折して甲西町に入った。それから増穂町に入り、鰍沢(カジカザワ)町に入ったのは午前10時ごろで日差しが強く息が上がりそうになっていた。ここまで20キロ以上は歩いていた。

この鰍沢はその昔富士川舟運の拠点として賑わった場所である。甲州の年貢をこの川を使って太平洋岸の富士まで運搬し、それから江戸まで船で廻船するのである。当時の賑わいを彷彿とさせる山車がのこっていた。その脇に面白いものを見つけた。

落語の名人三遊亭円歌の「鰍沢」発祥の地の案内板である。

一度しか聞いたことがない落語なので正確ではないが、「その昔、身延詣で一人の若者が帰りに鰍沢にある小室山に参拝しようとしたところ帰りに突然の大雪で足止めとなる。若者の懐が暖かいことを知った、盗賊が彼から何とか金を奪おうと毒入りの玉子酒、鉄砲で追いまわされ、谷底に落ちる。ところが小室山のご加護により筏の材木につかまって助かるという話である。オチは「材木」にすがるが「題目」すがるというものであった。思わぬものを見つけてしまった。

国道52号線が富士川沿いを走り始めるとすぐに「禹の瀬」という場所に神社がある。

私はこの「禹の瀬(ウノセ)」という地名を見た瞬間にここが穴切大神社が湖に沈んだ甲府の盆地を切り開いて水を流して場所であると実感した。

この「禹の瀬」という地名は、一見すると富士川の流れが激しく波立っているところから海で使う「瀬」という言葉を使ったと思われそうであるが、それは明らかな間違いであるということは確信していた。この瀬というのは「大地の割れ目」という意味であろう。数年前家族で故郷鹿児島に帰り、会津若松に戻る途中に阿蘇山をたずねた。阿蘇山の外輪山の入り口に「立野の瀬」という看板を見つけ、妻が「なぜこんな山に瀬なの」と質問された。「なぜだろうね。」などと話しながら少し走るとそれはすぐに解決した。そこには「TATENO DIVISION」という看板があったのである。すなわち「立野の割れ目」という意味だったのである。二人でこの方がわかり易いなと言ったことを記憶していたからである。

神社の少し脇に蹴裂神社(ケサキ)をみつけた。この神様は穴切大神社ともにここを切り開いた一人である。

甲州の昔の人たちはここを神話の土地としてちゃんと意識し、地名に残し神社を建てて祭ってきたのである。通勤途中で見つけた小さな伝説を実感できたことでこの旅の目的の一つを達成し、そして一人微笑んだのである。

そして暑い日差しを受け脱水症状になりそうになりながら中富町を抜け、早川大橋を渡り、身延町にはいった。そして富士川を渡り、信玄の隠し湯といわれる下部温泉のある下部町に入り波高島(ハダカジマ)駅にたどり着きこの旅を終えた。38キロ、約10時間の行程であった。そしてこの後、貴重な出会いと経験をするのであるがそれはまたの機会にする。



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