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山梨名物「信玄餅」と「目に青葉・・」

山梨から長野に抜ける国境の小さな町が白州町である。南アルプスの山麓に「サントリーの白州醸造所」があり、小淵沢や清里を訪れる観光客が訪れている。

ここは山梨名物の「信玄餅」の元祖といわれる金精軒のある場所である。この信玄餅なるもの昔からあったものではないようで昭和40年代になって有名になったものだという。桔梗屋さんの信玄餅が一躍有名になり、いまでは山梨を訪れる人は必ずといっていいほど「桔梗信玄餅」を買って帰る(信玄餅の商標権に関する裁判があったと聞く。)。

ただ元祖は元祖としての信玄餅の特徴は十分に持っているようである。ビニールの包みを恭しく解き、器をその包みの中央に置く。そして餅の上にかけられた黄な粉の袋を取り、中の餅の上に黒蜜をかける。そして紙の袋に入れられた黄粉をまぶして食するのである。桔梗屋さんの信玄餅は黒蜜をかけてそのまま食べるのであるが、金精軒の餅はその上に別のきな粉をかける点が異なる。この点が老舗というか、元祖というか作法ばっていて愉快であり、威厳を放っている。それに中の餅が桔梗屋さんの餅より歯ざわりがよく高級感がある。

私が昼食は甲府市内のヴァリアンテという喫茶店(スナック)でとっていた。そしていつもいろんなお客さんと会話を楽しんでいたのである。そこに来られるお客さんが「金精軒の米の粉と小豆はいいものを使っている。」という話をしていたらしい。

白州町金精軒の斜め向かいは清酒「七賢」で有名な酒蔵がある。明治天皇行幸の折、宿舎となった場所といわれ、その堂々とした柱などかもし出す雰囲気は歴史を感じさせる場所である。軒先にかかる酒林(サカバヤシ 杉の葉を丸めた看板)は酒どころ会津でもなかなか見ることがない大きなものである。

ちなみにこの白州町は「目に青葉山ホトトギスはつ松男(カツオ)」の俳句で有名な江戸時代の俳人山口素堂出生の地である。私はこの俳句の作者が山口素堂であり、甲州白州町(去来石村)のでであることは知らなかった。これだけ有名な俳句であるが素堂の名前は知られていない。私はたまたま松尾芭蕉の「野ざらし紀行」の序に「かつしかの隠子素堂」、「素堂老人自筆の序」という名があったのは知っていた。調べてみると素堂は去来石村で生まれ、甲府に出て商売で成功した後、家督を弟に譲り、江戸に出て俳句の道に専念したらしい。芭蕉と同時代である。

俳句雑誌「キララ」や「雲母」で有名な俳人飯田蛇笏は山梨が生んだ偉大な俳人であるが、彼はこの素堂を郷土の先人として私淑していたらしく自宅(境川村)の裏山にこの句の碑を建てているという。


オイラン淵と柳沢峠

柳澤峠

甲州が武田氏の時代、塩山市から東京都奥多摩に向かう国道411号線(青梅街道)の柳沢峠の少し奥多摩よりに下った所(正確には塩山市と丹波山村の境)に隠し金山の一つ「黒川金山」のあった。ここには金山で働く工夫を慰めるために多くの遊女がこの地に住まわされた。ここを閉鎖するときに渓谷の上に踊りの舞台を作りこの上で踊らせ、口封じのためにその舞台の蔦を切って川底に落として殺したという言い伝えが残っている。そして死んだ女達が流れ着き遺体を回収した場所がオイラン淵である。なんと55人の女達が殺された、まことにむごい話である。

私はこの話を会津若松から甲府支店への転勤が決まり、引継ぎの為はじめて甲府に向かう特急スーパーあずさで隣に座った方から聞いた。「怖い場所だよ。ぜひ一度は訪ねてみたらいい。」といわれ、自宅のある埼玉から車で山梨に行くときには、高速道路を使わずに、青梅から奥多摩から丹波山村を抜け、大菩薩峠を越えて塩山市に向ける青梅街道ルートをとった。

奥多摩を抜けて奥多摩湖の一番奥は山梨県との県境の村丹波山村(タバヤマムラ)であるが、そこに入ってから30分以上走ると深い渓谷になりその途中から塩山市になる。春先の新緑や晩秋の紅葉は尾瀬の入り口、奥会津檜枝岐村に劣らないであろう。この塩山市に入る境の川がオイラン淵である。夜走ると、行き交う車も無くとてもさびしい場所で、バックミラーを見ることができない程、怖い場所である。殺されたのが若い女達だけに若い男にはたたるといわれる。ここには確かに何かがいる。背筋を凍らせながら20分も走ると大菩薩峠の少し北側に位置する柳沢峠に出る。ここから見る富士は雲の上に顔を出した趣のある富士山である。

ここにくると何故か青春のころ耳にした詩を思い出す。皆さんもご存知であろうこの詩である。

「遠い地平線が消えふかぶかとしたよるのしじまに心を休める時

遥か雲海の上を音もなく流れ去る気流は

たゆみない宇宙の営みを告げています。

満天の星をいただくはてしない光の海を

ゆたかに流れゆく風に心を開けば、

きらめく星座の物語も聞こえてくる

夜の静寂(しじま)の、なんと饒舌なことでしょう。

光と影の境に消えていった遥かな地平線も

瞼に浮かんでまいります。

夜間飛行のジェット機の翼に点滅するランプは、

遠ざかるにつれ次第に星の瞬きと区別がつかなくなります。

・・・・」

そう、あの「JET STREAM」のオープニングソングの「ミスターロンリー」と城達也氏の重厚なナレーションが頭に浮かんでくるのである。私にとって、ここから見る遥かな富士山はこのイメージである。

私は2000年の夏、100年ぶりという月食をここの峠から見たくてほとんど行き来する車のない夜の山道を越えてやってきた。そして9時過ぎ、一人この峠にたたずみ高まる気持ちを抑えながら月食を楽しんだ。この日、私の心は興奮で震えていた。その訳は、この峠に至る前にアマチュア無線家としての貴重なそれも胸が躍る経験をしたからである。

奥多摩湖の終点あたりの駐車スペースに車を止めたらダムの向かいにアマチュア無線のアンテナを上げているグループがいた。いたずら心から、車のパッシングライトを「- -  ・ -   ・ - ・  - - ・・ 」」と二回照らした。すると向かいの車が突然移動して私のほうにライトを向け「- -  ・ -   ・・・  ・ - ・・」と返してきた。なんと私の遊びを理解して反応を示してくれたのである。これは無線で使うモールス信号で「私は誰かこちらを呼びましたか」ということを意味する「QRZ」という信号を送ったのであるが、相手方はこれを理解して「了解しました」という「QSL」の信号を送ってきたのである。これにはさすがに私も慌てた。

さらに相手方は「430 QSY」と送ってきた。これは「430メガヘルツに移れ」という意味である。早速、車につけてある無線機に電源を入れ指定の周波数に合わせると「こちらは「QRZ JA1○○○です。誰かこちらを呼びましたか?」と呼び出しがきた。「了解、こちらは Seven、November Three Bravo Mike Juliet Portable One   7N3BMJ/1初めまして。H○○と申します。冗談でモールスを送ったのですが応えていただいて光栄です。ハムになって初めてのことで興奮しています。」というと向こうも初めてのことらしくびっくりして信号を送ったとのこと。八王子の団体であったが、お互い興奮しながら楽しい時間を過ごした。

そして「最後の挨拶はライトのモールス信号でお願いしたい」と伝えたところ、対岸から「 ・−・ 」(Rで「ラジャー」了解したの意味)の後、「- -・・・  ・・・--」(73)と送ってきた。私は相手方に女性が含まれていたので「- -・・・  ・・・-- /  - - -・・  ・・・--」(73/88)と送り返して興奮のひと時を終えた。信号を打電する手が震えていた。

 前の信号の「73」は男性に対して「敬意を持ってこの送信を終了する」という意味で使うもので、後段の「88」という信号は「love and kiss」という女性に対して敬意を表して交信を終えるときに使う符号である。無線家(HAM)冥利に尽きるひと時であった。これで興奮しないわけがない。アマチュア無線家らしい遊びである。

山梨から首都圏に帰るとき毎度渋滞する中央高速道路を避けて、多少時間はかかるが勝沼のインターを下り、ワイナリーでワインを買い、この峠を越え、渓谷をめでながらゆっくりと帰るのが風流であると思う。このオイラン淵の少し上に「黒川金山名水」という美味しい水が出ている。



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